第十一世界 【氷の世界】 後
サジェースタ・サン・ジャスティト。
日向符正。
ゴルドル・ユートピア。
ニコラウス・デスピア。
“声”によって選られた四人の代表者での旅が始まってから──既に一年が、過ぎていた。サジェースタと符正が出会ったころから数えれば二年も経っていることになる。
数えきれぬほど多くの世界を巡り、把握しきれぬほど様々な“歪み”と直面し──その全てを浄化してきた四人は今、極寒の氷原の中にいた。
「さむ~~い!!」
その叫びと一緒に吐き出された息が白く凍り付く。
ああ寒い、とまた白い息と一緒に愚痴を零しながら符正は赤く染まった鼻先を擦り、自分の体を背後から抱き締めているサジェースタを振り返って大丈夫かと問うた。それに対する返事はなく、ただぎゅうぎゅうとさらに符正を抱き締める腕に力がこもるだけであった。四人の中ではサジェースタが一番薄い生地の服であったため、凍えに凍えて喋ろうと言う気すら起きないのだ。
元々冬の出で立ちであった符正とスーツに身を包んでいるゴルドルはサジェースタに比べればいくらかマシであった。──だがニコラウスは袢纏の下は膝丈のズボンに半袖のシャツだというのに平然とした顔をしている。夏でも袢纏を脱がないというし、気温の変化に耐性があるのかもしれない。
「……符正、ニコラウス。空を見てみろ」
ゴルドルの言葉にふたりが上を仰いでみれば、夜空に色鮮やかなオーロラが浮かんでいた。紫色から青色、青色から緑色、緑色から黄色と色鮮やかなコントラストが美しい光の帯である。
──だがふたりはオーロラに見惚れるよりも先に、怪訝そうに眉を顰めた。
「オーロラが……動いていない?」
見渡す限り何処までも氷しかない銀世界と対を成すように広がっている常闇の空。そこにいつもと変わらず浮かんでいる金糸雀色の満月を取り囲むようにして巨大なオーロラが発生していた。そこまではこの極寒の世界ならではの景色だと認識できるのだが──何故か、オーロラは微動だにもしなかった。
そう。
まるで時間が停まってしまったかのように。
「動かないオーロラ……ね。ここの“歪み”と関係あるのは確かだな」
ニコラウスはそう言って笑うと氷上を滑るように歩き始めた。それを追ってニコラウスと符正も歩き出す。ちなみにサジェースタは本気で凍え死にかけていたため、符正がおんぶをすることになった。サジェースタをコート代わりにして自分のコートをサジェースタの上に掛けてくれたため、寒さは幾分か紛れたようでサジェースタの目に少しばかり光が戻った。サジェースタは符正の優しさと温もりに感謝しながら男としてのプライドを完全に粉砕してゴミ箱に捨て、しっかりと符正に抱き着く。男としてのプライドを捨てるのはこれで何回目だろうか。
「何もねェな」
「手掛かりはあの停まったオーロラだけ、か……」
歩けど歩けど氷河しか見えぬ世界にニコラウスとゴルドルが疲れたように息を吐き、その息が白く凍り付く。
「……ん?」
符正で暖を取ったお陰で周囲を見回す余裕が生まれたサジェースタがふいに眉を顰めながら符正を呼ぶ。
「下、何かないか?」
「下?」
サジェースタにそう言われて素直に下を見て見るが下には氷しかない。
いや。
あった。
「……──人?」
氷に積もった霜のせいで見辛くなっているが、冷たく分厚い氷の下──いや。
氷の中に、人間がいた。
「!? これは──」
それもひとりではない。
何十人──何百人、何千人もの人間が氷の中に閉じ込められていた。ある日突然凍り付いたかのように氷の中の人々は日常そのままに停止している。ある人間は通勤中に定期券を取り出しながら凍り付き。ある人間は料理中に味見しながら凍り付き。ある人間は本を読んで笑いながら凍り付き。ある人間は恋人と口付けしながら凍り付き。
全てが、停止していた。
「……時間が停まっているってことかァ?」
霜を靴先で取り除きながらニコラウスがそんなことを言い、サジェースタは考え込むように符正の肩口に口を埋めた。
「みな、別に不幸ではなさそうだ。本当に日常の──なんてことないひとコマの中で停滞しているように見える」
サジェースタの言葉に符正は“停滞”か、と独り言の王に漏らす。
