第十二世界 【海底の世界】 前
第十二世界 【海底の世界】
青空と、月と、白い砂浜と、青い海。
ざあざあと透き通った波が打ち寄せてきている波打ち際を前に符正のアッパーがニコラウスに決まった。
「まあ、当然だな」
「ええ。当然ですね」
綺麗な弧を描いて海へと落ちていくニコラウスを眺めながらサジェースタとゴルドルは頷き合う。
──氷の世界を浄化せぬままに青い壁を通り抜け、この世界へとやってきたのだがその時点で符正が目を覚まし、早速ニコラウスへの復讐が果たされたところである。
「氷の世界……なんか変わってないみたいですけど、浄化はできたんですか?」
砂浜から見える青い壁の向こうに広がる氷河に符正が首を傾げるが、サジェースタとゴルドルは顔を見合わせて曖昧に微笑むだけであった。
時間認識能力を持たぬ符正。
全ての時間軸が“今”になってしまう狂った感覚。
──ニコラウスはそれを符正に深く自覚させたくないようであった。理由はよく分からなかったものの、符正と長い付き合いのあるニコラウスが言うのだからとサジェースタとゴルドルもそれに倣って符正に細かく語ることはしなかった。
「……? まあ、いいや。てかこの世界すごく綺麗ですね」
符正の思考を放棄する癖のお陰で追及されることはなく、ふたりはほっと安堵の息を吐きながら青く透き通った大海原を眺める。サファイアのような輝きを放つ海を白磁色の波が彩っていて、その白磁色の波は海岸に近付くと透明度の高い青藤色の波となって白い砂浜に輝きをもたらしている。とても“歪み”があるようには思えぬ美しい世界だ。浄化した後の世界であると言われれば納得してしまえるほどに──光に満ち溢れている。
「……“歪み”はないのかもしれません」
ぽつりと、符正に聞こえぬようサジェースタの耳元でゴルドルがそう囁いてきてサジェースタは頷いた。前の世界──氷の世界でニコラウスはふたりにこう言った。
──この世界は“歪み”と言うには少し違うようだ。
──この世界は符正の“時間”だ。
そしてニコラウスは“歪み”の中枢を探すことも浄化することもせずまっすぐ次の世界を目指した。正直、サジェースタとゴルドルには何が何だかわからぬ展開であった。ただ──ニコラウスのただならぬ雰囲気を前に、従うことしかできなかったのだ。
その、妹を必死に守ろうとする兄の姿に。
「……ところでニコラウス君が浮いてこないんだが大丈夫か?」
符正にぶっ飛ばされて海に落ちたニコラウスがいつまで経っても浮上してこないことにさすがに不安を覚えたサジェースタがそう言い、その言葉にはっとしたように符正とゴルドルが海を見る。
「ニコラー!?」
「あの馬鹿、まさか溺れたのか?」
そう言って慌てたようにふたりが海に入ろうとした、その時であった。
ざばりと水飛沫を上げながらニコラウスが海からひょっこりと顔を出してきたのは。
「ニコラ!」
「……なんだ、残念。生きてたのか」
「ひでェ言い草だな、ゴルドル」
残念そうにため息を吐くゴルドルにニコラウスがチェシャ猫のように口を吊り上げる。ざぶざぶと水を掻いて砂浜に向かってくるニコラウスを眺めて、ふとサジェースタは違和感に気付いた。
「──濡れてない?」
「え? あ、ほんとだ」
海に浸かっているニコラウスの体が、全く濡れていなかったのだ。
髪はいつもと変わらずざんばらに跳ねているし、袢纏も水を吸うことなくふんわりとした質感を保っている。ニコラウスが手を海面に沈めれば海面はそれに倣って形を変えるし、水飛沫も上がる。けれどニコラウスの手自体は全く濡れていない。
「海の中でも息ができたぜ。この世界は大部分が海のようだし──海底が本拠地ってトコじゃねェか?」
なんと、驚いたことに符正にぶっ飛ばされて海に落ちたニコラウスは海中で息ができることに気付いてしばらく潜水していたらしい。
「わあ、海の中に行けるの? なんかロマン」
「海底か……海上は美しくても海底は……かもしれませんね」
「うむ。深海にまで行かねばならぬとしたら……“歪み”も相当のものかもな」
地球上において人類が未だ踏破できておらぬ領域はいくつかある。
永久凍土の閉ざされた氷の世界──謎多き地底の世界──そして何者をも寄せ付けぬ深海の世界。深海は光という光を拒絶し、地上に棲む生き物たちの来訪を許さぬ重圧に守られている神秘の世界だ。“歪み”が存在するとすればさぞ大物であることだろう。
「行ってみましょう! 行かなければ何も始まりません!」
