第十三世界 【絶望の世界】 後
「ハァ……ハァ……だいぶ離れてしまったな」
呑まれた符正から離れ、寸前まで滞在していた世界──浄化済みの火山の世界に戻ってきた三人は一旦足を止めて後ろを振り返る。
そこには、もはや符正の面影が欠片たりとも感じられぬ巨大な黒い塊が蠢いていた。“歪み”をどんどん呑み込んで肥大化していったのか、かなりの距離を取っているというのにその黒い塊は余裕で目視できるほどに膨れ上がっている。
「おいニコラウス! いい加減話してもらうぞ!!」
符正が呑み込まれていくのをただ見ていることしかできず、あまつさえには助けることさえままならず逃げることしかできなかったことを悔いているのかサジェースタはニコラウスを睨みながら叫んだ。
ニコラウスはそれに答えるでもなくズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、何やら操作し始めた。突然登場したスマホにサジェースタとゴルドルは面食らい、持っていたのかとニコラウスを問い詰める。
「おい、俺だ。今すぐ“ゲート”をここに出せ」
ふたりの問いには答えずニコラウスはスマホを耳に押し当てて誰かと言葉を交わす。相手の声は聞こえなかったが、ニコラウスの言葉からしてファミリーの一員──部下のようであった。
それからしばらくしてニコラウスはスマホを再びズボンのポケットにしまい、ふたりに向き直る。
「サジェースタ、ゴルドル。今部下にこの世界から出るための“ゲート”を出すよう命令した。多少時間はかかるが……出てきたらお前ら、出ろ。そうすりゃ──現実世界に帰れる」
「……は?」
突拍子もなく、脈絡のない展開にサジェースタとゴルドルはしばし茫然とし──そしてゴルドルが顔に怒りを滲ませながらニコラウスの胸倉を掴んで叫んだ。
「いい加減にしろニコラウス!! 知っていることを全て話せ!!」
怒りに満ちた赤橙色の目にまっすぐ見つめられ、ニコラウスは金糸雀色の目を細めて頷く。
そして一言、囁くように言葉を紡いだ。
「悪かったな──てめェらをこの世界に引き込んだのは俺だよ」
「……!」
「…………」
サジェースタとゴルドルの顔に、驚きはあまりない。
それを見てニコラウスは自嘲したように口を吊り上げながらさらに言葉を続ける。
「てめェらも気付いているだろうが──この世界は符正の“心”だ」
「……符正の“心”」
「そう。符正の“脳波”──“記憶”──“感情”──“意識”──それらをプログラムに組み込んで構築した世界だ」
“心因性不和除去プログラム”──ニコラウスはそう語った。
「てめェらは知らないことだがな、この世界に来る直前のアイツは壊れかけてたんだ。“歪み”が蓄積しすぎてな。普通に生活していても嫌なことってのァある。普通の人間なら愚痴ってすぐ忘れちまうような嫌な感情でも──アイツは蓄積するしかない」
“終末同期能力”のせいで符正には忘れることができない。
人間が忘れることによって自衛していることを、符正はできない。どんな些細なことでも──ドアノブに触れて静電気でぴりっとしたという些細な痛みさえも符正は蓄積していく。全てを“今起きた出来事である”と誤認してしまう感覚のまま。
それがどういうことか。
そう、全ての痛みがたった今の痛みになる。
全ての嫌なことがたった今起きた嫌なことになる。
ニコラウスがどんなに自分の悪辣性を際立たせて他を目立たなくさせようとも。
ニコラウスがどんなに考えることを放棄するよう仕込もうとも。
符正は、溜め込むことしかできない。
溜め込む以外の選択肢を許されない。
そうして──この世界に来る前の、つまり生前の符正は──壊れてしまった。
「いわゆるオーバーヒートだ。“記憶”が脳の容量を超えちまったんだ」
熱暴走を起こした符正は倒れ、言葉を話すことさえままならない体になったのだという。
それをどうにかしたいとニコラウスは考え、そうして思い付いたのが符正の中から“歪み”の記憶を除去するという方法であった。
「じゃあ……ここはプログラムの世界なのか!?」
