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第97話 百十歳、帰る約束をします

 食堂の机いっぱいに広げられた地図の上を、黒紫色の光が細く走っていた。


 光の出どころは、わしの右手だ。


 指先を動かせば多少は揺れる。だが、手の向きを変えても身体ごと反対を向いてみても、光はしばらくすると同じ方角へ戻っていく。


「……やっぱり、向こうね」


 何度目かの確認を終えたリーナが、地図の端を押さえながら呟いた。


 マルタがその隣から身を乗り出し、光の先を指でなぞっていく。森を越え、川を跨ぎ、いくつもの小さな町を通り過ぎた指が、やがて国境近くの一点で止まった。


「この方角で、目ぼしい場所となると……ここかね」


 指の下には、《リルート》という名が記されていた。


「リルート?」


 セレナが聞き返すと、マルタは「ああ」と頷いた。


「交易都市リルート。国境近くにある大きな町さ。いくつもの街道が交わってるから、王国中から商人や旅人が集まってくる。国境を越えてくる連中も多いね」


「じゃあ、情報を集めるにはちょうどいい?」


「量だけならね」


 マルタは含みのある言い方をして、地図のリルートを指先で軽く叩いた。


「人が集まれば物も集まるし、噂も集まる。珍しい魔道具から、どこぞの酔っ払いが思いついた与太話まで何でもある。何が本物か見抜けなきゃ、金だけ取られて終わりだよ」


(情報が多ければよい、というものでもないからのう)


 前世でも散々味わったことだ。報告書が百枚あろうと、その中に意思決定に必要な情報が一つしかなければ、残りの九十九枚は判断を鈍らせる雑音にもなる。


「それと、帝国の人間も多い」


「帝国?」


「すぐ近くが国境だからね。向こうから入ってくる連中も珍しくないよ。王国の人間と帝国の人間が酒場で殴り合ってても、あそこじゃ誰も驚かない」


 セレナが露骨に嫌そうな顔をした。


「……面倒そうな町ね」


「口が達者なだけじゃ足りないってことさ」


(知恵と交渉と、場合によっては腕っぷしか)


 なかなか愉快な町らしい。


 ガルドは黙ったまま地図を見ていたが、やがて低い声で言った。


「悪くない。天竜教の情報を探すにも、人が多い方がいい」


「ドワーフの手掛かりも拾えるかもしれないね」


 マルタの一言に、セレナとリーナが揃って微妙な顔をした。


「……まだ探すの?」


「必要なんだから仕方ないでしょ、お姉ちゃん」


「リーナだって嫌そうな顔したじゃない」


「してない」


「した」


「してない」


「はいはい」


 マルタが面倒そうに姉妹を遮った。


「ともかく、今のところはリルートが一番怪しい。レオンの光が何を示してるのかは分からないけど、確かめる価値はある」


 皆の視線が、わしへ集まった。


(わしに聞かれても知らんぞ)


「あぅ」


 とりあえず答えておく。


 するとセレナが、当然のようにわしを抱き直した。


「レオンは連れていくしかないわね」


「そうなるだろうね。この光が案内役なら、本人を置いていくわけにはいかない」


「だったら私も行く」


 間髪を入れないセレナに、マルタは驚きもしなかった。


「だろうと思ったよ。ただし、一週間後だ」


「え?」


「その怪我が治ってから」


 セレナが何か言い返そうとしたものの、マルタの視線が包帯の巻かれた両手へ落ちると、口を閉じた。


「今回は痛み止めで誤魔化したりしないよ。手も脚もきちんと治してからだ」


「……もう結構動けるんだけど」


「動けるのと治ったのは別だって、何回言わせる気だい」


「…………分かった」


 思ったより素直だった。


 さすがに本人にも、無茶をした自覚くらいはあるらしい。


「なら、一週間は動けないわけね」


「お姉ちゃんは、ね」


 リーナの言葉に、なぜかカラリンの肩がぴくりと動いた。


 それを見逃すマルタではない。


「ちょうどいい。カラリン」


「……な~に~?」


「明日から森に行くよ」


「な~ん~で~?」


「あんたの魔法を基礎から叩き直す」


 カラリンが固まった。


「わ~た~し~、ま~ほ~う~、つ~か~え~る~よ~?」


「知ってるさ。だから言ってるんだよ。あんたは精霊との相性と感覚の良さに頼りすぎだ。才能で誤魔化せるうちはいいけど、そのままじゃいつか伸びなくなる」


「な~に~す~る~の~?」


「まずは瞑想」


「…………」


「朝からね」


「…………」


 カラリンが助けを求めるようにこちらを見た。


(諦めろ)


