1 失意の王子と、一歩先を導く侍女
離宮の中庭は、遠くで鳴る鐘の音だけが響いていた。
第一王子ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノは、杖を頼りにゆっくりと歩いていた。視力を失った今、足元を探る動作は自然と慎重になる。
石畳の感触、わずかな段差、曲がり角の位置。
それらをひとつひとつ確かめながら進むその姿は、かつて王宮を颯爽と歩いていた頃とは、別人のように違っている。
そんなルチアーノの正面から、大きな靴音が近づいてきた。
わざとらしく、こちらに聞かせるような歩き方だった。
「やあ兄上。今日も一人でお散歩か?」
聞き慣れた声に、ルチアーノは足を止める。
「……何の用だ、リカルド」
「冷たいな。弟が兄を見舞いに来ただけじゃないか」
第二王子リカルド・ディ・ヴァレンティーノ。
声の位置が、必要以上に近い。視力を使えない今、その距離感ははっきりとした圧になる。
そこへ、扇が開く音が重なった。
「あら。本当にこちらにいらしたのですね、殿下」
甘い香水の匂いとともに、柔らかい声が届く。
「王宮とは違って、とても静かですこと。……お一人だと、少し不安になりません?」
元婚約者であるセリーヌの言葉には、心配よりも試す響きがあった。
見えない相手が、どこまで把握できているのかを測る声だと、ルチアーノはすぐに察する。
「心配には及ばない」
「へえ。強がりは相変わらずだな」
リカルドが一歩、前に出る。
盲目の相手に対して、位置をずらすだけで優位に立てることを、彼はよく知っているようだった。
「でもさ、足元って案外危ないだろ。こういうところがな」
次の瞬間、肩に衝撃が走った。
「――っ」
体勢が崩れ、杖が手を離れる。杖の転がる乾いた音が、中庭に響いた。
見えていれば、避けられた。
だが今のルチアーノには、リカルドにぶつかられた方向も距離も、即座には判断できない。
「おっと、悪い悪い。見えなくてさ」
含み笑いが、やけに近い。
「兄上も気をつけないと。その杖、ないと困るだろ?」
嘲りを孕んだ声に、思わず憤りかける。
視力を失ったことそのものを、利用されていると感じた。
ルチアーノが言い返すより早く、別の声が割って入った。
「殿下、杖はこちらにございます」
落ち着いた女性の声だった。
すぐ近くで止まり、次いで、右手に馴染んだ感触が戻される。
「正面に段差はございません。右足を半歩前へ、ゆっくりお立ちください」
引っ張られない。押されもしない。
示された通りに身体を起こすと、重心が戻り、足元の不安が消えた。
「……あなたは?」
「王宮侍女見習い、ロゼッタ・マリーニと申します」
名乗る声も、距離も、すべてが一定だった。
「余計な真似をするな」
リカルドが舌打ちする。
「転ばれた方へ手を差し伸べるのは、当然のことでございます」
「兄上は繊細なんだ。刺激しない方がいい」
守るふりをした侮りが、言葉に滲んでいる。
「そうでしょうか」
ロゼッタの声は変わらない。
「殿下は、ご自身で立っておられます。私にはそう見えました」
「……侍女の分際で、生意気だな」
セリーヌが扇を揺らす。
「王太子殿下だった方に、随分馴れ馴れしいですこと」
ロゼッタは一歩も引かなかった。
「殿下、ご無理はなさらず。歩幅に合わせて進みます」
半歩前に立つ気配がする。
近すぎず、遠すぎない距離。
そのとき、ふと香りが届いた。清潔な石鹸の香りに、微かな柑橘が混じっている。
見えなくても、近くにいる人間の気配はわかる。その香りは、警戒心を煽らなかった。
「……礼を言う」
短く告げると、ロゼッタは小さく息をついた。
「お役に立てて何よりです、殿下」
リカルドが再度舌打ちをした。
「まあいい。今日はこのくらいにしておいてやる」
「そうですわね。……離宮の空気は、どうも湿っぽくて」
二人の靴音が遠ざかっていく。
中庭に残ったのは、杖を手にした第一王子と、半歩前に立つ侍女だけだった。
「殿下、少し歩きましょうか」
「……ああ」
歩き出すと、先ほどの香りが、一定の距離でついてくる。
見えないことは変わらない。だが見えないからこそ、誤魔化されないこともある。
(……私を侮らない人間がいる)
それだけで、胸の奥にわだかまっていたものが動いた。
今は、踏みつけられる立場にいる。
視力を失い、王宮から遠ざけられ、嘲りを向けられる側だ。
(だが――このままで終わるつもりはない)
自分を利用して笑っている者たちの顔を、いつか逆の立場から見下ろす日が来る。
そのために必要なものは、まだ手の中に残っている。
判断力。立場。
そして――世界を成立させる人間。
失意の王子と、一歩先を導く侍女の物語は、この日から始まる。
それはまだ恋とも呼べず、救いとも依存とも言い切れない始まりだった。
だがこの一歩が、やがて立場を逆転させるほどの力を持つことを、ルチアーノ自身が一番よく理解していた。
これは、盲目になり王位から遠ざけられた第一王子が、無自覚に人を甘やかす侍女とともに、恋と政治の両方を逆転させていく物語である。
本作は複数の視覚障害当事者や関係者の体験・意見を参考にしつつ「判断を奪わない支援」と、構造的ざまぁをテーマに執筆しています。
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