第四世界 【病院の世界】 後
「サジェ様!! 薬と論文持って逃げてください!!」
倒れた薬棚を持ち上げて符正が──薬を浴びてしまったのだろう、焼け爛れてしまった顔で叫ぶ。そう言われてはっと視線を巡らせてみれば符正が咄嗟に放り投げたのか、論文と薬の入った試験管が青年の胸の上に落ちていた。
「ホルマリン漬けにされていたゾンビが動き出すとか、まんまゲームですね──しかもお約束のように強そうときた」
サジェースタが薬を回収して懐にしまい込んだのを確認しながら符正は消防斧を右手に構えたまま対ウイルス研究室の、ホルマリン漬けの人間が並んでいた方に視線を向けてそう言う。
それに導かれるように視線をそちらに向けてみれば、ホルマリン漬けの人間が入っていたはずのガラスの容器がひとつ割れていて、刺激臭を放つ液体が床に零れ落ちていた。そしてその傍には、ホルマリン漬けにされていたはずのゾンビが立っていた。皮膚は崩れ落ちて筋肉が露出していて、腕にはガラスを割った際に刺さったのかいくつものガラス片が突き刺さっている。
そのゾンビは人にしては長い腕をぶおんと振り回して他のガラス容器も破壊し、腕をどんどんガラス塗れにしていった。動くことのできるホルマリン漬けのゾンビはその一体だけのようで他のはみな、打ち捨てられた魚のように床に倒れたきり動かない。
「ガラスで腕を強化? えっぐ……サジェ様、わたしがあいつ引きつけるんで製薬の方お願いします。……下にはゾンビがいると思うんで気を付けてくださいね」
「符正!」
「あいつ、明らかにわたしたちをターゲットにしています。ゲームのラスボス的な感じですかねぇ。追い掛けてくると思いますよ」
吹き飛ばされ、叩きつけられたというのに何処か呑気な符正にサジェースタは腹に据えかねたように叫ぶ。
「これはゲームじゃないんだぞ!! 傷は癒えるのかもしれんが、死んでも生き返るかは分からんのだ!!」
「分かっています」
サジェ様、と符正がサジェースタの名を呼んで微笑む。
「ごめんなさい、余裕がありません」
「──……!」
「あいつはやばいです──だから本当に、早く──早く、この世界を浄化してください」
助けてください。
飄々としながらも、楽観的でいながらも、悠然と構えていながらも──符正に余裕は一切なかった。
眼前にいる“敵”を前に、恐怖で今にも崩れ落ちそうなのを必死に抑え、笑っていた。
符正の零した本音の一言にサジェースタは目を見開き──そしてぐっと歯を食い縛り、己の認識の浅さに反省しながら符正に背を向ける。
「分かった」
「ありがとうございます」
符正の返事を背に受けたのと同時にサジェースタは駆け出し、それに反応してか腕を振り上げながらサジェースタに向かってきた化物を符正が消防斧で受け止める。
サジェースタがこの世界に来てから一ヶ月以上が経っている。その間、ひと時たりとも符正と離れたことはなかった。いつも符正と一緒で、何事も符正と共にこなしてきた。符正の能天気さにツッコミを入れつつもその穏やかな気質に救われてきた。
サジェースタにとって符正は、もはや一心同体とも言えるほどに傍にいなくては安心できぬ存在となっていた。
──だからこそ今、サジェースタはどうしようもないほどの不安と抗いがたいほどの恐怖に心が巣食われそうであった。符正は確かに強い。どうしようもなく強い。抗いがたいほどに強い。けれど符正は一般人だ。戦いを生業にしているわけではないし、何より符正は時折壊れそうなほどに脆くなる。
サジェースタは“王”としての自分があまりにも弱いと、痛感せざるを得なかった。権威だけあってもこんな時何もできない。役に立たない。むしろ足手まといでしかない。サジェースタは──どうしようもないほどに弱かった。
「くそ……!」
人間の“歪み”と直面した時に見せる符正の折れそうな脆さを助け、支えてやりたいと思い始めたのはいつのことか。
何が“王”だ、とサジェースタは唇が切れて血が流れるのも構わず唇を噛み締めた。
「ここか……!」
二階の製薬室に着いたサジェースタは焦る心を落ち着かせながら中に入り、見慣れぬ機械と薬の山に尻込みしそうになる己を奮い立たせて作成手順を読み解きながら製薬に取り掛かった。
幸い、専門的な手順は全て完了した後で、あとは機械に薬をセットして動かせばいいだけであったため製薬にそう時間はかからなかった。青藤色の液体が論文にある通り緋色に染まったのを確認してサジェースタは安心したように息を吐く。
それから頼りない手つきながらもなんとか点滴パックに注入した後、サジェースタはそれを持って製薬室を出る。
