第十三世界 【絶望の世界】 前
第十三世界 【絶望の世界】
海底の世界に入ってから一週間と少しが経過し、ようやく月の浮かぶ青空の下へと這い出た一行は再び旅を再開させた。
“歪み”が存在しないという不思議な世界はどうやら氷の世界と海底の世界だけだったようで、次の世界からは普通に“歪み”が存在していた。
からくりの世界──“逃避”
絵本の世界──“侮辱”
火山の世界──“崩壊”
機械仕掛けの世界で歯車と化している人間たちに怯えたり、絵そのものになってしまう二次元の世界で三次元からの迫害から逃げたり、大噴火に次ぐ大噴火で崩壊しようとしている島で秩序が乱れている様子に怒りを覚えたり──色々な経験を経て、様々な思考を重ねて、ありとあらゆる試行錯誤の末に浄化を成し遂げてきた一行は──ようやく、辿り着いたのであった。
最後の世界へ。
最後の、真っ黒で真っ暗に染まった世界を前に一行はこれまでの旅に想いを馳せる。
「とうとう来ちまったか」
「……長かったような、短かったような……」
「そんな風にしみじみできるのってなんかいいなあ」
「別にお前とてしみじみできるだろう? 苦労の末に浄化できたら感動するだろう」
「ああ~……確かに。あんな感じなんですねぇ」
「空を見てみろ──私たちが浄化してきた世界が広がっている」
サジェースタにそう言われて符正は空を仰ぐ。青空の中に浮かぶ月、そしてその周りに広がる──美しく透き通った大地。
それを見て符正は微笑む。
「そうですね、わたしとサジェ様が出会ったころとは全然違います! こんなに頑張ったんですねぇ」
「うむ」
にこにこと笑う符正にサジェースタも笑い、その肩を抱き寄せて頭にすり寄った。
「さて、この世界ばかりは俺も想像がつかねェ。一体何があるのか全然分からねェ」
「……いいことが起きないってことだけは分かるな」
眼前に聳え立つは、濡羽色の壁。
符正の濡羽色の髪や目と同じ──真っ黒な壁。けれど符正のような印象は受けない。どちらかと言えば……幼いころの符正の目と同じ印象を受ける、終わっている壁であった。
以前、月の世界に行く前にも目前にしたこの壁ではあるが──あの時とは違い、今の彼らには進む道がこの黒い壁以外にない。この壁を乗り越えていくか、あるいは進まず他の世界で安穏と暮らすか──それしか選択肢はない。
「……なァ符正」
「ん?」
「お前、ここに来てサジェースタと一緒にいるようになってから考えること、増えただろ?」
「うん? ……うん、そうかなあ? 色々考えるようになった気は……するかなあ」
「……どうだ?」
ニコラウスの問いかけに符正は目を丸くしつつも考え込むようにしばらく唸り、やがて笑顔を浮かべながらニコラウスを見上げた。
「嫌だと思うことはいっぱいあったよ。“歪み”を前に、何で壊すのを我慢しないといけないのかって思うこともいっぱいあった。たとえ浄化されてもあれでよかったのかって納得いかないこともいっぱい、いっぱいあった。でも──」
サジェ様がいつも隣で、一緒に気持ちを共有してくれていたからへいき。
そう言った符正にニコラウスは金糸雀色の目をほんの少しだけ揺らし──そうか、と答えて優しく微笑む。
「──俺のしてきたことは、失敗だったのかもしれねェなァ……」
ぽつりと独り言のように囁かれたそれに符正はきょとんとする。その隣からサジェースタの腕が伸びてぺちりとニコラウスの額をはたいた。と、ゴルドルの方もニコラウスの後頭部をはたいたようでニコラウスの頭が一瞬前後に揺れる。
「何すんだてめェら」
「少なくとも今の符正がいるのはお前のお陰だ」
「ニコラウスらしくもないね。気色悪い」
「……サジェースタはともかく、ゴルドルてめェ」
そう口では悪態を吐きつつもニコラウスは笑みを浮かべてゴルドルの脇腹に軽く拳を入れた。
「さて──行くとするかァ?」
「うん。全部浄化したらどうなるのか……全然分からないけど」
「──安心しろ」
