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第122話 吸血鬼ミレボス

「……あの女だけは、絶対に許さない」


ミレボスは吐き捨てるように呟いた。


すっかり身体の傷は癒え、普段通りに動けるようになっていた。


しかし、心に刻まれた屈辱は消えていない。


地下闘技場を奪われた。


黒雷石を奪われた。


挙げ句の果てに、マリアから贖罪を命じられ、あれほどの苦痛を味わわされた。


すべて、あの女のせいだ。


赤い上着を着た、忌々しい女。


顔は覚えている。


声も覚えている。


あの武器を自在に操る戦い方も、忘れるはずがない。


だが、名前は知らなかった。


どこに住んでいるのかも分からない。


「……見つけたら、八つ裂きにしてやるわ」


「で、どこにいるんだ?」


「…………」


ミレボスは足を止めた。


隣を歩くガーラを睨みつける。


「……これから探すのよ」


「手がかりは?」


「…………」


「名前は?」


「…………」


「おいおい」


ガーラは呆れたように溜息をついた。


「そいつを探すのは後だ。先にやることがあるだろ」


「何よ」


「地下闘技場だ」


ミレボスの眉がぴくりと動いた。


「……あそこがどうしたの?」


「どうしたもこうしたもねえよ。天竜教に繋がる証拠が残ってるんじゃねえのか?」


「…………!」


「帳簿、取引記録、資金の流れ。そういうもんだよ」


ガーラは肩をすくめた。


「お前の闘技場が教団の資金源だったと知られたら、マリア様にも面倒がかかるだろ」


「……それは……」


「今のうちに片付けておくべきじゃねえのか?」


ミレボスは唇を噛んだ。


確かに、その通りだった。


闘技場の収益の一部は、天竜教へ流れていた。


その記録が残っている以上、国の調査が進めば、いずれ教団との繋がりが明らかになるかもしれない。


そうなれば。


(……マリア様に、ご迷惑が……)


ミレボスは拳を握り締めた。


それだけは避けなければならない。


「……分かったわ」


「お?」


「先に闘技場へ戻る。それでいいんでしょう?」


「ああ。話が早くて助かる」


「ただし!」


ミレボスはガーラを睨んだ。


「あの女を探すことも忘れないでちょうだい!」


「分かってるよ」


ガーラは気のない返事をした。


(……やれやれ)


先が思いやられる。


◇ ◇ ◇


深夜。


交易都市リルートの街路には、ほとんど人影がなかった。


昼間は商人や旅人で賑わう通りも、今はひっそりと静まり返っている。


時折、夜風が路地を吹き抜け、吊り看板を小さく揺らしていた。


二人は人目を避けながら、地下闘技場の入り口へと向かった。


「……あら?」


ミレボスが足を止めた。


入り口には、二人の警備兵が立っていた。


槍を手にした兵士たちが、退屈そうに言葉を交わしている。


「……たった二人?」


「ああ」


ガーラは物陰から様子を窺った。


「どうやら、本格的な調査はまだ始まってねえらしいな」


「どういうこと?」


「なんでもお隣の帝国で魔王が復活したらしく、王国に助けを求めてるって噂だ」


「…………」


「国もそっちへの対応で手一杯なんだろ。こんな地下闘技場の調査なんざ、後回しってわけだ」


ミレボスは不愉快そうに鼻を鳴らした。


「……気に入らないわね」


「何がだ?」


「私の闘技場が、そんなに軽く扱われていることよ」


「おいおい……」


ガーラは額を押さえた。


「お前、今の立場を分かってんのか?」


「分かっているわよ」


「だったら、調査が進んでねえことを喜べよ」


「…………」


ミレボスは黙り込んだ。


確かに、ガーラの言う通りだった。


調査が遅れているのであれば、証拠を消す時間がある。


しかし、自分が長年築き上げてきた闘技場が、国にとっては後回しにする程度の存在だったという事実が、どうにも癪に障った。


「……まあ、いいわ」


ミレボスは入り口から視線を外した。


そして、建物の上部にある換気口を見上げる。


「あそこから入れるわね」


「ん?」


「私が霧になって潜入するから、あんたはここで見張っていて」


「おい、待て。俺は――」


ガーラが言い終えるより早く。


――フワッ。


ミレボスの身体が白い霧へと変わった。


「……あ?」


霧は夜風に紛れるように舞い上がり、換気口の隙間へ吸い込まれていく。


あっという間に姿が消えた。


「…………」


ガーラはしばらく換気口を見つめていた。


「……おい」


返事はない。


「おいおい……」


深い溜息が漏れた。


「勝手な女だな、まったく」


仕方がない。


ここで待つしかなさそうだった。


ガーラは建物の陰へ身を寄せ、入り口の警備兵へ視線を向けた。


(……まあ、いいか)