「!」
先程はまばらにしか見えなかったゾンビの数が増えていた。この分であれば一階はさらに多いだろう。符正がいない今、サジェースタひとりでこのゾンビの群れを突破しなければならない。
「──やるしかあるまい」
点滴パックを懐にしまい込み、それまで使う機会のなかった小型消火器を構えてサジェースタは走り出した。王族として生まれ、最低限の護身術は身に付けてきたもののそれを駆使する機会がそれほど多かったわけではないサジェースタはとにかく体力を切らさぬことを考え、符正のように体力と怪力に任せた突破は諦める。消火器でゾンビの顔に噴きつけては避け、邪魔ならば噴きつけながら蹴り飛ばし、密集していれば遠回りし──そうしてどうにか入院病棟へと辿り着いた。
道中、どうしても避けきれずゾンビに咬まれたり引っ掻かれたりしてサジェースタの体は傷だらけであった。呼吸は荒く、心臓は破裂しそうなほどに鼓動していて全身から血だけでなく汗が噴き出している。足はがくがくと震えていたし、右肩はゾンビに咬まれた衝撃で砕けて動かなくなっていた。
けれどそれでもサジェースタは足を動かし、あの助けを求めた少女がいる病室へと向かった。
「く……符正、堪えろよ」
まっすぐに切り揃えた濡羽色の長い髪を揺らしながら白いマフラーに口を埋める女性、その姿を脳裏に思い浮かべながらサジェースタは少女のいる病室へと入る。
そこでは先程と何ら変わらぬ様子で少女を大人たちが取り囲み、口々に呪詛を吐いていた。本人たちにとってはそれこそが正しく、助けに繋がる道だと信じて疑わぬものだろうが──助けを求めて手を伸ばしている人間の手を横から攫うことの免罪符にはならない。“ありがた迷惑”というやつだ。
──クスリハダメヨ!
──コノコヲコロスキカ!
──カラダニワルイモノヲイレルナ!
──オマエタチガカネモウケノタメニビョウキニシタナ!
「黙れ!!」
一喝。
サジェースタの存在に気付き、口々に呪いの言葉を吐きながら詰め寄ってきた患者たちを振り払ってサジェースタは少女の点滴パックを交換しにかかる。
「堪えろよ。今、助かるからな」
──キャアアアア!
──ウチノコニナニヲスルノ!
──ウチノコニクスリハイラナイノ!
──ウチノコヲコロスキ!?
「邪魔をするな!!」
点滴を少女から引き剥がしにかかろうとした患者たちに向けて消火器の残りを全て噴射し、サジェースタは少女を守るように立ちはだかった。
「貴様らが何を信じようと何を信じなかろうとそれは自由。だが、思考の放棄と理解の放棄はそれだけで罪だ。そして何より、それを他人に強制するなぞ論外だ!!」
“王”として、様々な立場の人間の様々な意見を聞かなければならない。
そしてどれかひとつの意見に傾くことが“王”にあってはならない。
だが“王”として肝心なのは、その意見が周囲に害を与えていないかどうかを見極めることである。意見を述べるだけならば無害でも、その意見に同意させようと他人を巻き込んでいるようなことがあれば“王”としてそれを諫めなければならない。
「この子は生きたがっている。そして、実験棟にいた研究者は助けたがっていた。それらを見ない“怠惰”は──この私が許さん!」
その、瞬間であった。
病室のドアが壁ごと爆ぜて患者たちの体を押し潰したのは。
「──は!?」
突然のことにサジェースタは驚くが、すぐそのひしゃげたドアの上にひとりの女性が倒れ伏していることに気付いた。ベージュのダッフルコートや白いマフラーが濃紅色に染まりきってしまっていて、随所随所にガラス片が突き刺さっている。腹部は鉄パイプで貫かれていて真新しい血がぼたりぼたりと絶え間なく流れ続けている。
「がはっ……」
「符正!!」
「げふっ……さじぇ、様……」
符正を抱き起こしたサジェースタに気付き、符正はここが入院病棟であることに気付いたのかこんなところまで吹き飛ばされたんですね、とぼやいた。
ドアがあった場所に視線を向ければ廊下の壁にも穴が空いていて、隣の実験棟から吹き飛ばされてきたらしいということが分かった。
「くすり、は?」
「今点滴している。喋るな」
サジェースタの言葉に安心したのか、符正は微笑んでふらつきながらも立ち上がった。サジェースタが無理をするなと符正の手を引いたが、轟音を立ててこちらに飛び移ってきたあの化物に言葉を失ってしまう。
符正との戦闘の中で周囲にあるものを吸収していったのか、化物の体にはありとあらゆる器具や破片が突き刺さっていて既に全身凶器と化していた。
「よくみたら、さじぇ様もぼろぼろですねぇ」
