第十世界 【未来の世界】 後
「さて、行くとするかねェ」
チェシャ猫のように口を愉悦に吊り上げながらそう言ったニコラウスに、三人は神妙な面持ちで頷いた。サジェースタと符正は手をしっかりと繋いでおり、符正の前にはニコラウスが──そして後ろにはゴルドルがいる。符正はサジェースタを“嫉妬”から守り、ゴルドルとニコラウスは符正が過度な“嫉妬”で倒れぬよう極力カバーする──夕べに計画した通りの陣形である。
「フフ! “嫉妬”しかできねェ凡人どもが俺をナメんじゃねェよ」
「私が言えたことではないから今回は口をつぐんでおこう」
「……符正、無理はするなよ」
「ハイ! サジェ様、早く浄化お願いしますね」
それぞれの台詞を合図に、四人は青い壁の向こう──未来の世界へと足を踏み入れた。
まず最初に入ったニコラウスが矢の雨という洗礼を受けたがさすがに裏社会を生き抜いてきただけあって身体能力は相当高く、矢じりを軽くいなして矢柄を掴んでは捨て、靴先で矢を弾き飛ばしては踏み躙っている。あの靴には鉄でも仕込んでいるのだろうか、と思いながらサジェースタと符正も続いて青い壁の中に入れば瞬時に符正目掛けて大量の矢が降ってきた。
それを最後に入ってきたゴルドルがニコラウスと同じように矢じりをいなして弾いていく。ふたりの男の──“守る姿”にサジェースタは己の弱さを改めて思い知らされ、無意識のうちに唇を噛み締めてしまう。同じ男でもこうも違うのか、と歯痒くならずにはいられなかった。
「サジェ様! 行きますよ! サジェ様だけが頼りなんですからね!」
ニコラウスとゴルドルに比べると遥かに見劣りする男であることを今まさに目にしているというのに、符正はいつもと変わらぬ様子で誰よりもサジェースタに信頼を置いている。一年前と何ら変わらぬその自分を信じる目にサジェースタは少し目を見張り、そして力強く頷いた。
自分は弱い。四人の誰よりも弱い。
だがしかし──三人は自分を信じてくれている。ニコラウスはサジェースタを信じる符正を信じている。ゴルドルはサジェースタと符正のふたりを信じている。そして──符正は誰よりもサジェースタのことを信じている。
それがどうしようもなく──力強かった。
「走るぞ!!」
符正の手を離さぬよう強く握り締めてサジェースタは駆け出す。それに合わせて三人も駆け出し、連動するように向きを変えて降り注いでくる矢に対処していく。
雨の如く降り注いでくる矢を全て捌き切るなど不可能であるため、どうしても三人の体を貫く矢が出てきて血飛沫があたりを彩っていく。けれどそれでもサジェースタは足を止めることなく駆け続けた。降り注いでくる矢をしっかりと見据え、何処から飛んでくるのか見定めながら──血飛沫でぬるつく手を決して放すまいと指を絡めてただ駆ける。
──ロクデモナイコトシカシテナイダロ
──マジメニハタライテナイクセニズルイ
──ブサイクガオトコニコビウッテルンジャネェヨ
──カチグミハイイヨナァラクナジンセイデ
──オンナハイイヨナユウグウサレテ
──ドウセセイケイダロ
「あァ鬱陶しいな凡人どもがァ!」
「がっ……ぐ! 度の超えた“嫉妬”というのは醜いな……!」
「げほっ……意識飛びかけ、た」
がいんがいんと頭の中に鳴り響く“嫉妬”の声。
それと同時に手を。足を。腕を。脚を。胸を。腹を。肩を。首を。顔を。頭を。心臓を──矢が貫く。三人は矢で貫かれては引き抜いて、また矢で貫かれて引き抜いてを繰り返し──血達磨になりながらもサジェースタのカバーをするために決して駆ける足を止めなかった。けれどさすがに限界が来たのか、次第にその速度を落としていく。
「がっ!」