うきうきしたように笑顔を浮かべる符正にサジェースタは苦笑を零し、落ち着くよう諫めてから符正の手を取って海に足を踏み入れた。
ざばりと足が水に浸かる感触はある。だが、海面から足を上げてみればやはり濡れた感覚は何処にも残っていない。不思議なものだと思いながらどんどんと沖に向かっていく。その後ろをゴルドルとニコラウスも追ってきているが──傍から見れば集団入水にしか見えない絵面だ。
「……とても息できるなんて信じられないな」
首まで海に浸かり、波に体を持っていかれそうになりながらサジェースタはちらりと海中を眺める。透明度が高いお陰で海中で優雅に泳ぎまわる魚の群れや色鮮やかに咲き誇る珊瑚や海藻などがよく見える。その透き通った光景は海中ではなく空を泳いでいるのだと言われても頷けるほどの美しさであった。しかし体は確かに海に浸かっているという感触で満たされているし、口に入ってくる海水は塩辛くて仕方ない。とても海中で息ができるとは──思えなかった。
「まあ案ずるより産むが易し、ですよサジェ様」
そう言って符正はするりとサジェースタの首に腕を回して抱き着き──間近に迫ってきた符正の顔にサジェースタがどきりするのと同時に海中に引き込まれた。
ごぼり、とサジェースタの口から大量の泡が排出される。息ができない──排出される空気と逆流してくる海水に両手をばたつかせて海上に出ようともがく。けれどそんなサジェースタの頬がぽふぽふと叩かれ、そこでようやくサジェースタは目を開ける。
「大丈夫ですよ。息を吸ってください」
濡羽色の髪を水に揺らめかせながらサジェースタの頬を両手で挟んで微笑んでいる符正が目の前にいた。頬を包み込む符正の手にほうっと安堵したように肺が勝手に息を吸い込み──ごぼりと先程飲み込んでしまった海水が排出される。その後は普通に呼吸できるようになっていて、サジェースタはぱちくりと目を見開いた。
「ほら、行きましょう」
そう言って符正はサジェースタの手を引いて泳ぎ出した。体は完全に水中の中にいる感覚のそれだというのに装備もなにもなく呼吸ができるという不可思議さに茫然としているサジェースタは符正に引かれるままゆらゆらと海中をゆらめく。
「驚いたな。こんな経験ができるとは」
「おいゴルドル、コレやるぜ」
「何だ? ──痛い! ウニ投げるな!」
符正とサジェースタの後ろではゴルドルとニコラウスが同じように泳ぎながらコントしている。
「わあ、魚の群れ! おいしそうですね!」
色鮮やかな魚の群れが符正に合わせて周囲を泳ぎ、それに符正が涎を垂らす。即座にサジェースタのチョップが飛んできて符正の蛮行が成されることはなかった。
「んん……暗くならないな」
「……そういえばもう結構潜ったはずなのに明るいままですね」
海というのは数メートルほど潜るだけで光が水に遮られ、暗くなっていくものなのだがこの世界の海はそんなことないらしい。もう数十メートルほど底に潜ったというのに透き通った青藤色の世界が広がるままである。上を見上げればきらきらと光り輝く海面がよく見える。
「わっ、イルカだ」
イルカの群れが符正たちに気付いて寄って来て、ぴゅいぴゅいと鳴きながらぐるぐると周りを泳いできて符正は歓声を上げた。
「かわいい~! この子たち人懐っこいですね!」
「可愛いな」
イルカの頭を撫ぜながらサジェースタも心癒されるように微笑む。ニコラウスはイルカの背びれに掴まって一緒に泳ぎ回って遊び、ゴルドルは後ろで纏めている髪をイルカに引っ張られて遊ばれていた。
「わ、クジラだ!」
ふいにサジェースタたちの体に影がかかり、上を見上げれば巨大なクジラが優雅に泳いでいる姿があった。クジラの周りには数え切れぬほどの魚の群れがおり、テレビでしか見れぬ雄大な風景にサジェースタと符正は圧倒されたようにため息を零す。
「わっ、体が引っ張られる!」
クジラが横切ったことで生まれた海流に引き摺られそうになった符正の体をサジェースタが掴み、一旦底に足を付けようと提案する。
それに従って一行は海の底に足を下ろし、さらなる底を目指してなだらかな坂を歩き始めた。ふわふわとした浮遊感に時折翻弄されながらもひたすら歩き、時には泳いで魚たちと遊び回り──逆にサメやウツボといった危険生物と戦いつつもひたすら進み続けた。
そうして気付けば、三日が経過していた。
そのころにはあたり一面紺青色に染まり薄暗い世界が広がっていた。上を見上げてもきらきらと輝く海面は見えない。