符正は声を上げて笑いながら腹部に突き刺さった鉄パイプを無理矢理引き抜く。その衝撃で血を吐いた符正にサジェースタはやめろと叫ぶ。
「本当に死んでしまうぞ!!」
もう死んでいるとか、癒えるかもしれないとか、そんなのはもう関係なかった。
──符正を失いたくない。
ただ、それだけであった。
心の底から、そう想った。
魂が彼女を、求めていた。
その衝動のままにサジェースタは符正の体を抱き込んでその手から鉄パイプを奪い、構えながら符正を背後に庇う。
「──今度は私が相手してやる、化物」
「さじぇ様、だめ──」
「黙れ、もうできることは全てやった。なら最後くらい、格好つかせろ」
「……!」
符正は眼前の大きな背中に、そういえばこの人は“男”だったかと思い出しながら緩やかに微笑む。
「弱いくせに……強いですねぇ」
「お前は、強いくせに弱いよな」
「……ふふ」
符正が笑い、サジェースタも笑った。
そして、少女も笑った。
──アリガトウ
世界は、浄化される。
◆◇◆
白く清廉で、心地よい風の吹き込む病院の中。
「見事に傷ひとつ残ってないな……」
「でも疲労した感じというか、げっそりにやつれた感じはあります。傷は癒えても魂の摩耗とやらはしっかり食べないと治らないってことですね」
ごはん食べましょう!
そう目を爛々と輝かせながら言う符正は先程までの血塗れの様相がまるで嘘のように、血に染まった服ごと全てが元通りになっていた。サジェースタは安心したように微笑みつつ、誰もいなくなった病室のベッドを眺める。先程までそこに横たわっていた少女の姿はない。看護師たちが笑顔を浮かべながらベッド周りの設備を片付けているところを見るに──おそらくは退院したと、そういうことだろう。
看護師たちがサジェースタと符正を認識せず、かつ看護師たちの声がサジェースタたちには聞こえないのは──浄化されて“歪み”が正されたが故なのか、あるいは浄化された世界に定住しようという気をサジェースタたちに起こさせないためなのか。
「……厨房や売店に食べ物はあるだろうが、窃盗にならんのだろうか」
「ここの人たち、わたしたち見えてないようですし大丈夫じゃないですか? 大丈夫じゃなくても食べましょう。こんなに頑張ったんです、ごはんくらい貰ったって罰は当たりません! お腹すきました! お肉!」
「……分かった分かった」
ふたりはそれから病院内をぐるりと回り、声はせぬものの穏やかな笑顔を浮かべている医者や看護師、患者たちを眺めながら厨房を探して彷徨った。
そうして見つけた厨房で料理人を避けるようにコンロを勝手に借りてふたりは料理を始める。
「特に反応されないな……材料を勝手に取っても何も起きん」
「この世界が何なのかますます分からなくなりますね。前、サジェ様が地球の裏側って言ってましたけど……浄化された後の世界って“表側”とか? だから裏側にいるわたしたちは認識できないとか……」
「ふむ。だが、だとしたら我々が材料を取ることであっちでは材料が消えた扱いにならんかね?」
「それもそうですねぇ……あっ、お米! 炊飯器っ、炊飯器あるかなあっ」
「…………」
話をするのは食事の時がよさそうだ、と考えたらしいサジェースタは鼻を鳴らしてフライパンに材料を流し込んだ。
それから二時間ほどかけてふたりは──主に符正が大量の料理をこしらえ、食堂のテーブルの一角を借りて一気に並べた。コーンポタージュから始まり、サーモンとオニオンのサラダに白身魚のフライ、分厚い牛肉のステーキにハンバーグステーキ、かつ丼に牛丼、そしておにぎりの山と統一性の全く感じられない料理が並んでいる様は壮絶としか言いようがない。おまけに、冷蔵庫にはまだデザートがあるのだ。
「…………大食いだよなぁ、お前」
「普段はこんなに食べませんよ? ごはん食べるの大好きですけどね──ただ、今はものすごくお腹がすいていて」
符正の言葉にサジェースタは浄化される前の符正の状態を思い出し、はっとする。あの化物との戦いで符正は相当消耗したはずである。今のふたりの体が一体どうなっているのか分かりようもないが、少なくとも動けば動くほど、傷付けば傷付くほど体から何かがこそげ落ちていくような感覚はあった。サジェースタはそれを“魂の摩耗”としているが、今の符正はその摩耗が著しい状態なのだろう。
摩耗してしまった分を補填しようと食欲が刺激されているのかもしれない。
そう考えてサジェースタはよく食べてよく寝るんだぞ、と符正に言い含めてから食前の礼を取って食事を摂り始めた。符正もいただきます、と手を合わせて喜々とした顔で食事にかぶりついた。
