第143話 セレスの収穫祭
あれから鬼族の仕事や住居もひとまずは落ち着き、ルーシィの市場監視も軌道に乗り始めている。
……といっても、監視で活躍しているのは猫のニャスパルなのだが。
俺の執務室には、フォルテを通じてそれらの報告が毎日届けられていた。
問題は、特にない。
特にないのだが……
ドンゴ、ドンゴ、ドドンゴ、ドンゴ。
遠くから、鬼族の太鼓が聞こえてくる。
かつてグリンベルを恐怖のどん底に突き落としたあの音も、今やこの街の夕暮れを彩る風物詩になりつつある。
……あくまでジクナの歌声が原因であって、鬼族たちには何の非もないのだがな。
鬼族たちが道造成の仕事を終えると、広場の端で太鼓を叩くのが日課となっていた。
最初こそ住民たちは驚いていたが、今ではすっかり馴染んでいる。
タヌキ族の子どもが太鼓のそばで踊り始め、コボルトが拍子を取って手を叩いている姿もあった。
グリンベルとは、こういう場所だ。
その時、執務室の扉がノックも無しに勢いよく開いた。
「レヴォス様! 少しよろしいでしょうか!」
現れたのは、元聖女のセレスだ。
往診帰りなのか、抱えた籠には薬草がぎっしりと詰まっている。
だが、その顔は明らかに何かを企んでいる時の表情だ。
「どうしたセレス。何用だ」
「あのですね! 考えたんですが、今すぐ収穫祭をやりましょう! 今年の農作物が本当に豊かで、このままではとても消費しきれないくらいで……それに、ザオツリ国のフェリスさんやロイドさん、ジクナさんや鬼族の皆さん、ルーシィさんが来てから、まだちゃんとした歓迎ができていないなと思いまして! あ、あとニャスパルちゃんも!」
セレスが一息で言い切った。
肩で息をしながら、輝いた目つきで俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「ふむ。具体的な計画は考えているのか?」
「えと……料理は私が仕切ります! グリンベルで獲れた作物を全部使って、いっぱい作ります! 太鼓は鬼族の皆さんにお願いして……あとは、飾り付け! ゴブリンやコボルトの皆さんが、ぜひやりたいって言っていましたから!」
セレスが指を折りながら、懸命に説明を続ける。
その顔は、あれこれと詰め込みすぎて頭の中がパンク寸前といった様子だった。
眉間にしわを寄せ、あわあわと手を動かす仕草が、セレスの必死さを物語っている。
だが、セレスの頭の中に収穫祭の計画はちゃんとあるようだ。
「セレス。一つ先に言っておく。ジクナの歌唱は認めないからな」
「え……あ、はい。それは、もちろんです……」
セレスが少し間を置いてから答えた。
あの歌声事件の際、セレスも聞いていたのだろう。
セレスの目が遠くを見ていた。少し肩が震えているようにも見える。
「分かった。やれ。フォルテに段取りを通せ」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
許可を与えた瞬間、セレスの表情が花が咲いたように輝いた。
嬉しさのあまりか、跳ねるような動作で頭を下げると、セレスは風のような速さで部屋を飛び出していく。
廊下を駆ける足音が、その喜びを体現するように軽やかに遠ざかっていく。
俺は再び、書類に目を戻した。
窓の外では、まだ太鼓の音が心地よく響いている。
――――――
翌朝、セレスが手書きの計画表を持ってフォルテのもとへ駆け込んできた。
……という報告を、フォルテから受けた。
「料理の担当はセレス様が自ら音頭を取られ、ルナリア様、クロエ様、アイリス様、エステラ様、コレット様、そしてオコタ様と鬼族の料理番の方々が参加されるとのことです。鬼族の伝統料理を持ち寄ると申し出ていらっしゃいました」
「鬼族の伝統料理とは何だ? 初耳だが、どんな物だ」
「それが……当日までの秘密とのことで。ともかく、鬼族の皆さまが自分たちの誇りを見せると、鼻息を荒くして息巻いておいでです」
鬼族の料理か。
未知の領域ではあるが、鬼族の活気が出るのは悪いことではない。
それがどんな方向に転ぶかは、今のところ未知数だが。
「鬼族は太鼓もやると言っていたようだが」
「はい。鬼族のみなさまが喜んで引き受けてくださいました。なんでも、演奏の演目まで既に決まっているとか」
「随分と周到だな。セレスが言っていたが、飾り付けはどうなっている」
「ゴブリンの職人たちと、コボルトの大工衆が合同で手を挙げました。なかなかに凝った装飾になりそうです」
フォルテが手帳を閉じ、わずかに目を細める。
その表情には何か曇りが見えた。
「あと一点だけ、レヴォス様に確認がございます」
「……何だ。言ってみろ」
フォルテは発言の前に、スーッと深く息を吸い込んだ。
まるで死地に赴く戦士のように、決意を込めて目を見開く。
「ジクナ様が……『私も何か出し物をしたい』と申しておりまして……」
俺の返答は、考えるまでもなく決まっていた。
即座に、断固とした口調で言い捨てる。
「どうせ歌いたいと言い出したのだろう? だが歌は駄目だ。断固として拒否しろ。それ以外なら好きにしろと伝えろ」
「……承知いたしました」
フォルテが一瞬だけ眉尻を下げ、それから恭しく頭を下げる。
ジクナにこの非情な宣告を伝えに行かなければならないフォルテの背中には、隠しきれない疲労の色が滲み出ていた。