「ごはん食べたいなあ……」
「傷付かない限り腹は減らないとはいえ……口寂しいものがあるね」
海面が近い時はまだ貝や海藻といった食糧があったもののここまで深く潜るとろくなものが見当たらなく、符正は唇を尖らせて頬を膨らませていた。
歩き続けることによる疲れでも魂は摩耗するが、戦闘による摩耗や傷付き、死んだことで再生しなければならなくなった時の摩耗ほどではない。故に一行はあまり空腹感を覚えてはいなかった──だが食べることが大好きな符正にとっては大問題なのである。そう、大問題なのだ。
「なまざかな……」
「やめろ。調味料が海水しかないのだぞ」
数日前に生の貝を調味料もなくそのまま食べてその微妙な味に顔を顰めたことのあるサジェースタはため息を吐きながらそう言う。
海中では火を熾すこともできないため、必然的に生食が中心となったのだが──調味料がない海中では強制的に全て塩味となり、正直言ってあまりいい食生活とは言えなかった。サメとの戦闘があった際にはさすがに体力を回復させるべく全員でマグロの刺身を食したが、それ以降は符正以外誰も食事していない。
「ああ、お寿司食べたい。海鮮丼食べたい。天丼もいいなあ~。ああ、てか牡蠣……死ぬ前のあの牡蠣……食べたかった……」
とうとう生前食べ損ねたことにまで言及し出した符正にサジェースタは呆れ、その頭をぐしゃぐしゃに撫でて抱き寄せる。
「……陸地に上がったらエリモス王国の郷土料理でも作ってやるから我慢しとけ」
「お? エリモス王国のですか?」
これまでの旅の中において“食”は基本的にゴルドルと符正が担っていた。ゴルドルはその忠犬ぶり故に。符正はその食欲故に。世界によっては出来合いの料理を頂戴することもあったが、食材しか得られなかった場合はゴルドルと符正が料理していた。
故にサジェースタが料理したのは数えるほどしかない。そしてその全てが、簡易なものばかりであった。
「食材と調味料があったら、だがな。なかったら次の世界に期待しろ」
「わあ、エリモス王国のごはん! 楽しみにしています! サジェ様、約束ですよ!」
「──ああ、約束する」
エリモス王国の料理を、食べさせてやる。
──そう言って微笑んだサジェースタに符正はそれまでの不満が嘘のように飛散し、満面の笑顔になる。
それからご機嫌な符正の鼻唄をBGMにしてしばらく歩いていた時のことだった。それまで紺青色の暗闇しか見えなかった海底に変化が現れ、一行に警戒の色が帯びる。
紺青色が瑠璃色になり、やがて海面付近と変わらぬ透明度の高い青藤色になった海底の世界にひとつの建物が現れ、一行は目を丸くする。
「家ですね。なんかゆらめいてますけど」
ゆらりゆらり、とその輪郭を朧げにゆらめかせているもののそれは一軒の家であった。広い庭に広い間取りの白い家で、日本ではあまり見かけぬ開放的な造りをしている。
その家を眺めているとふいに、ゴルドルがふらりと足を一歩踏み出した。その顔は──驚愕に彩られていた。
「あ、れは……」
「ゴル?」
「あれは──私の、昔の家だ……」
震える声でそう言ってゴルドルはふらふらと引き寄せられるようにその家へと向かう。サジェースタと符正は顔を見合わせてからゴルドルを追い、そしてニコラウスは何かを考え込むように目を細め──ゆったりとした足取りで歩き出した。
「間違いない──私の家だ。私が、まだ家族と一緒だったころの──」
庭先のポスト。庭の花壇。玄関に上がる階段。青い扉。
それら全て──ゴルドルの記憶の中にある、かつて家族と幸せに暮らしていたころに住んでいた家そのものであった。妹と遊んでいて壊してしまった柵も、父親が愛犬のために作ったへたくそな犬小屋も、母親が育てて枯らしてしまった家庭菜園も、何もかもが記憶に残っているものそのままだ。ところどころもやに包まれたように見えない場所もあるが、それでもそこはゴルドルのかつての家だった。
「ああ……懐かしい──」
家の中に入り、リビングらしき開けた部屋に入って感慨深げに呟いたゴルドルの後姿を見つめながら符正はサジェースタを見上げる。
「どういうことでしょう?」
「ふむ……ゴルドル君の過去……がここにあるのは間違いないだろうが、何故なのか……」
サジェースタは顎を撫ぜながらゴルドルの今にも泣き出しそうな姿を見る。リビングの棚に飾ってあった写真立てを手に取り、肩を震わせている。
「……ああ、このころは……まだ幸せだったな」
──オニイチャン!