やることは単純だ。


誰かが近づいてきたら知らせる。


それだけでいい。


できることなら、何事もなく終わってほしいものだった。


◇ ◇ ◇


地下闘技場。


支配人室。


天井近くの換気口から、白い霧が流れ込んできた。


霧はゆっくりと床へ降り、やがて人の形を取る。


銀髪の女。


ミレボスだった。


「…………」


室内を見渡す。


そして。


「……っ!」


その顔が歪んだ。


机は倒れ、書類は散乱し、棚の一部が壊されていた。


かつて整然としていた支配人室は、見る影もない。


「……よくも……!」


ギリッ、と歯ぎしりする。


ここは自分の城だった。


地下闘技場のすべてを管理し、金と人間を動かしてきた場所。


その部屋が、無惨に荒らされている。


「……あの女……!」


ミレボスは怒りを押し殺しながら、机の残骸へ近づいた。


床に散らばった書類を拾い上げる。


取引記録。


収益報告。


そして、天竜教へ送った資金の記録。


幸い、重要な書類の多くはまだ残っていた。


「……ふん」


ミレボスは指先を口元へ運んだ。


小さく牙を立てる。


――プツッ。


指先から、赤い血が一滴零れ落ちた。


床へ落ちた血は、染み込むことなく丸い塊となった。


そして。


――ボコッ。


血が膨らんだ。


小さな翼が生え、細い脚が伸び、尖った耳が形作られていく。


やがて、そこには一匹の赤黒いコウモリが現れていた。


その身体は、肉ではなく血でできている。


ミレボスの血から生まれた眷属だった。


「……おいで」


ミレボスが指を鳴らす。


――パタパタパタッ!


コウモリが羽ばたいた。


さらに、床に落ちた血が幾つにも分かれ、次々と小さなコウモリへ姿を変えていく。


十匹。


二十匹。


やがて、部屋の中を赤黒い翼が飛び交い始めた。


「この部屋にある書物を、すべて食い尽くしなさい」


ミレボスは冷たく命じた。


「一枚も残しては駄目よ」


――キィッ!


コウモリたちが一斉に鳴いた。


そして、散乱した書類へ群がっていく。


――バリバリバリッ!


紙を裂く音が響いた。


帳簿も、契約書も、取引記録も。


血のコウモリたちは次々と噛み砕き、その身体へ取り込んでいく。


「……これでいいわ」


ミレボスは小さく息を吐いた。


これで少なくとも、この部屋に残された書類から教団との繋がりを辿ることはできなくなる。


だが。


「…………?」


ふと、視界の端に違和感を覚えた。


部屋の奥。


本棚があった場所。


そこに、ぽっかりと暗い穴が開いていた。


「……まさか」


ミレボスはゆっくりと歩み寄った。


そして。


「……っ!!」


再び歯を食いしばった。


隠し通路。


自分だけが知るはずだった、秘密の通路だ。


その入り口が、完全に露出していた。


「……あの女……!」


間違いない。


赤い上着の女だ。


あの女が、ここまで入り込んだのだ。


ミレボスは怒りに任せて壁を殴りつけた。


――ドンッ!