「そうさ。現存するVRシステムじゃ話にならなかったんで、脳に直接アクセスするEBプログラムを独自開発して“心因性不和除去プログラム”を作り上げた。これはいわば人間の心を疑似世界として再構築するプログラムでな。三人の実験体を使って、この再構築された世界での出来事は全て本人に直接影響することが分かった」
再構築された、その人間の心を表す世界──そこで例えば“傲慢”を象徴する物体を破壊すれば本人から“傲慢”の感情が消えたのだという。
「危険な懸けではあったが、符正を正常に戻すにはもうそれに懸けるしかなかった。符正から“歪み”という余計な記憶を除去して正常化を図る──つもりだったんだがな」
そこでニコラウスははあ、と大きなため息を吐いた。
「……俺は月にいるし、符正はてめェと一緒に“歪み”を壊すどころかなんか浄化しちまってるし……ワケ分からん展開だったよ」
「浄化──されるものではなかったのか?」
「俺は想定していなかった。“歪み”を破壊すりゃ“歪み”の記憶が消える、それしか分かっていない段階での強制措置だったからな」
その言葉を聞いてサジェースタは全身から血の気が引くのを感じ、ふらりとその場に膝をつく。
「……私が間違っていたのか? 浄化しては……いけないものだったのか?」
思い返してみれば、符正は最初から“歪み”を壊したがっていた。
戦闘脳だとサジェースタは断じていたが、もしかしたらあれは符正の防衛本能からくるものだったのかもしれない。
「──さっきも言ったが、“歪み”を破壊するとそれに関する記憶が消えるんだ。つまり、心の一部が壊れるってことだ──破壊した方がよかったのか、浄化してよかったのか、どちらが正解かなんてわかりゃしねェんだ」
もしもサジェースタが符正を止めることをせずに“歪み”を破壊して回っていれば。
今頃符正は心なき抜け殻のようになっていたかもしれない。それは確かに記憶を蓄積しすぎて熱暴走した符正を救う手立てにはなっただろう──だが、それで幸せなのかどうか──ニコラウスには判断できない。
「……ここが貴様の作ったプログラムの中で、符正の心を再現したものだというのは理解した。じゃあ、何故私たちもここに引き込んだんだ?」
「──万が一のためだ。何かあるか分からなかったからな……保険として、符正が唯一憧れていたサジェースタ、てめェを誘拐して引き摺り込んだ」
符正がどうにかなりさえすりゃてめェらがどうなろうとどうでもよかったからな──そう言ってニコラウスは力なく笑う。
最初は部下と共に行くことも考えたようだが、符正よりもニコラウスに忠誠を誓っている部下がニコラウスのために何をしでかすか分からなかったためやめたのだという。符正の弟や妹も考え、けれど弟や妹では符正が頼ることも甘えることも、守られることもないだろうと考え──符正が憧れを抱いていたサジェースタに目を付けたのだそうだ。
「だから最初に“死”の再現を行ったのさ。そうすることで没入性を高め──てめェが符正と向き合えるように仕組んだ」
自分が死に、現実世界にはもう戻れないと認識していなければ──符正よりも娘や国民のことを考えてしまいそうだと判断した上であの“声”を流し込み、そして疑似的な“死”の記憶を植え付けたのだという。
とんでも──ない話である。
「……私は何故引き込んだんだ? 符正とは関係ないだろうに……」
「ア? あァ……ゴルドルはついでだ」
「おい」
たまたま目の前にいたからついでに連れてきた──そう言ってのけたニコラウスにゴルドルはひくりと頬を引き攣らせる。
だが、怒る気にはなれなかったようでゴルドルはため息を吐く。この男が自分をこの世界に引き込んでいなければ──自分がサジェースタや符正と出会うこともなかったのだ。色々腹立つとはいえ、怒る気も失せるというものである。
「……この世界については理解した。では、符正はどうしたら助けられる?」
「無理だ」
サジェースタの言葉はその一言であっさりと切り捨てられた。
それにサジェースタはかっとなったようにニコラウスに掴みかかる。
「何故そう言い切れる!?」