「ッ!!」
「!?」
「えっ!」
唐突に響いた、あどけなく可愛らしい声に三人が驚いて振り返る。
そこにはプラチナブロンドのふわふわとした髪をおさげにした、十二歳くらいの少女がいた。ゴルドルと同じ夕陽のような赤橙色の目がとてもきらきらと輝いている。
そしてやはりその少女も、この建物同様にその輪郭を微かにゆらめかせていた。
「る……ルディ!」
その少女を目にしたゴルドルは悲鳴のように名を叫びながら少女の元に駆け寄り、その小さな肩におそるおそる手を置いた。触れて消えてしまうようなことにはならなく、少女はにこにこと嬉しそうに笑いながらゴルドルを見上げている。
「妹さんだよね? な……なんという超絶美少女……」
──そう。
そこにいたのはかつてゴルドルの父親に売られ、その命を散らしたゴルドルの妹、ルディ・ユートピアであった。ゴルドルの妹なだけあって悪魔も羨む絶世の美貌である。生きていれば世界を魅了していたことは間違いなかっただろう。
「ルディ……」
ゴルドルはそこでとうとう堪えきれなくなったのか、ぼろぼろと涙を流し始めた。懐中であるためにその涙はすぐ海に融けて消えてしまうが、それでもゴルドルの涙は次から次へと溢れてくる。
「ルディ……!」
そして妹──ルディの体を抱き締め、その肩口に顔を埋めながら静かに泣き始めたゴルドルをサジェースタと符正は少し離れた場所からそっと見守った。
「……やっぱりか」
その時ニコラウスが家の中に入って来て、ゴルドルの様子を見て訳知り顔でそう呟いた。その呟きに符正がどういうことかと問えばニコラウスはなんでもないことのように答える。
「海底の世界──ここにあるのは“歪み”じゃねェ。“記憶”だ」
「記憶?」
「そう。“記憶”が海の底に沈んでんのさ」
ニコラウスの言葉を聞いてサジェースタはああ、と納得したようにゆらめいている家とルディを見る。
このゆらぎは言わば“断片的な記憶”の象徴なのだ。
人間の記憶力は完璧ではない。それがどんなにインパクトの大きいことでも、それがどんなに大切な誰かでも、それがどんなに慣れ親しんだ場所でも──時間が経てば次第に色褪せ曖昧に、断片的になっていく。
ここがゴルドルの“記憶”であるのならば、このゆらぎはつまりゴルドルの中から抜け落ちかけているものなのだろう。ゴルドルが思い出せなくなった場所にはもやが掛かって見えなくなっているし、逆にゴルドルがよく覚えている場所はゆらめきが薄い。
「──なんで?」
ふと、符正が全く理解できないかのような疑念に満ちた表情でニコラウスに問いかけた。その問いかけに対し、ニコラウスはまるでそう問われることを分かっていたかのように小さく鼻を鳴らして受け止める。
「なんでこんなにぼやけているの?」
「それが人間の“記憶”ってモンだからだ」
「なんで?」
「人間ってのはな、忘れていく生き物なんだよ」
「忘れる? ああ……“忘れる”って言葉ね」
まるで“忘れる”という言葉の意味を知らぬかのように符正は首を傾げながら呟いた。いや、“忘れる”という言葉とその意味は知っている──知識として。ただ、その意味を符正は理解できていない。
背筋がぞくりと、冷えた気がしてサジェースタは思わず唾を呑み込む。薄々と感づいていたことではあった。日向符正の抱える、それについて。これまでの旅の中で薄々気付いていたことではあった──だが、今まさにこうして直面させられると恐怖にも似た感情を抱いてしまう。
「──……先に進んだ方がよさそうか? ニコラウス」
その時、ルディを抱っこしながらゴルドルがそう声を掛けてきてニコラウスはちらりと視線を向ける。もういいのか、というニコラウスの言葉にゴルドルは微笑んだ。
「──前に進むと、決めたからな」
“過去”にはもう囚われないさ。
晴れ晴れとした表情でそう言うゴルドルにニコラウスはそうか、とだけ返して符正とサジェースタに先に進むと伝えた。
符正が未だ納得できぬような顔をしていたものの、サジェースタに促されて一行はゴルドルの家やルディと別れ、再び海底を歩き始めた。
さほど距離を置かずして次の建物──エリモルディア宮殿が視界に入って来て符正が歓声を上げる。
「わー!! エリモルディア宮殿だ!!」
干し煉瓦で建造され、その後数十回にも渡る修復と増設を繰り返しながらも未だに王族の居住区として用いられている白亜の宮殿──それが海底にゆらめきながら聳え立っていた。