「! サジェ様!」
「っち!」
王族への嫉妬という名の矢がサジェースタの肩に突き刺さり、ニコラウスが舌打ちしながらそれを引き抜く。三人の反応も鈍くなってきているようだ。
「すまん三人とも……! あのビルだ! あそこから矢が出ている!!」
ずきずきと痛む肩を無視してサジェースタはそう叫び、未来都市の中央を陣取るようにして天高く聳え立っている摩天楼を指差した。窓ひとつない滑らかな金属素材だけで構成されているビルで、電子回路のような模様が壁全体に縦横無尽に走っている。
「げほっ……さじぇさま、ちょっとがまんしてください」
目的地が判明するや否や符正はサジェースタを抱え上げて地を勢いよく蹴り、全力疾走した。それを見たニコラウスとゴルドルも矢に対処するのを中断して全力で目的地に向かって駆け出した。途端に矢がずぶずぶと三人の──符正が抱えているサジェースタにまで、次々と突き刺さっていく。
けれどそれでも三人は必死に駆け続けた。死ぬような激痛に襲われて意識が飛びそうになるのも堪えてただただ無心に、まっすぐ摩天楼を目指した。サジェースタも自分に突き刺さる矢に血を吐きながらも苦痛の声ひとつ漏らすことなく符正の体にしがみついた。
「せきゅりてぃ、げーとが、ある」
「しるか! ふせい、こわせ!!」
「──っアアアァアアァ!!」
全身に迸る激痛と薄れゆく意識の中、轟音が響いた。
◆◇◆
ぺたり、と額に載せられた冷たいものに符正はそっと目を開ける。
「気付いたか。大丈夫か?」
額に載せられていたのはサジェースタの大きな手であったらしい。符正は口の中に溜まっていた血を吐き出しながらサジェースタの手を取り、すりすりと頬ずりした。
「ご無事でよかったです」
「こっちの台詞だそれは……摩天楼の中でも矢が降ってきたらどうしようかと思ったが、そんなことはなくて安心した」
サジェースタはそう言いながら符正の体を持ち上げて抱き込み、大きく息を吐く。そんな疲れている様子のサジェースタを労るようによしよしと撫ぜながら周囲を見回してみれば近くでゴルドルとニコラウスが大の字で伸びていた。あたりには血塗れの矢が散らばっており、床も血の海地獄ばりに血みどろであった。どうやらサジェースタが三人の体から矢を引き抜いてやったらしい。
「なんていうか……SFちっくなところですね」
摩天楼の中はがらんとした広々とした空間になっていた。おそらくはエントランスだろうが、受付らしきものは見当たらないしそれどころか階段やエレベーターさえも見当たらない。ただ黒い床から黒い壁、黒い壁から黒い天井と縦横無尽に幾何学模様の光彩が断続的に煌めいているだけの空間である。
ここに押し入る際に符正が破壊した扉がジジジ、と電子音らしきものを立てて火花を散らしているのだけが目立って違う点だろうか。
「傷が癒えるまで休もう。符正、寝ろ」
「ん……ハイ。サジェ様もっとぎゅーってしてください」
「なんだ? やけに甘えるな」
そう言って笑いながらサジェースタは符正の体を深く抱き込んで符正の頬に自分の頬を擦りつける。その拍子に未だ癒えておらぬ傷口から血が噴き出したが、それにも構わずふたりはより強く抱き合った。
「……“嫉妬”の声が、わたしに言うんです」
何のとりえもない女のくせに。
綺麗でも可愛くもないくせに。
どうせ権力が欲しいんだろう。
どうせ金目当てに決まってる。
──そんな悪意ある“嫉妬”の矢を符正は全身に受けた。
「ニコラと一緒にいた時もよく言われていたことでしたけれど……ニコラの時は何とも思わなかったのが、サジェ様だと……」
すごくいやだった。
そう言って符正はサジェースタの肩口に顔を埋める。