「あのな、符正の前に実験した三人の被験体の世界はな──島の形をしてたんだよ」
「……島?」
「そう、島さ」
何もない真っ暗な空間に浮かぶ、何の変哲もない島。
その島には心の持ち主である人間の持つ感情や記憶が搭載されている。そして新たに加わり、増えていく感情や記憶に押し流されて古いものやどうでもいいものは──島の外に流れて消えていく。
つまり、忘れるのだ。
それを聞いてサジェースタとゴルドルは蒼褪めたように空を見上げる。
この世界に、“外”はない。最初から最後まで──完結している完全なる球体だ。それはつまり、逃げ道がどこにもないということ。
「“歪み”が浄化されて……喜んでたのが馬鹿みてェだ。たとえその時の“歪み”が本人の納得や理解によって浄化されても……根本は消えねェんだから」
その“歪み”を目にし、耳にし、実際に体験し、そうして覚えた感想や感情は決して消えない。浄化されない。全ては──あの黒い世界に蓄積されたままであった。
ニコラウスはあの黒く、暗く、昏い世界を符正の“心”の核なのだろうと推測した。符正が納得し、理解し、和解し、融和し──浄化していくにあたって邪魔になる、決して消えることのない“歪み”の記憶をあの黒い世界に封じ込めていたのだろうとニコラウスは語る。
「“歪み”を壊せば記憶は消えるから符正の体は救えるかもしれねェが、心は壊れるだろうな」
「……!」
サジェースタはぎり、と歯軋りをする。
何かないのか──必死に思考を巡らす。これまでの二年間以上の旅で、サジェースタは数えきれないほど符正に救われてきた。たとえそれが符正の心を救うために仕組まれた旅だったとしても──符正が命懸けで何度もサジェースタを救ったのは事実である。
サジェースタに懐き、頼り、甘え、けれどいざというときにはサジェースタの前に立って戦う。そんな何処にでもいるようで何処にもいない可愛らしい女性。
それを、失うなんて考えられなかった。
「どうにも……ならないのか?」
ぼろりと、無意識のうちにサジェースタの目尻から涙が零れ落ちる。それを見ても、ニコラウスは歯痒そうに目を伏せるだけであった。
「とにかく──お前たちは現実世界に帰れ。時間の流れが違うからあっちじゃァまだ半年程度しか経っていねェ。半年間の不在はデスピアファミリーのせいにしてもいい──俺たちはお前たちの言い分を全部呑む。大人しく帰るこった」
「待て。ニコラウス、貴様はどうするつもりだ」
「……こうなっちまったんだ。最後まで符正と付き合うさ」
そう言ってニコラウスは、もう今や月に届くほど膨れ上がった黒い塊を見上げる。
こうなってしまってはもはや“歪み”を破壊することさえままならない。ニコラウスの諦めたような表情にゴルドルは何も言えなくなり、ぎゅっと眉間に皺を寄せて沈黙する。
──けれど、サジェースタは諦めなかった。
「諦めるのか!? どうにか──どうにか……!」
諦めたくなかった。
ずっと傍にいた符正がもういなくなるなんて、認めたくなかった。認められなかった。
「……強情だな。もっと聞き分けのいい王サマかと思ったぜ」
「やかましい! 何か──何かあるはずだ!」
サジェースタは必死に考える。
この世界は符正の心であり、ニコラウスがプログラムした世界。
完全球体であり逃げ道が存在しない、“忘却”が機能しない世界。
そこに何かないか──サジェースタはただ、必死で考える。
「! まずい、月を破壊しやがった──落ちてくるぞ!!」
突然轟音が頭上から響いてきたかと思えば大空に浮かんでいた巨大な月が黒い塊によって破壊され、崩れていくのが視界に入った。
爆破飛散し、粉々となった欠片が地上目掛けて降り注いでくる。
ニコラウスは舌打ちしながらサジェースタの腕を取って強引に立ち上がらせた。そうすればゴルドルがサジェースタの腕を引いて駆け出し、それを追ってニコラウスも駆けながらスマホを取り出す。
「何してやがる!! さっさと出せ! 今移動しているから座標の指定はきっちりしろ!!」
その怒声が掻き消されるほどの衝撃音があたり一面から響き渡り、衝撃波によって吹き飛ばされそうになりながらも三人は駆ける。駆ける。ただ、駆ける。