他国にあるような豪奢な装飾の施されている宮殿とは違い、白煉瓦を基本色として申し訳程度に彫刻と彩色が施されているだけのシンプルな宮殿である。彩色に用いられている苔色や紫紺色はサジェースタが身に付けている服の色と同じだ。
「……少なくとも十年以上前のエリモルディア宮殿だな。増設部がない」
サジェースタによれば十年前に起きた戦争で宮殿の一部が破損し、修復を兼ねて人々が集い談笑を交わせる場として新たな塔を建設したのだという。それが見当たらないことから最低でも十年以上前のエリモルディア宮殿であるらしい。
「行ってみましょう行って!」
行きたいと思っていた宮殿が眼前にあるからか、符正のテンションは非常に高い。サジェースタも懐かしい我が家を前に悪くはない気分で符正と共にエリモルディア宮殿へ向かう。
「地味だな」
「ここに黄金の装飾が欲しいところですね……」
宮殿の中に入ってきゃあきゃあと歴史的建造物にはしゃいでいる符正とは対照的にニコラウスとゴルドルはその質素さを酷評していた。やかましい、とサジェースタが眉を顰めながらふたりに言い返す。
「一般人が入れるのってここまでで、奥は王族の居住区なのですよね?」
宮殿正門からまっすぐ進んだ先にある王座の間、そこで符正がそう問いかけてきてサジェースタは頷く。
「言っておくが居住区は普通に近代化の波に乗っているからな。ここらは歴史的価値を重視して保全に徹しているがな」
そんなことを言われながら案内された先は確かに、宮殿にはあまり似合わない近代的な家電設備が多く揃っていた。ゆらぎによって所々見えない部分があったものの、ブラウン管のテレビやファックス機があるのを見てサジェースタは引っ掛かりを覚える。
「……これは」
──オカエリナサイ、アナタ
聞く者全てに安らぎを与える、とても優しく透き通った声。
もう十八年聞くことのなかった、最愛の声。
それにサジェースタは息を呑み、ゆっくりと視線を声のした方向に向ける。そこには──
「サラルティア様~~!! お会いしたかったです~~!!」
最愛の妻、サラルティアの手を取って感動に咽び泣いている符正の姿があった。
「…………」
感慨も感動も感激も何もあったもんじゃない、とサジェースタが真顔になるのは──仕方のないことだと、思う。
「なるほど……つまりここは十八年以上前のエリモルディア宮殿なのだな。だからテレビや電話機が古かったのか」
符正とサラルティアの元へ歩み寄りながらそう言ったサジェースタはべしんっと符正の頭をはたいた。
「……久しぶりだな、サラルティア」
記憶の中にあるサラルティアとそっくりそのまま同じで美しく、儚げな優しい笑みを浮かべている妻にサジェースタは目を細めて微笑む。
「サハーシャは順調に育っているぞ。お前に似て気が強くてお転婆だが……とても民想いの、心優しい子だ」
サジェースタの言葉をサラルティアは微笑みながら受け止めている。“記憶”を再現したにすぎないこの世界である──サラルティアが甦ったわけではないというのはサジェースタも理解していた。だが、それでも報告したかったのだ。
サラルティアが命懸けで産んだ我が子の、成長について。
「……私もお前と同様に、あの子を置いて逝ってしまった。すまない」
できることならば、娘が結婚して幸せな家庭を築くところまで見守っていたかった──そう想いながらサジェースタはサラルティアの頬に手を這わせる。
「私は昔も今も、変わらずお前のことを愛しているよ」
──それで、充分であった。
サジェースタは満足したようにサラルティアから手を離して符正の方に向き直った。符正は相変わらずサラルティアにうっとりと見惚れていて、思わずため息が零れてしまう。
「行くぞ符正」
「え!? もう!? あと三日くらいここで……いや、せめて一日……」
「“過去”には長居するものじゃあないんだ」
それに、とサジェースタは符正の肩を抱いて引き寄せる。
「今はお前がいる」
「ぬ?」
きょとんと眼を丸くする符正にさらなる言葉をかけてやることなくサジェースタはサラルティアに背を向けて歩き出した。
ゴルドルやニコラウスもサジェースタのそんな様子に何か言うでもなく倣って共に歩き出し──そうして一行はエリモルディア宮殿を後にしたのであった。