“停滞”。
その単語を聞いて、これまでの旅の経験と関連付けた上で連想できるのは“保守”だと符正は語った。事なかれ主義の色が強い日本では特に目立つが、変化を厭う人間というのは多いのだ。年嵩の人間によく見られる傾向であるが、法改正や働き方改革などといった環境や制度を従来のものから変えていくことを必要ないと考えている。
“そんなことをしなくても我々はうまくやってきた”──“今まで通りで何も困らないのに何故変える必要がある”──そんなことを口々に言って保守的であろうとするのである。
「変化を嫌がる層は何処にでもいるな。時代が変われば必要なものも変わっていく──それに気付けぬ者たちが“伝統を守る”という大義名分を掲げて拒絶してくるな」
「フフ! いるなァ~。頑なに新しいモンを使いたがらないヤツとかなァ。そういうヤツらに限って決まったように“古き良き”よりも“新し悪し”の方を主張するんだよなァ」
結局は自分がついていけないから否定しているだけなのさ──そう言ってニコラウスは嘲笑した。
「……自分がついていけないから」
ぽつり、と符正がニコラウスの言葉を反復して氷の中を眺めたまま動かなくなる。その様子にサジェースタは怪訝そうな顔をしてどうかしたかと問うが、符正から返事はない。
「停滞……否定……自分が、ついていけなく──」
衝撃。
鈍痛。
冷気。
「ぉあ?」
気付けば符正から落ち、氷上に無様に転がっていたサジェースタは目を点にする。符正から離れたせいで全身を襲う凍える空気に鳥肌を立てながら視線を巡らしてみればニコラウスが符正の頭を踏みつけているのが見えた。
「符正!? ニコラウス! 貴様何をしている!?」
「……この世界は“歪み”と言うには少し違うようだ」
サジェースタの怒声を聞き流してニコラウスはそう言い、符正の頭をより強く踏みつける。相当本気で蹴られたのか符正に動く気配はなく成すがままとなっている。ゴルドルがニコラウスを背後から羽交い絞めにしていたがニコラウスの体が動く気配はない。符正と血縁関係があるだけあって本気を出せば──符正と変わらぬ強さを持つのかもしれない。
「“停滞”か。そりゃそうだ──符正は動けない」
そう言ってニコラウスは気を失っている符正の胸倉を乱暴に掴み、次の世界に向かうぞとサジェースタとゴルドルに言って大股で歩き出した。
「待てニコラウス! いい加減にしろ! 貴様は何を知っている!? この世界と符正に何の関係があるのだ!?」
凍えそうな体を押し殺してサジェースタがニコラウスを追い掛けながら叫ぶ。ゴルドルも氷上に落ちてしまった符正のコートとマフラーを拾い上げてからふたりを追い掛けて走り出した。
「この世界は符正の“時間”だ」
「──時間?」
「符正の中の時間はいつだって停まっている。動き出すことなんてねェ──永遠に停まったままだ」
大股で足早に歩きながら紡がれたその言葉にサジェースタはかつて時計の世界でニコラウスが口にしたことを思い出す。
符正には時間認識能力がない。
ないからこそ正確に時間を計れる。
当時も、そして今も全く意味の分からぬそれを改めてニコラウスに問うてみれば、逆に問い返されてしまった。
「“昨日”って何だ?」
「……は?」
「“昨日”って何だ?」
間の抜けた顔をするサジェースタにニコラウスは再び、問う。
彼にしては珍しい真面目な表情にサジェースタはそれが決して冗談の問いかけではないことを察して唇を引き締めた。
「……カレンダーの上で言うならば一日前。時計の上で言うならば深夜の零時を過ぎる前。……感覚的で言うならば今朝目を覚ますまで、だな」
「何故“昨日”は“昨日”って分かる?」
「…………、……」
カレンダーや時計で“昨日”を判別するという単純な話ではないだろうと考えてサジェースタは眉を顰める。おそらくは体感的、感覚的な次元での話だろうが──それを説明しろと言われてもすぐには言葉にできない。
そうしてサジェースタが頭を悩ませているとニコラウスがゆるやかに口を吊り上げながら言葉を連ねてきた。
「三歳の符正に聞かれたことだ」
「!」
“昨日”って何?
何故“昨日”って分かるの?