「ぐっ!」
「ゴルドル君! 大丈夫か!?」
隕石の如く月の欠片が降り注ぐ中駆け抜けているとどうしても地面に激突して飛散してきた岩石が体を擦る。頭部に大きめの岩石が飛び、地面に倒れ込んで呻くゴルドルをサジェースタが慌てて支え、非力の身ながらもどうにか共に逃げゆく。
「しっかりしろゴルドル!」
途中からニコラウスがゴルドルの肩を支えてくれ、サジェースタの負担が和らぐ。それに安堵しつつ背後を振り返れば──黒い塊が、次第にその形を整えていっているのが見えた。
それまでただ無造作にぼごぼごと蠢いているだけであった黒い塊は次第にスマートな造りとなり、やがて人型が形成されていく。月に届くほど巨大な──黒い、濡羽色のヒトガタ。
「符正……!」
「やっと落ち着いてきたか──」
爆破飛散した月の欠片が落ち切ったのか、空からの飛来物が消えたことにニコラウスは安堵の息を吐きながら足を止める。そしてぺちぺちとゴルドルの頬を叩き、しっかりしろと一喝した。
「ぐ……すまん」
「ゴルドル君、すまない。私をサポートするために──」
「それはどうか言わないでください、サジェースタ王。符正も──何も言わずあなたを支えるでしょう」
「…………」
ゴルドルの優しい言葉にサジェースタは脳裏に符正の姿を思い描きながら黒い塊を見上げる。ヒトガタを形成した黒い塊はだんだんとヒトらしく──いや、符正らしくなっていっている。
そしてもうひとつ。
符正の体は未だ、肥大していっていた。月を破壊するほどに巨大になってもなお──止まることなく、どんどん肥大していっている。よく見れば月を中心にして形成されている大地からモノや人間、動植物に建造物──ありとあらゆるものが少しずつ、少しずつ符正に引き寄せられるように浮いて吸い込まれていっている。
「アレは……」
「符正を圧迫しているのは“歪み”だけじゃねェからな。なんてことない記憶──朝起きただとか、メシ食っただとか、てめェとイチャついただとか──そんな楽しい日常の光景でさえも符正にとっては“蓄積していくだけの記憶”だ。“歪み”じゃない分負担は軽いだろうが、な」
その言葉にサジェースタはぐっと息を詰める。
この二年間、符正と共に過ごしたという実績。それさえも符正にとっては脳の容量を圧迫する“記憶”にしかならないのだ。サジェースタやゴルドル、ニコラウスであればそれらを“思い出”として──“経験”として昇華させ、還元させることができるというのに、符正はそれができない。
ただ、溜める。
溜めて溜めて溜めて、溜めていく。
膨張して膨張して膨張しきって破裂するその時まで──ただひたすら、溜める。
「っと、いよいよヤベェな」
ばきばきばき、と音を立てながら大地が剥がれて符正に吸い込まれていくのを見てニコラウスが舌打ちする。と、同時にヴィンと小さな電子音を立てて三人の前に白い“扉”が前触れもなく表れた。
「やっとか。──サジェースタ、ゴルドル。ここ通って帰れ。現実世界に──てめェらの世界に」
崩壊してゆく世界には似つかわしくないほどに無垢な、白く無機質な扉。
それを指差して帰るよう促すニコラウスに──サジェースタとゴルドルは動かなかった。
「……帰れよ。ここにいたまま、符正の崩壊に巻き込まれりゃァてめェらの心も壊れちまう。そうなりゃ一生植物人間だ」
ニコラウスはまた、促す。
けれどふたりは動かない。
ふたりとも──まっすぐ符正を見上げている。
肥大に肥大を重ね、肥大しきって──とうとう自らの体でこの球体を圧迫し始めた、符正を。青空さえ符正の体に圧し潰されて消えてしまっている。あたりは暗く、右を見ても左を見ても上を見ても符正の体しか見えない。
このままでは符正の体がこの球体世界を破壊し──共に消滅の道を辿ることになるだろう。
それを理解していてなお、ふたりは動かなかった。
「……っ、いい加減にしろ!! てめェらを死なせたら符正に合わせる顔がねェんだよ!!」
符正はてめェらふたりが大好きだ──だから符正のせいで死なせるわけにはいかねェんだよ!