「あぅ」


「れ~お~ん~!」


 知らん。


     ◇


「俺は先に行く」


 ガルドがそう切り出したのは、話が一段落した頃だった。


 誰もすぐには返事をしなかった。


「……リルートへ?」


 セレナが尋ねる。


「ああ」


「一人で行く気?」


「ああ」


「待ちな」


 マルタの声が低くなった。


「気持ちは分かる。でも、天竜教がどこまで入り込んでるかも分からないんだ。今一人で動くのは危険だよ」


「分かっている」


「なら――」


「それでも、ここにはいられない」


 ガルドの声はいつもと変わらず静かだった。


 ただ、膝の上に置かれた拳だけが、いつの間にか固く握られていた。


「子どもたちが生きているかもしれない。今もどこかに囚われているかもしれない。それを知っていて、俺には一週間待つことはできない」


 あの部屋で見つけた記録が脳裏をよぎった。


『幼体を優先』


『生存状態での回収が望ましい』


 文字として読んだ時でさえ胸糞が悪かった。


 ましてや、そこに書かれていたのが自分の故郷であり、知っている子どもたちだったなら。


(……待てと言えるか?)


 もしロイやミナ、リリが連れ去られたとしたら。


 生きているかもしれないと分かっているのに、準備が整うまで一週間待てと言われたら。


 わしは冷静に頷けるだろうか。


 セレナを見ると、彼女もガルドを止めかけたまま黙り込んでいた。


「……まったく」


 やがてマルタが大きく息を吐き、傍らの鞄を引き寄せた。


「止めても行く顔してるね」


「すまない」


「謝るくらいなら待ってほしいけどね。まあ、あたしだって同じ立場なら待てる自信はないよ」


 鞄の中へ手を入れたマルタが、小さく呼ぶ。


「ピィ」


「ピィ!」


 元気のいい鳴き声とともに、小さな使い魔が飛び出した。


 白いカラスのようなムーンとは似ても似つかない。小さな身体で食堂を一周すると、そのままガルドの肩へちょこんと降りる。


「……今度は何?」


「ピィ。連絡用の使い魔さ」


「まだいるの?」


「失礼だね」


 セレナの言葉にマルタが眉を寄せる。


 わしも同感である。


(この婆さん、鞄の中に何匹入れとるんじゃ)