全部無事に終わったら、何もかも全部綺麗になってるさ。
そんな意味深なことを呟きつつ──ニコラウスは足を踏み出した。それに続いてゴルドルとサジェースタも足を踏み出し、ニコラウスの言葉に首を傾げていた符正が一歩遅れて最後の世界へと臨んでいく。
最初に黒い壁を通り抜けたのはニコラウスであった。これまでの青い壁とはまるで違う──どろどろとして粘着質な、体に纏わりつくような気分のよくない感覚を通り抜けて真っ黒で真っ暗な世界の中に身を潜り込ませたニコラウスが最初に覚えたのは、激痛であった。
「が、っ……!!」
続いて入ってきたゴルドルとサジェースタも同様に頭を押さえて呻き出す。
──キレイニシマショウキレイニウツクシク
“傲慢”
──ニクヲタベルナンテヤバンヤバンランボウアブナイ
“矛盾”
──ワカイモンハナマケルナアマエルナモットドリョクセンカ
“過信”
──ワクチンハアブナイワキケンダワダメヨチカヅイチャ
“怠惰”
──イラナイナラチョウダイタベタイモットタベタイチョウダイ
“暴食”
──ナンデタダシイノニミンナオコルノタダシイデショマチガッテナイ
“迷律”
──オマエハサベツシュギシャダサベツスルヒドイニンゲンダオマエハクズダ
“差別”
──ツマラナイモウアキタモットイイモノツクレヨ
“強欲”
──信頼とは裏切り。信用とは損切り
“虚栄”
──ホウドウスルジユウヲコウシスルワレワレノシュチョウヲセロンニスルノダ
“独善”
──スグメウツリシテミットモナイタイセツニシナサイヨソミシチャダメ
“束縛”
──カナシイネサミシイネナミダガデルネソウデショカナシイデショ
“哀愁”
──ニンゲンハドウブツトオナジダケモノナノダチクショウナノダ
“本能”
──ワレワレガセイギダオマエラハアクダオマエラノシソウナドミトメナイ
“憤怒”
──後悔も反省も懺悔も哀悼も何もしてねェぜ
“孤独”
──ブスノクセニイヤシイヤツドウセカラダデユウワクシタンデショミニクイワ
“嫉妬”
──コドモヲツクルノハホンノウダロダカラウワキハフツウオカシクナイ
“色欲”
──オカアサンドコニイッタノイタイヨイタイヨタスケテ
“破壊”
──ホウリツデカッテニキメルンジャネェヨオレタチハシバラレナイゼヒャッハー
“不実”
──ワタシハコウオモウンダカラソウニキマッテルノタダシイノヨ
“妄執”
──ミンナノメイワクニナルカラモットガンバリナサイハズカシイワミンナニアワセナサイ
“抑圧”
──ジカンガナイジカンドオリニジカンヲマモッテジカンジカンジカンジカン
“過労”
──ゲンジツテキニモノゴトヲカンガエマショウネマジメニカンガエテイコウネ
“諦観”
──カネモチハラクシカシテナインダロビケイハクロウシナインダロイイナア
“偏見”
──オレタチヲウケイレナイノハサベツダワサベツヨサベツヨ
“強要”
──コワイコワイコワイナンテオソロシイノアアコワイワコワイコワイ
“恐怖”
──ラクナミチエランデナニガワルインダヨクロウナンカシタクネェヨウルセェナ
“逃避”
──ナンテキモチワルイノドウセオタクナンデショウアアキモチワルイコワイワ
“侮辱”
──ココガコンナコトニナッタノハオマエノセイダゾセキニントレシネ
“崩壊”
──他にもありとあらゆる世界での、かつて対面し──浄化してきたはずの“歪み”が──そこに、詰まっていた。
頭の中に一気に流れ込んでくる“歪み”に脳髄をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、内臓までぐじゃぐじゃに潰されてしまいそうなほどの激痛を全身に感じながらニコラウスは必死に、死に物狂いで、最後の力を振り絞って──背後を振り返って叫んだ。
「入ってくるな符正!!」
「え?」
三人に遅れて黒い壁を通り抜けてきた符正がニコラウスの絶叫に目を丸くして立ち竦む。
それで、終わりだった。
ジ・エンドであった。
“終末同期能力”──