そう叫び、ニコラウスはふたりの腕を掴んで強引に扉に押しやろうとする。だが──ゴルドルの腕がそれを押し留めて逆に抑えつけられ、叶わなくなってしまう。
ニコラウスはゴルドルに抑えつけられたまま、泣きそうな声でまた叫ぶ。
「てめェらが符正を大切に想ってくれてんのは知ってる!! だからこそ──俺も、死なせたくねェんだよ」
頼むから帰ってくれ。
もはや泣いているのと変わらぬ声で、顔を両手で覆いながらそう言ったニコラウスにサジェースタとゴルドルは思わず顔を見合わせ──噴き出すように笑った。
「案外大切に想ってくれてたのだな」
「ニコラウスのこういう面が見られるとは──悪くない」
「……おい、てめェら」
びきり、と青筋を浮かべながらふたりを睨むニコラウスに、だがサジェースタとゴルドルは笑うだけであった。
最期だというのに。
もう、終わりだというのに──
何故だかとても晴れやかな気持であった。
サジェースタは、ふと思い出す。
“死ぬ時は一緒です”──符正がそう言葉にしてくれた時のことを。
「──まあ、娘には悪いが……約束だからな」
死ぬ時は一緒だ、符正。
そう言ってサジェースタは──符正の、今にも壊れて潰されて死んでしまいそうな、濡羽色の目を見上げる。
──その、時であった。
「さ、じ、ぇ──さ、ま」
小さい、とても小さい──気を抜けばすぐ聞き流してしまいそうなほどに小さい声。
それがしてサジェースタは驚いたように目を見開く。符正の──ぎちぎちに世界を圧迫してしまっている符正の、唇が微かに動いていた。
「符正……!」
「さ、じ、ぇ……さま」
つう、と符正の濡羽色の目から透明な──海底の世界での透き通った空間を彷彿とさせる透明な波だが流れ出る。それは符正の頬を伝って顎に留まり、やがてぷつりと切れてサジェースタの体に落ちた。巨大化している符正の涙ともなれば相当な水の塊で、サジェースタは耐え切れずべしゃりと尻餅をついてしまう。
「サジェースタ王!」
「大丈夫だ! 符正──どうした?」
ぼたり、ぼたりと溢れ出るように符正の涙が大地に滴り落ちる。ゴルドルもニコラウスもその滝のような涙を浴び、水浸しになりつつも符正の動向を見守って静かに見上げた。
「さ、じぇ、さま──」
ぼたり、とまた新たな涙が零れ落ちる。
そして。
「たす、けて──」
助けを、求められた。
「……!!」
──ばきっと、サジェースタの拳がサジェースタの頬を打ち抜く音が響く。突然自分で自分を殴ったサジェースタにゴルドルが一瞬動揺するが、その場から動くことはしなかった。
「──馬鹿か私は! 諦めてどうする! 符正は──死にたがってなんかいない!!」
そう叫んでサジェースタは考えろ、と己の額に拳を押し当てて必死に思考する。ゴルドルとニコラウスも涙を流す符正を見上げながら思考に思考を重ねているようであった。
この世界は、既に限界である。
符正の“記憶”が記憶領域の限界を超えてしまっている。そしてそこに捨て場は存在しない。
普通の人間ならば“忘却”という逃げ道が存在するのが──符正にはない。
逃がす場所が──ない。
「……逃がす、場所」
ちり、とこめかみが焼け付くような感覚を覚えてサジェースタは顎を撫ぜながらさらに思考を重ねる。
符正の心は既に満杯で。
捨てる場所が存在しなくて。
それで壊れそうになっているのならば。
「……! ニコラウス!! お前の作ったプログラム──私にも行使できるか!?」