「お~いし~!! あ~ん、し~あわせ~!!」
「落ち着いて食え、子どもじゃあるまいし……口の周り拭け」
「もきゅっ」
ナプキンで符正の口の周りを拭いてやりつつサジェースタは符正の幸せそうな笑顔につられて笑顔を浮かべる。
「本当に食べるのが好きだな」
「ええ! ごはん大好きですとも! それが美味しいごはんならなおのこと幸せです!! ──さらに誰かと一緒に食べるごはんは格別です!!」
符正はそう言って屈託のない笑顔を浮かべた。サジェースタは少し虚を突かれたように目を丸くし、けれどすぐ満面の笑顔を浮かべてそうだな、と同意した。
「それにしても、今回の浄化は分かりやすかったですね」
「ああ、確かに……」
これまでに何個もの世界を通過してきたが、“歪み”が何によって正され浄化されたのかがはっきりしている世界はなかった。どれもこれも唐突に浄化されて何が起こったのか分からず茫然とする結果に終わっている。何が浄化の条件になるのか、そもそも本当に正されているのか──いまいち消化不良気味に終わるばかりであっただけに今回の結果は些か拍子抜けするものであった。
「何がトリガーになっているんでしょうねぇ」
「…………」
符正の問いかけにサジェースタはハンバーグを口に運びながら考え込むように黙る。その視線はまっすぐ──符正に向けたまま。
「……符正、そういえばお前何の仕事をしているのだ?」
「仕事ですか? 経理事務です。毎日書類とにらめっこですよ~。ほんとはバリキャリでくーるびゅーてぃーな秘書とかしてみたかったんですけど、お前のキャラじゃないとかゴリラの秘書とか勘弁しろとかぼろくそに言われたっけなあ……」
「くーるびゅーてぃーからは程遠いのは確かだな」
「じゃあわたしには何が似合いますか? ぷりてぃーがーるとか? ないすがい☆うーまんとか」
「おもしろ人外ゴリラ」
「ぶっ飛ばしますよ」
──と、コントめいた会話を交えつつふたりは互いのことについて色々と話した。
符正は大学を卒業した後に一人暮らしを始め、毎週のように遊びに来る妹ふたりの相手に追われていたこと。サジェースタは亡き妻、サラルティアと幼馴染で亡くなるその時までずっと共にいたこと。符正の弟、符屈は符正に負けず劣らずの怪力で一度腕相撲をした時、ふたりの怪力に耐えきれなかったこたつが真っ二つに割れ、それ以来腕相撲禁止令を母に言い渡されたこと。サジェースタの娘、サハーシャは壊滅的な料理音痴で厨房に入ることを料理長に永年禁止されていること。
──そんなたわいもない話をしながらふたりはデザートまで食べ終え、ひと心地ついたと大きく伸びをした。
「ベッドはいくらでもあるし、借りよう」
「そーですね。眠くなってきました」
日は暮れていたものの寝るには早い時間だったが、ふたりは休む準備に入るべく食堂を後にした。道中偶然通りかかったシャワールームでシャワーを借り、心身ともにさっぱりしたふたりは誰も入院していない大部屋に入る。金糸雀色の月の光が妖しく部屋の中を照らす中、ふたりは寛いだ格好になってそれぞれベッドに寝そべって一息ついた。
それから互いにおやすみ、と言葉を交わして眠りについた──はずだったのだが。
「サジェ様サジェ様」
「……んあ? どうした」
「一緒に寝てもいいですか?」
「……、…………狭いぞ」
「だめですか?」
「…………お前は本当に……」
サジェースタは大きな、それは大きなため息を吐いて体を少しずらし、スペースを作ってやる。それに符正はぱあっと明るい笑顔を浮かべて飛び付くように潜り込んできた。
「やっぱこうしてる方が落ち着きますねぇ~」
「…………喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか……複雑な心境だ」
湖の世界で夜を共に過ごして以来、こうして寝るのが日常となってしまっていた。サジェースタ自身別にそれが嫌だというわけではない──むしろ役得だと喜ぶ気持ちがあったのだが、いかんせんこうも無防備に懐の中に来られては辛抱できるものも辛抱できなくなる、と葛藤の日々であった。
「…………」
サジェースタの腕を枕にしてぐーすかと間抜けな寝顔を曝け出している符正を見つめながらサジェースタは、想う。
亡き妻、サラルティアのことを。
「…………いかん、あいつなら絶対こいつのこと気に入りそうだ」
何か不穏なことでも考えてしまったのか、サジェースタは頭痛を抑えるようにこめかみをぐりぐりと押し、やがて何かを諦めたように笑って符正の体を抱き込んで眠りにつき始めた。
【怠惰】