──そう問われたのだと、ニコラウスは懐かしむように──けれど何かを恐れるかのように目を細めて言った。
「幼い子どもであれば突拍子もない質問は珍しくない──が、そういう次元ではなさそうだな」
追いついてきたゴルドルがサジェースタの肩に符正のコートを掛けながらそう言ってきてニコラウスは頷く。
「当時の符正は“昨日”と“今日”の区別がつかなかった」
「……!」
「時間という概念を全然理解できていなかったのさ。当時のコイツにとって──いや、今もか。コイツにとって全ての時間軸は“今”でしかねェんだ」
“昨日”は“昨日”だと理解できず。
“さっき”を“今”と誤認して。
“今”が“いつ”か認知できない。
そんなガキだった──そう言ってニコラウスは手元の符正を見下ろす。
「少し前の出来事を少し前と認識できなくて、たった今起きた出来事だと誤認しちまう。寝て、起きて、昼過ぎになったというのに起きたのは今しがただと誤解しちまう。コイツには体感時間なんてモンがなかった」
時間認識能力なんてのは存在していない。
そう言い募るニコラウスにゴルドルが思案するように眉を顰め、ニコラウスに声を掛けた。
「符正は旅が始まってからの日数と時間を正確に把握している。アレはどういうことなんだ?」
「俺が教えたのさ」
時計と向き合って、一秒一秒の経過ごとに状況が変わっていくことを教え込んだ──そんな答えにサジェースタとゴルドルは驚いたように顔を見合わせる。
「今どら焼きを食べた。十秒経った。どら焼きを食べたのは“今”じゃない。この針がここを指していた時──つまり二十秒前だ。……そんな風にな」
時間を認識できない符正に時間を認識させるためにニコラウスは符正に時を刻むことを教え込んだのだという。体感時間が存在せず、全ての現象を“今”と誤認してしまうのであれば符正の中に正確に時を刻む時計を作り、その時その時の現象を記録させたのだそうだ。
「昔のコイツはな、混乱していたんだ。当たり前だ──“昨日の出来事”“さっきの出来事”“昔の出来事”、それらひっくるめて“今の出来事”って勘違いしちまっていたからな」
「……それで符正にファイリングを覚えさせたのか」
ニコラウスが幼い符正に教え込んだのはサジェースタの言った通り、ファイリングにも似た作業法である。その時その時の現象を体感時間でいつであるのか理解できないのであれば、何月何日何時何分何秒に起きた事象であると逐一記録してゆけばいいのだ。そうすればそれらを“今”のことであるように思っていても照会すれば実際には違うということが分かる。
そうして符正は常に頭の中に正確に時を刻む時計を持つことになったのだという。だからこそ旅が始まってからこれまでの経過日数も正確に分かるのだとニコラウスは語った。
「……思い当たることがないわけではない。が、想像しようにも難しい感覚だな……全ての現象を“今”と誤認するとは……」
かつて遊園地の世界で、符正はサジェースタに言った。
“飽きる心理が分からない”と。“懐かしいと思ったことがない”と。
あれらはまさに、時間の概念がないからこその発言であったのだ。過去が全て“現在”であるかのように誤認してしまうのであればそこに懐かしむ余地も飽きる余地も生まれるわけがない。彼女にとっては“現在進行形”なのだから。
「……駄目だな。どういう感じになるのか全く想像できない」
ゴルドルは符正の時間認識能力のなさについて理解しようとなんとか試行錯誤していたようだが、さっぱり分からないと降参した。サジェースタも同感だと零す。
「俺だって分からねェよこんな狂った感覚」
でもそうなんだから仕方ねェだろ──そう締めくくってニコラウスは符正の体を乱暴に放り投げ、サジェースタに押し付けた。
「う、おっと!」
「狂った女だが、それでもいいのか? サジェースタ」
狐面で顔を隠し、表情を見られぬようにしながらニコラウスがそう言ってきてサジェースタはほんの少しだけ不愉快そうに片眉を上げる。
随分と冷えてしまっている符正の体を抱き直して己の体と密着させながらサジェースタは鼻を鳴らしてニコラウスを見上げた。
「答えねば分からぬかね?」
寒さで鼻先と耳を赤く染め、唇は逆に色が抜けているサジェースタは今にも凍り付きそうな指先をかじかませながら符正の体を温めるように撫ぜている。その仕草には符正に対する労りと慈しみが溢れていて、ニコラウスは狐面の下で口を吊り上げた。
【停滞】