「何か分かったら、ピィを使って知らせな。それと、一人で敵の懐に飛び込むんじゃないよ」


「分かった」


「怪しい場所を見つけても?」


「まず連絡する」


「危なくなったら?」


「退く」


「本当に?」


 ガルドが少し黙った。


「……努力する」


「そこは分かったって言いな!」


 珍しくガルドが視線を逸らし、セレナが小さく吹き出した。


 やがて大剣を背負ったガルドは、玄関で一度だけ振り返った。


「先に行く」


「一週間後には私たちも向かうから」


 セレナが言う。


「リルートで会いましょう」


「ああ」


「無茶しないでね」


「お前に言われたくない」


「……何よ」


 最後にそんな言葉を残して、ガルドは孤児院を出ていった。


 その大きな背中が森へ続く道の向こうへ消えるまで、わしらは誰も家の中へ戻ろうとはしなかった。


     ◇


 それからの一週間、孤児院では妙に穏やかな時間が流れた。


 もっとも。


 森へ連れていかれたカラリンだけは、穏やかではなかったらしい。


「呼吸を乱すんじゃない。魔力を動かそうともしなくていい。まず、自分の中に何があるかを感じな」


 木々の隙間から朝日が差し込む中、カラリンは大樹の根元に座らされていた。


 足を組み、背筋を伸ばし、目を閉じる。


 ただそれだけ。


 初日は十分も経たないうちに、


「ひ~ま~」


 と口を開いてマルタの杖で頭を小突かれた。


 三日目には一時間。


 五日目には昼近くまで。


 七日目になると、カラリンは朝からほとんど姿勢を崩さなくなっていた。


 風が梢を揺らす。


 草が擦れる。


 どこからともなく現れた淡い光が一つ、カラリンの肩へ降りた。


 続いてもう一つが膝へ。


 さらにもう一つ。


 それでもカラリンは目を開けない。


 少し離れて見守っていたマルタの口元が、わずかに緩んだ。


「……少しはマシになったね」


「そ~う~?」


「喋ったら台無しだよ」


 カラリンは慌てて口を閉じた。


     ◇


 一方のセレナは、一週間ほとんど孤児院から出なかった。


 怪我人なのだから休めと言われているのに、朝になれば食事の準備を手伝い、洗濯物を畳み、破れた服を繕った。


「セレナ! ミナが!」


「ロイが先にやった!」


「俺は何もしてない!」


「はいはい、二人とも座って。順番に話して」


 喧嘩の仲裁まで休む気はないらしい。


 それでも弓には触れなかった。


 森へも行かなかった。


 町へも行かず、ただ子どもたちと同じ屋根の下で朝を迎え、同じ食卓を囲み、夜になれば皆を寝かせる。


 思えば、こんなふうにセレナが孤児院に居続けるのは久しぶりだった。


『セレナは、ようやく自分の居場所を作った』


 エドガーが残した言葉を、ふと思い出す。


 あの部屋で読んだ時よりも、今の方がよく分かる気がした。


 誰かに与えられたわけでもない。


 最初から家族だったわけでもない。


 毎日飯を作って、叱って、笑って、困った時には助けて。


 そんな日を重ねているうちに。


 いつの間にか。


 ここが、この者たちの家になったのだ。


     ◇


 一週間目の朝。


「うん。もういいよ」


 包帯を外したセレナの手を確かめ、脚の傷まで診たマルタがようやく頷いた。


「傷は塞がってる。痛みも?」


「ない」


 セレナがその場で軽く身体を動かす。


「ほら」


「だからって、いきなり無茶するんじゃないよ」


「分かってるって」


「信用がないんだよ」


「なんでよ」


 セレナは不満そうだったが、周囲の誰も味方をしなかった。


 当然である。


「明日の朝に出よう。リルートまでは距離もあるから、今日は準備に使いな」


「分かった」


 その日の夕方。


 セレナが自室で旅支度をしていると、いつの間にか扉のところにミナが立っていた。


「セレナ」


「ん?」


「また行くの?」


 荷物へ伸びていた手が止まった。


「……うん。明日の朝ね」


「何日?」


「それは、まだ分からないかな」


「そっか」


 ミナはそれだけ言って俯いた。


 気づけば、その後ろにはロイとリリもいる。他の子どもたちも、廊下からこちらを窺っていた。


「また、しばらく会えないの?」


 ぽつりと落ちた言葉に、セレナは何も答えなかった。


 森の禁域へ行った。


 町へ行った。


 エドガーたちの件もあった。


 最近は家を空けることが多かった。


 子どもたちは何も言わなかっただけで、何も感じていなかったわけではないのだろう。


「……ごめんね」


 セレナは荷物から手を離すと、ミナの前にしゃがんだ。


 そのまま抱き寄せる。


「わっ」


 ロイも。


 リリも。


 近くにいた子どもたちまで腕を伸ばして、まとめて抱きしめた。


「ちょっと、狭い!」


「苦しい!」


「我慢して」


「なんで!?」


 口では文句を言いながら、誰も離れなかった。


「帰ってくるから」


「本当に?」


「うん」


「絶対?」


 セレナの腕に、少しだけ力が入る。


「絶対。必ず戻ってくる」


 しばらくそうしてから、ロイが「そうだ」と声を上げた。


「セレナ、ちょっと待ってて」


 ロイたちは一度部屋を出ていき、間もなく戻ってきた。


 その手にあったものを見て。


 わしは目を瞬いた。


(……それは)