「あ? え?」
ぶわりと世界が膨らみ上がるように脈打つ。同時にそれまであんなにも三人を屠っていた“歪み”による激痛が消え失せる。
いや──消え失せたのではない。
戻ったのだ。
あるべきところへ、戻っていっている。
「あ……え、あ」
気付けば──真っ黒で真っ暗な世界は晴れ渡っていて、空には青空と月が浮かんでいた。突然澄み渡るように苦痛から解放されたサジェースタとゴルドルは茫然したように空を見上げ、それからニコラウスと符正の方に視線を向け──顔を、強張らせた。
「符正!!」
悲痛な声で符正の名を叫んでいるニコラウスと。
「────」
声もなく、真っ黒で真っ暗な──終わっている濡羽色の何かに呑み込まれてしまっている、符正。
「アレは……!? まさか符正なのか!?」
ぼご、ぼごと時折膨れ上がりながら蠢いている黒い塊にゴルドルが蒼褪めた顔でニコラウスに問うが、ニコラウスに応える余裕はない。
「畜生が!!」
がいん、とニコラウスの拳が地面に振り下ろされる。その拍子にニコラウスの拳が切れて血が噴き出すが──ニコラウスに気にする様子は一切ない。
「そういうことかよ……! 結局……! お前は溜め込むしかなかったってことかよ……!」
「どういうことだニコラウス!! 符正はどうなっているんだ!?」
サジェースタの悲鳴のような声にニコラウスはようやく耳を傾けてくれ、振り絞るような声で応えてくれた。
「“歪み”に呑まれたんだ」
「“歪み”……!? さっきのアレらか……!? 今までに浄化してきた──」
「できていなかったんだよ!!」
ニコラウスはまた叫び、拳を地面に打ち付ける。
「浄化なんてできていなかった──できるわけがなかったんだ!! ただ蓄積していくしかねェ符正から……“歪み”が消えるわけねェんだ!! たとえ納得したって、理解したって、向き合って悩みに悩み抜いたって──」
一度抱いてしまった“歪み”はいつまでも符正に同期され続ける。その“歪み”と後々和解したって、最初に抱いた時の感情や状況が符正の中から消えるわけじゃねェんだ。消えるわけがなかったんだ──そう悔しそうに言ってニコラウスは歯軋りをした。
「“終末同期能力”──まさに終末、ってとこだな」
ニコラウスは今にも泣き出しそうな──壊れてしまいそうな表情で弱々しくそう呟き、蠢く黒い塊と化してしまった符正を見つめる。
──その時であった。
「!? う、ぉああ!!」
「サジェースタ王!!」
ばぎん、と地面が割れてバランスを崩したサジェースタをゴルドルが慌てて支える。
その勢いは留まるところを知らず、ばきばきと地面がどんどんひび割れて崩壊していく。それだけではない──それまでただ蠢くだけであった黒い塊から手のようなものが伸び、周囲の地面を滅茶苦茶に叩き出した。
轟音を立てながら揺れ、割れ、崩れていく大地の中ニコラウスは静かに黒い塊を──符正を見つめる。
「くそっ、どうなってるんだ!! 符正……!」
「ニコラウス!」
割れゆく地面に戸惑い、バランスを取るのに必死なふたりを見やることもせずニコラウスはただ──呑まれた符正をまっすぐ見据える。
ひゅん、と黒い塊から伸びてきた手がニコラウスの頬を掠って血が噴き出す。けれどそれでも──ニコラウスは動かなかった。
「…………悪ィな符正。駄目だった」
その言葉に、符正からの答えはない。
「せめて──お前の大切なあのふたりだけは助けてやるから、安心しろ」
ニコラウスはそう言うとゆっくりと立ち上がり、サジェースタとゴルドルを振り返る。
「逃げるぞ! ここじゃ話も何もあったもんじゃねェ!!」
「符正はどうするんだ!!」
「──話はあとだ、とにかくここから離れるぞ」
ニコラウスはそう言ってサジェースタの腕を強引に掴み、乱暴に引き摺りながら走り出した。それをゴルドルも追い、三人で割れ崩壊してゆく大地から離れるべく必死に逃げる。時折黒い塊から攻撃も飛んできて、それを避けるのにも苦心した。