「ア? “心因性不和除去プログラム”か? やったとして一体どうすんだ」
「符正の心と私の心を繋ぐ。──できるか?」
サジェースタの口にした、荒唐無稽すぎる道。
常人であれば一笑され一喝され一蹴される道。
だがニコラウスにはそれが一条の光に──唯一の道になるとすぐに気付いたようでその金糸雀色の目をまん丸に見開く。符正にそっくりだな、などとどうでもいいことを考えながらサジェースタはどうなのかと問う。
「──できる。制御権を外の連中から俺に移せばできる──だが、そうすると今度はてめェが壊れるぞ。符正の記憶容量は常人のそれとは比べ物にならねェんだ──余剰分だけでもあっという間にパンクしちまう」
「ならば我々三人で引き受ければどうだ? 符正は“記憶”を我々三人に流し込み、そして我々三人は普通に“忘却”していく。──……そうすれば符正の心は壊れない、違うか?」
サジェースタに続いて今度はゴルドルが突拍子もない提案をし、ニコラウスはまたもや目を丸くし──そしてチェシャ猫のように口を吊り上げた。
「悪かねェ。正直、懸けでしかねェが──やってみる価値はある」
それからのニコラウスは速かった。
スマホを取り出して部下にコンタクトを取り、プログラムの制御権とやらを自分に移したあとは空間に何やら未来の世界で見たようなホログラムやモニターを浮かべて操作し始めた。
「“心”を繋ぐってことは“記憶”だけじゃねェ。“感情”も──“意識”も共有するってことだ。なにかしの弊害が起きるかわからねェ──覚悟しとけ」
ふたりにやめるかどうか提案することもせず、ニコラウスはそうとだけ言って口を吊り上げながらモニターを高速で操作していく。ニコラウスの中では既に決行が決定事項であり、やめるという選択肢は何処にも存在しなかった。そして──それはサジェースタとゴルドルも同じであった。
たった二年。
されど二年。
この二年間で──日向符正は彼らにとってかけがえのない存在となっていたのだ。彼女なくしての世界など、既に無意味。
「さ、じぇさま……ご、る……にこ、ら」
今にも球体世界の壁を破壊してしまいそうな符正が三人の名を呼ぶ。
それに三人は、応える。
「約束しただろう、死ぬ時は一緒だ──そして生き残る時も、一緒だ」
「符正、私は既にお前とサジェースタ王についていくと決めたんだ──勝手にいなくなってくれるな」
「フン。我が妹ながら──手間がかかるヤツだ」
それぞれの言葉を最後に。
それぞれの言葉を合図に──ニコラウスは最後のキーを押す。
──その後の記憶を、サジェースタはろくに有していない。
白く染まった世界。
白一色の何もない世界。
その中心部で──横たわる、元の大きさに戻った符正。
そして──心の中に流れ込んでくる、膨大な“憎悪”という“歪み”。
歪んだ感情への憎悪。
歪んだ願望への憎悪。
歪んだ意識への憎悪。
歪んだ行動への憎悪。
歪んだ世界への憎悪。
歪んだ──人間への憎悪。
ありとあらゆる“歪み”を凝縮しに詰めたような黒く、暗く、昏い“憎悪”に──心が圧迫されそうになる。
けれど圧迫されて限界値を迎えた“憎悪”はそれ以上膨れ上がることはなく、何処か他の場所へ──共に心を繋いだ仲間たちの元へ流れ込んでいっているようであった。
それが──“歪み”を正す旅における最期の記憶であった。
【憎悪】