「これ」


 ロイから渡された小さな布袋を、セレナが両手で受け取る。


 鼻先へ近づけるまでもなく、乾燥した草と香草の懐かしい匂いがした。


「……森守り?」


「みんなで作ったんだ」


 虫除け草と香草を乾燥させ、小さな布袋に詰める。


 かつて、金のなかった孤児院で皆と作った商品。


 わしの第二の人生で初めて売れた商品でもある。


 あの頃より縫い目も均整で、袋の形も整っている。


「旅するなら虫除けになるだろ」


 ロイが少し照れたように言う。


「あと臭い!」


 すかさずミナが割り込んだ。


「セレナ、汗かくから!」


「……ミナ?」


「なに?」


「後で話そうか」


「なんで!?」


 リリが口元を押さえて笑う。


「でもね、今回はそれだけじゃないの」


「それだけじゃない?」


「お守り」


 リリが森守りへそっと触れた。


「セレナが、ちゃんと帰ってこられるように」


 セレナは一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑った。


「森守りって、そういうお守りじゃないでしょ」


「今日からそういうのにもする!」


 ミナが胸を張る。


「勝手に用途を増やさないでよ」


 そう言いながらも、セレナは小さな布袋を胸元へ結んだ。


 指先で形を整え。


 何度か。


 確かめるように触れる。


「……ありがとう。大事にする」


「絶対帰ってきてね」


「うん」


 セレナは笑った。


「絶対に帰ってくる」


     ◇


 夜。


 子どもたちが眠った後。


「お姉ちゃん」


 廊下を歩いていたセレナを、リーナが呼び止めた。


「なに?」


「これ」


 何かが飛んできた。


「わっ!」


 慌てて受け取ったセレナが、すぐに眉を吊り上げる。


「危ないでしょ!」


「ちゃんと受け取ったじゃない」


「そういう問題じゃ……」


 言いかけたセレナの声が止まった。


 手の中にあるのは、小さな鞘に収められた一本のナイフだった。


「……これ」


 セレナが鞘を撫でる。


「リーナ。これ、あんたが大事にしてたやつじゃない」


「スローイングナイフ。近い相手なら弓より早いから」


「それは知ってるけど……」


 セレナが顔を上げる。


「いいの?」


「貸すだけ」


 リーナは素っ気なく答えた。


「あげるんじゃないからね」


「…………」


「貸すんだから」


 そこで一度言葉を切り、リーナは姉から少しだけ視線を逸らした。


「絶対に返してね」


 廊下が静かになった。


 セレナは何も言わず、手の中のナイフを見つめた。


 やがて、胸元の森守りへ触れる。


 それから。


 ナイフを腰へ差した。


「……うん」


 顔を上げる。


「絶対、返す」


「ならいい」


 リーナはそれ以上何も言わなかった。


     ◇


 出発前夜。


 食堂には、セレナとリーナ、ライカが残っていた。


「リーナ。ライカ」


 二人が顔を上げる。


 セレナは少し迷ってから、静かに頭を下げた。


「私がいない間、ここをお願いしてもいい?」


「言われなくても、そのつもり」


 リーナは即答した。


「ここは私の家でもあるんだから」


 セレナが顔を上げる。


 ほんの少し。


 嬉しそうに笑った。


「……そうだったね」


「子どもたちのことは任せてください」


 ライカも頷く。


「大丈夫です」


「ありがとう」


 それだけだった。


 けれど。


 以前なら、セレナはこんなふうに誰かへ任せられただろうか。


 守らなければ。


 自分がやらなければ。


 そうやって一人で抱えていたような気がする。


 今は。


 任せられる者がいる。


 帰りを待っている者がいる。


 そして。


 帰ってくる場所がある。


 セレナは眠っている子どもたちの部屋へ目を向けた。


 胸元では《森守り》が小さく揺れ、腰にはリーナから借りたナイフがある。


「じゃあ」


 セレナが笑った。


「行ってくるね」


「うん」


 リーナも笑う。


「いってらっしゃい、お姉ちゃん」


 明日の朝。


 わしらは交易都市リルートへ向かう。


 その先に何が待っているのかは分からない。


 黒雷石なのか。


 天竜教なのか。


 ガルドが探す子どもたちへの手掛かりなのか。


 それとも。


 まだ誰も知らない何かなのか。


 ただ。


 セレナの胸元から漂ってくる香草の匂いを嗅いでいると、不思議と一つだけは決まっているような気がした。


(帰ってこよう)


 どこまで行くことになろうとも。


 最後には。


 また。


 この家へ。

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