「サジェ様の前で……言われたくないって、思ったんです」
不思議ですよね、と符正は零す。
ニコラウスと一緒にいる時に同様のことを言われても“誰がニコラの女だ”と大変遺憾であるとしか思わなかったし、それをニコラウスが聞いているということに対しても何も感じなかった。むしろそれを聞いてキレるニコラウスをどう止めるかの方が肝心だったという。
だがサジェースタとなるとまるで勝手が違った。その“嫉妬”ひとつひとつに“違う”と叫びたくなり、“何も知らぬくせに”と憤りたくなり、それを聞いているサジェースタに対して──“わたしはそんなこと思っていない”と縋りたくなったのだという。
「──どうしてでしょうね」
「それは自分で考えることだな」
サジェースタはそう言って口を吊り上げ、符正のこめかみに口付けを落とした。目を点にする符正にサジェースタは意地悪く笑う。
「心配せずとも分かっておる。お前が金や権力に靡くような女ならばそもそもゴルドル君を選ぶだろう。小国の王なぞよりもゴルドル君の方がずっと立場は上だしな──弱い私に好き好んで命懸けて構うような物好き、そういるわけなかろう」
「…………」
「それと……お前は何のとりえもないわけじゃあないだろう? 普通に可愛いし……おもしろ人外ゴリラだし……」
「ぶっ飛ばしますよ」
──と、口ではそう言いながらも符正は嬉しそうに笑ってサジェースタにすり寄った。
「──さあ、寝ろ」
サジェースタのとても優しい、鼓膜をしんしんと揺らして脳髄を温かに包み込むような声を聞きながら符正は融けこむように眠りにつく。それを見届けてサジェースタは微笑み、そっと彼女の唇に触れるだけの優しい口付けを落とした。
──そうして一行が傷を癒し、目を覚ましたころには壊れた扉の向こうから差し込む光が月光だけとなっていた。エントランスの中はとても暗く、規則的に煌めく幾何学的模様だけが灯りの元となっている。
「さて、何処に行けばいいのやら」
こんこん、と床を靴先で叩きながらニコラウスがそう言う。靴先が床を叩くたびに幾何学的模様が煌めいていて、なんとも不思議な気分にさせられる空間である。
「階段もエレベーターもないな。上があるはずなのだが……」
「ふむ」
周囲を軽く歩き回って何もないことを確認したゴルドルの言葉にニコラウスは頷き、おもむろに壁に手を伸ばした。きゅいん、と音を立てて壁の幾何学的模様が煌めく。
「……バイオシグナルに反応してるな。生体反応センサーってとこか」
幾何学模様の光の軌跡を眺めてくるりくるりと腰にぶら下げてある狐面を弄りながら考え込んでいたニコラウスはやがてゆるやかな足取りで歩き出し、とある壁の前で止まる。
「バイオメトリクスシステム……だがテンプレートとの比較システムじゃねェな、これは」
「バイオメトリクスとは網膜や指紋、掌形で見分けるアレのことかね?」
サジェースタの言葉にニコラウスは頷く。
いわゆる生体認証という、現代社会においてはセキュリティによく用いられるシステムがこの摩天楼にはあるようだが、どうもニコラウスの言葉の感じだと現代社会のシステムとは少し違うらしい。
ニコラウスが試しにと壁の一部に手のひらを押し当ててみると壁がひときわ強く煌めき、電子音を立てながら何かの図形を壁いっぱいに映し出し始めた。
「脳波だな……それも相当細かく分析されてやがる」
脳の解剖図とそこから分析されている脳波の計測図はまだ分かるのだが、脳波の継続図をさらに分析したようなヒストグラムやレーダーチャート、散布図にまで及ぶと符正やサジェースタには何が何だか分からない。
「人間の感情で認証しているのか?」