「……許さない……!」


そして、通路の奥へ足を踏み入れた。


◇ ◇ ◇


コレクションルーム。


そこは、ミレボスが長年集めてきた品々を保管するための部屋だった。


珍しい武器。


高価な装飾品。


そして、地下闘技場で命を落とした者たちの遺品。


ミレボスにとっては、どれも大切な思い出だった。


もっとも、それらの持ち主がどのような最期を迎えたかなど、彼女にはどうでもよかった。


自分が気に入ったもの。


自分が所有したもの。


それだけに価値があった。


「…………」


ミレボスは部屋を見渡した。


棚が荒らされている。


いくつかの品が床へ落ちていた。


しかし、すべてが持ち去られたわけではない。


高価な宝石も、珍しい武器も、そのまま残されていた。


「……何を探していたのかしら」


ミレボスは眉を寄せた。


そして、部屋の奥へ進んだ。


そこには、小さな展示台があった。


かつて、一つの遺骨を飾っていた場所だ。


「…………」


足が止まった。


展示台は空だった。


「……ない」


ミレボスは目を細めた。


「……ない……?」


近づく。


台の上を確かめる。


周囲の床も見る。


しかし、どこにもない。


お気に入りだった、子どもの遺骨。


あの子は、よく泣いた。


最後まで母親に助けを求めていた。


その姿が妙に気に入って、遺骨を残しておいたのだ。


それが。


「……どうして……」


なくなっている。


他の品は、ほとんど残っているというのに。


あの遺骨だけが。


「……あの女……!」


ミレボスの指が震えた。


赤い上着。


自在に操る武器。


自分を瀕死に追い込んだ、忌々しい女。


「……盗んだのね……!」


唇が歪んだ。


「私のものを……!」


ミレボスは展示台へ手をついた。


――ミシッ。


木製の台に亀裂が入る。


「……殺す」


低い声だった。


「……絶対に、殺してやる……!」


しかし、それだけでは足りない。


自分から闘技場を奪い、黒雷石を奪い、お気に入りのコレクションまで持ち去った。


あの女には、相応の報いを受けさせなければならない。


「……いいえ」


ミレボスはゆっくりと顔を上げた。


その瞳に、暗い光が宿る。


「……殺すだけじゃ、足りないわね……」


あの女が大切にしているもの。


家族。


友人。


仲間。


そのすべてを奪ってやる。


一人ずつ。


目の前で。


そして最後に、あの女自身を殺す。


「……ふふっ」


乾いた笑いが漏れた。


「……楽しみね……」


ミレボスは空になった展示台を見つめた。


「あなたが、どんな顔で泣くのか……」


その声には、先ほどまでの怒りとは違うものが混じっていた。


純粋な悪意だった。


◇ ◇ ◇


地下闘技場の入り口。


「……遅えな」


ガーラは小さく欠伸をした。


見張りを始めてから、しばらく時間が経っていた。


警備兵は相変わらず二人。


片方は壁にもたれ、もう片方は槍を支えに立っている。


どちらも眠そうだった。


(……まあ、こんな時間だしな)


ガーラは周囲を見渡した。


人通りはない。


遠くで野良猫が鳴いた程度だ。


静かな夜だった。


(……そろそろ戻ってくる頃か?)


そう思った、その時。


――ギィ……。


地下闘技場の扉が開いた。


「……ん?」


ガーラは眉を上げた。


扉の向こうから、一人の女が現れた。


銀髪。


青白い肌。


ミレボスだった。


「……おい」


ガーラは思わず声を漏らした。


(正面から出てくるのかよ)


霧になって潜入したのだから、帰りも同じ方法で出てくればいいものを。


ミレボスは何食わぬ顔で、入り口へ歩いていく。


「……誰だ!」


警備兵の一人が声を上げた。


「止まれ!」


ミレボスは足を止めなかった。


「おい! 聞こえないのか!」


警備兵が槍を構える。


その瞬間。


――シュッ。


ミレボスの姿が消えた。


「……え?」


警備兵が目を見開く。


次の瞬間には、ミレボスがその背後へ回り込んでいた。


細く伸びた爪が、月明かりを受けて鈍く光る。


――ザシュッ!


「がっ……!」


首が裂けた。


警備兵は声にならない声を漏らし、その場に崩れ落ちた。


「なっ……!?」


もう一人が即座に反応した。


槍を構え、ミレボスへ突き出そうとする。


だが。


――キィンッ!


鋭い金属音。


槍の穂先が弾かれた。


「……っ!?」


警備兵の目の前に、赤い法衣の男が立っていた。


ガーラだった。


「悪いな」


短い言葉。


次の瞬間。


――ザンッ!


剣が閃いた。


警備兵は反撃する間もなく斬り伏せられた。


ガーラは剣を振り、刃についた血を払った。


「……ったく」


倒れた二人を見下ろす。


そして、ミレボスへ向き直った。


「おい、何やってんだ」


「…………」


「見張りを殺してどうする。騒ぎになったら面倒だろうが」


「……うるさい」


「……あ?」


ガーラの眉が動いた。


「何だと?」


「……うるさいって言ってるのよ」


ミレボスは振り返った。


その表情を見て、ガーラは口を閉じた。


先ほどまでとは、明らかに様子が違っていた。


目が血走っている。


唇は歪み、全身から殺気が滲み出ていた。


「……あの女……!」


ミレボスは拳を握り締めた。


「……絶対に……!」


爪が掌へ食い込む。


赤い血が、ぽたりと落ちた。


「絶対に、殺してやる!!」


夜の街路に、怒声が響いた。


「……おいおい」


ガーラは顔をしかめた。


(……勘弁してくれよ)


どうやら、闘技場の中で何かあったらしい。


それも、相当腹に据えかねる何かが。


しかし、今はそんなことを聞いている場合ではなかった。


「……声を落とせ」


「…………!」


「誰かに聞かれたらどうする」


ミレボスは歯を食いしばった。


だが、何も答えなかった。


ガーラは周囲を見渡した。


幸い、人の気配はない。


しかし、警備兵が二人も殺されたのだ。


夜が明ければ、いずれ騒ぎになるだろう。


(……余計な仕事を増やしやがって)


ガーラは深く息を吐いた。


そして、ミレボスを横目で見た。


マリアから命じられたのは、黒雷石の奪還とミレボスの監査。


つまり、彼女が再び過ちを犯さないよう、見張ることだった。


だが。


(……こいつは、まずいな)


ミレボスは、完全に復讐心に囚われている。


黒雷石の奪還よりも、あの女を殺すことを優先しかねない。


そうなれば、教団にとっても都合が悪い。


そして何より。


(……俺まで、マリア様に贖罪させられちゃたまらねえ)


ガーラは腰の剣へ、そっと手を添えた。


もし、この女が制御できなくなったら。


その時は。


(……斬るしかねえか)


ミレボスは気づいていない。


ただ、闇の向こうを睨みつけていた。


赤い上着の女。


名前も知らない、その女の姿を思い浮かべながら。


「……待っていなさい……」


低い声が漏れる。


「……必ず、見つけ出してやる……!」


ガーラはその横顔を見つめた。


そして、心の中で呟いた。


(……やれやれ)


どうやら。


楽に稼げるはずだった仕事は、ますます面倒なことになりそうだった。


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