「そういうことらしい。ま、この世界の特性を考えりゃ……“嫉妬”だろうな」
ゴルドルとニコラウスの会話から読み取るに、どうやらこの摩天楼の生体認証システムは感情による認証形式で、とある感情を露呈させることによって道が開く──らしい。
「“嫉妬”すればいいの?」
「だと思うぜ。 符正」
「ん?」
ちゅ、とニコラウスの唇が符正の唇よりもわずかに外れた場所に落とされる。
キィンと音を立てて壁に線が走り、開くのと──ニコラウスの体が宙高く飛ばされるのは、ほぼ同時であった。
「開きましたね」
「……ああ、そうだな」
サジェースタは半ば不貞腐れたようにぞんざいな返事をしながら符正の顔をごしごしと手のひらで乱暴に擦る。ニコラウスが何故そんなことをしたのか──そして扉が何故開いたのか、理解した上で不貞腐れているのだろう。それを察してゴルドルはくすりと笑いながら符正にぶっ飛ばされて床に倒れているゴルドルの襟を掴み、扉の向こうへと引き摺っていった。
それを追ってサジェースタと符正も中に入る。どうやら中はエレベーターだったようで四人が中に入ると同時に扉が閉まり、小さな音を立てて動き出した。
「いってェなァ。もっと優しく殴れよ」
「うるさい」
「てめェのファーストキッスはこの俺だぜ? おい?」
「わたしの人生における最大にして最悪の汚点だ」
兄妹喧嘩をするふたりと、それを微妙な面持ちで見守っているサジェースタと──微笑ましそうに眺めているゴルドルという些か間の抜けた一行を載せたエレベーターはそう時間を置かず止まり、扉が開く。
扉の向こうに広がっていたのは。
──フコウニナレバイイノニ
──シアワセナヤツラガムカツク
──シネバイイノニ
──ドウセウマクイカナイノニガンバッチャッテサ
──ブサイクニハブサイクガオニアイ
──フコウニナレ
──フコウニ
──シネ
“嫉妬”の濁流であった。
「が、っ……!」
頭の中に流れ込んでくる、膨大な“嫉妬”。
幸福への妬み。成功への恨み。勝利への憎しみ。
それらが思念の暴力となって、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜてきた。サジェースタが、符正が、ゴルドルが、ニコラウスが──頭を押さえてその場に崩れ落ちる。
──フセイトフタリダケノママガヨカッタ
──アノフタリガイナケレバナァ
「ちが……! が、ああぁっ!」
ただの“嫉妬”にのみならず。
己自身の“嫉妬”さえも濁流の一部として──サジェースタの頭の中を、ぐじゃぐじゃに塗り潰していく。
確かに符正とふたりきりの旅をもっと続けたかったという気持ちは、何処かにあった。ゴルドルが加わり、ニコラウスが加わり──符正とふたりだけの時間が減って、惜しいと思う時も確かにあった。
だがそれでも。
──アノフタリハキレイスギル
──ナニカウラガアルニキマッテル
「ぐ、う、ぅうう──」
サジェースタと符正に対する信頼。
けれどその裏にはいつだって懐疑心が付き纏っていた。本当にそんな美しい信頼関係が存在するのかと、サジェースタと符正の裏を無意識のうちに探ってしまう自分がいることをゴルドルは自覚していた。
だがそれでも。
──サジェサマサジェサマウルセェンダヨ
──サジェースタノナニガソンナニイインダ
「────ッ」
“お兄ちゃん”と呼んでいたのがいつしか“ニコラ”になり。
それは今や“サジェ様”に塗り替わってしまっている。それを面白くないと思うことは確かに、あった。妹を取られたような気分がして腹立たしく思うことが確かにあったと、ニコラウスは考える。
だがそれでも。
──■■■■■■■■■■!
──■■■■■■■■■■!
「アアアァアアアァァァ!!」
もはや言葉にならぬ、ただの思念の暴圧。
それに符正はただただ、絶叫する。
意識も。意図も。意志も。
過去も、現在も、未来も。
昨日も、今日も、明日も。
記憶も、記録も、記紀も。
嫉妬も。悪意も。絶望も。
全てが無意味に混ぜ合わされて流し込まれていく。
「──否定するっ!!」
符正は、絶叫する。
「──私は否定しないっ!!」
サジェースタが符正の小さな体躯を背後から抱き込み、その口内に指を無理矢理差し込んだ。無意識だろう、舌を噛んでいた符正の口内からごぼりと血が零れ落ちる。
だがそれでも符正の絶叫は止まらず、サジェースタの指を噛み千切らんと暴れた。それをサジェースタは己の頭に流れ込む“嫉妬”の濁流に耐えながら抑え込む。
「“嫉妬”は醜い……! 悪意ある“嫉妬”となるとなおのこと……! だがそれは決して恥ずべきことではないっ!!」
ごきり、と指の骨が折れる音がしたがサジェースタはそれでも符正の口から指を抜こうとはしなかった。
「“嫉妬”から他人を攻撃するのは罪でも……! “嫉妬”そのものは罪悪ではないっ!!」
人間は“嫉妬”するからこそ向上心を持つ。
“嫉妬”は突き詰めれば縄張り意識であり、防衛機能であり、生存本能なのだ。
“嫉妬”なくしては人間に成長は難しい。だからこそ──七大罪のひとつに数えられようとも“嫉妬”は否定すべきではない。
否定すべきなのは、“嫉妬”から他人を攻撃して陥れようとする行動。
「私はいつだって嫉妬していた。お前と仲がいいニコラウス君に対して。お前が可愛がってるゴルドル君に対して。お前が私だけのものであればいいのにといつも想っていた」
サジェースタが自分を抑え込みながら耳元でそう囁いてきて、符正は思わず目をしばたかせる。その顔は何が起きているのかを理解できていないようで、茫然と濡羽色の目が彷徨っている。
「…………?」
符正の体から力が抜けたのを確認してサジェースタは符正の口から指を抜き、そのまま符正を支えた。符正は茫然自失とした様子でぼんやりとしている。
未だ“嫉妬”の声は脳内で暴れ回っているが──少なくとも自分自身の“嫉妬”が自分を食い潰そうとしてくることはなくなった。それは符正も同じだろうと察してサジェースタは視線を周囲に向ける。
「そっちのモニター持ってこい!」
「これだけでいいのか? おそらく心臓部はさらに上にあるぞ」
「プログラムを書き換えるにゃこれで十分だ。セキュリティルーム突破するよかここからハッキングした方が速ェ」
そこは壁という壁に文字が浮かび上がっている部屋であったのだが、キーボードの代わりになるのであろう薄いガラスのようなモニターも黒い机の上に並んでいて、その一角をニコラウスが陣取って何やらモニターを弄っている。
「フン、未来とはいっても大したセキュリティじゃねェな。精々バリケードが多いくらいだ」
「どれくらいあるんだ?」
「三百八十億四千八十二万百十六枚。暗号認証ひとつでも百万二十桁のパスワード入力が必要だったりするな。完全に人間が操作することを拒否してる」
「……突破できるのか?」
「俺を誰だと思ってる?」
ニコラウス・デスピアだぜ──そう言ってニコラウスはチェシャ猫のように口を吊り上げた。
「俺は突破しねェ。今セキュリティを突破するためのプログラムを構築してるトコだ」
「なるほど。それで……突破して、ハッキングしたらこの鬱陶しい“嫉妬”は止まるのか?」
「やってみねェと分からねェけどな。この“嫉妬”はインターネットに書き込んでいる凡人共の声だ。だから俺様特製ワームちゃんを仕込んでやり返す」
ニコラウスの言葉を聞いてサジェースタが改めて室内を見回してみれば、壁に浮かび上がっている大量の文字は全て“嫉妬”の声であることが分かった。おそらくありとあらゆる人間が怨嗟をインターネット上の掲示板やSNSなどに書き込んだのを映し出しているのだろう。
技術の発展に伴い匿名性が上がり、悪意を吐露することに抵抗感を抱かなくなったことの弊害が今ここに来ているのだ。
“悪意”は誰しも一度や二度は抱くことのあるものではあるが、それを気軽に外に出していいわけではない。“愚痴”と“悪意”は全く違うのだ。だが現代社会においてはそれを理解できぬ人間があまりにも、多すぎる。そして──“悪意”には“悪意”が返ってくることも、知らぬ人間は多い。
「思い知れ、俺を怒らせりゃァどうなるか──」
ニコラウス・デスピアは嗤う。
“悪意”をたっぷり含ませた嘲笑を、浮かべる。
符正との兄妹喧嘩のせいでおかしな印象になってしまっているが、ニコラウスという男は裏社会を取り締まるデスピアファミリーの若きボスなのだ。それを思い知らされるような悪意に塗れた笑顔にサジェースタはぞくりと背筋が粟立つのを感じる。
「俺様特製ワームちゃんはなァ──そいつの情報媒体を食い荒らして使用不能にするのは勿論だが、そいつのメールやらSNSやらの内容を実名付きでネットに放流しちまう。最高だろ? “嫉妬”如きに流されて他人に迷惑かけるような凡人どもには相応しいお仕置きさ」
「他人に迷惑をかけている筆頭のお前が言うな……と、符正ならば言うぞ」
未だ“嫉妬”の濁流に呑み込まれて茫然自失となっている符正の代わりにサジェースタが突っ込む。
「フフ! 俺ァ自覚してやってるからいいのさ。こいつらは自覚なしでやってるからタチが悪ィ」
“愚痴”という名目で他人を攻撃する。
“正論”という大義名分を掲げて叩く。
そんな無意識の“悪意”に溺れた人間にはお仕置きが必要だ──そう言ってニコラウスはまた、嗤った。
「カワイイ“嫉妬”で恋人をチョイ虐めちまうくらいならまだしも、な」
「……私を見て言うな」
「……と、いうかだね。ニコラウス。ユートピアカジノリゾートで時折おかしなウイルスが見つかることがあったが、まさかお前じゃないよな?」
ピンク色のキツネが画面でダンスをしているだけのわけが分からないウイルスだったんだが──と零すゴルドルにニコラウスはさぁな、と首を傾げた。笑顔で。
「──よし、ハッキングもできたしウイルスも仕込んだ。オーケーオーケー」
「早いな……」
──と、その時であった。
それまで壁に映し出されていた文字の大群がぷつりと途切れて消え失せ、同時に頭に流れ込んできていた“嫉妬”の声も止んだ。
「オーケーオーケー。さてサジェースタ、符正はどうだ?」
おそらくニコラウスの仕込んだウイルスとやらが功を成したのだろうが、一体この世界の人々に何が起きているのか──自業自得とはいえ考えるだけで末恐ろしいものがある。サジェースタは頬を引き攣らせつつも符正に視線を移し、ぺちぺちとその頬を叩いた。
「符正、大丈夫か?」
「……? ……、……さじぇ、さま?」
虚ろだった濡羽色の目がゆっくりとサジェースタに向き、そこでようやくサジェースタの存在を認識したように符正の口から名が零れ落ちる。
「……さじぇ、さま……いつ、きょうは、きのうじゃ……」
「符正?」
「記憶が混濁してるな。サジェースタ、今日一日の流れを符正に話してやれ」
「…………?」
サジェースタにはよく分からなかったが、ニコラウスは符正がどんな状態にあるのか理解しているようだ。とりあえず符正をどうにかすることを優先と考え、サジェースタはニコラウスの言う通りに今日一日──目覚めてから朝食を取り、未来の世界に再挑戦してここに至るまでの流れをゆっくりと語ってやる。
そうしているうちに符正の目がだんだんとしっかりしたものになっていき、語り終えるころにはすっかり顔色もよくなっていた。
「大丈夫か?」
「ハイ! すみませんでした。ああいう精神攻撃には弱くって……ってそうだサジェ様! ゆびっ!」
思い出したように顔を蒼褪めさせながらサジェースタの指を確認してきた符正にサジェースタは微笑み、既に癒えていると安心させる。
「ごめんなさい」
「気にするな──お互い様だ」
サジェースタはそう言って符正の体を抱き締めてやる。符正はそれを嬉しそうに受け入れ、抱き締め返した。
「符正が落ち着いたところで……符正、お前“嫉妬”はどう浄化すべきだと思う?」
「……“悪意”にはしかるべき罰を。でも──」
“嫉妬”そのものは浄化できない。
浄化できないからこその“嫉妬”。
他者に向ければそれは“悪意”で。
自分を責めればそれは“自傷”で。
我々にできるのは、赦すことだけ。
そう言った符正に、ニコラウスは笑う。ゴルドルもそうだなと同調し、自省するように目を伏せた。そしてサジェースタは微笑んで符正の頭を撫ぜてこう返した。
「その通りだ」
浄化は、成される。
【嫉妬】




