十九章
加織は街の中を駆け回っていた。
服も髪もボロボロで、持ち物は鎖の切れた二翼十字だけだった。
いつも身だしなみには気を遣っていた、プライドの高い加織からは考えられない姿。
人々には奇異の目で見られたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
少しでも遠くへ、安全な場所へ。加織は喉に鉄の味を感じながら走り続けた。
加織に帰る場所はない。《楽園の到来》どころか、《天使同化》まで使って負けた加織は天使教会に帰れば、即異端認定され、静かに世界から消えることになる。
自分が廃人にした秋川の方が、まだましな人生を送れるかもしれない。
加織は逃走途中で人の携帯電話を奪うと、人目の付かない裏路地に入り、覚えていたある番号に発信をする。
しばらくコールが鳴った後、相手が出た。だが、何も言わない。
奪った携帯からかけているので、警戒しているのだろう。当然のことなのだが、見放されたようで、加織の心はさらなる不安に包まれた。
「もしもし! 私だ! 加織だ! 天使協会の加織だ! 返事をしてくれ!」
加織が名乗ると、ようやく向こうも口を開いた。
「ああ、加織さんでしたか。知らない番号だから、警戒してしまいました」
「色々あってな……相談がある。しばらく身を隠せる場所が欲しい」
「そりゃまあ、用意はできますが……前の支払いもまだですよね」
「そ、それもすぐに返す! 何をしてでも返す! だから、頼む!」
「そう言われましてもねえ。あれだけの魔石と、嘆きの涙ですよ? あなたの肩書きを担保に後払いにしましたが――元神父では、ちょっと」
「ま、待て! どういうことだ!」
「コウモリだって、いつまでもふらふらはしてないんですよ。誰の味方になるかは、もう決まりました。後は誠意を見せないとね。ああ見えて怖いんですよ――高宮アイシャは」
「裏切ったか……天木!」
「裏切った? 僕は最初から、高宮アイシャの味方ですよ。ま、あなたが勝っていれば、最初からあなたの味方と言っていましたけど」
「き、貴様……」
「気の毒だとは思ってますよ。だから、あなたの借金はチャラにしてあげます。とはいえ、このままでは大損なので、一つ、借金のカタにいただきました」
「な……なんだ……お前に預けたものなど一つも……」
「――あなたの居場所ですよ。ちょっと、長く通話しすぎましたね。では、さようなら」
その瞬間、加織は携帯電話を放り投げて走り出した。
カツーン
路地から出て、少しでも人目に付く場所に行かなくては。
カツーン、カツーンと
路地の入り口から、足音が聞こえる。
加織は、とっさに身を翻して路地の奥に逃げ込もうとして、転んだ。
起き上がろうとしても、また転んだ――不思議な力に転ばされた。
カツーン、カツーンと、足音が近づいてくる。
加織は、本当に少しだけ魔力が回復しているのを確認した。
少しでも抵抗するために、地面に倒れたまま二翼十字を掲げ、天使召喚を行なう。
「こ、来い! 天使達っ!」
加織の声が、路地に反射する。それだけだった。偽天使は、一体も来ない。
「ど、どうしてっ……なぜだ……魔力はあるはず……誰かっ……うぐっ……」
叫ぼうとしたが、何者かに口を押さえられた。
「どうしました? そんなに何度も転んで。天使の羽根でも踏みましたか?」
その人物は、加織の顔に煙を吹きかけてから、ゆっくりと加織の口を解放した。
「ア……アスタロト……」
Aは、加織の握っていた二翼十字を取り上げ、灰皿代わりに煙草を消すと、にっこりと微笑んだ。
「はい。先ほどはどうも。ほら、Bもご挨拶して」
「……おー」
Bが手の人形を動かすと、今度は転ぶどころか、地面に這いつくばらされた。
「こ……これもバエルの呪いなのか……」
「そうですよ。何の魔力も残ってないあなただ。どんな呪いでもかけ放題です。ま、こんなのちょっとした冗談みたいなものじゃないですか。あなたのしたことに比べたら」
「や……やめてくれ……助けて……くれ……お願いだ……」
アスタロトは加織の恐怖がたまらないらしく、恍惚の表情を浮かべている。
「力神父様が偽の天使も喚べず、憎んでいる悪魔に命乞いとは――ああ――」
これをチャンスだと思った加織は、恥も外聞もなくAの足にしがみつき、慈悲を請う。
「お、お願いします……命だけは……他の全てを捧げますから……命だけは……」
「そこまで言われると、助けてあげたくなりますね」
「ほ、本当ですか!? で、では!」
加織の表情が明るくなる。Aもそれに答えるように、にこりと微笑んだ。
「では、ちょっと相談してみましょう――どうします? 希衣」
路地の入り口に、伊武が姿を現わした。
ゆっくりと、加織の元へ歩いてくる。
「ひっ……」
加織は声にならない悲鳴をあげた。
先ほど、心臓を貫いて殺そうとした少女が自分を助けてくれるわけがない。
「どうしました? ほら、しっかり命乞いしないと」
アスタロトが優しく声をかけるが、加織は何も言えないままだった。
伊武は加織の元まで来ると、顔も見ずにBに話かけた。
「B……こいつを足下から、ゆっくりと石膏像にすることは……できる?」
「ん……」
Bは言われるがままに手人形を動かし、加織に呪いをかける。
直巳から魔力をもらったBの呪いを、今の加織が抵抗できるわけもない。
加織は、つま先から徐々に感覚がなくなっていくのを感じた。
「あ……ああ……」
加織は恐怖で声も出ず、顔は涙と鼻水にまみれていた。
伊武が加織の頭を鷲づかみにして、加織の目を覗き込む。加織の目にうつっているのは、瞳孔の開いた伊武の目だけだ。
「自分の罪を告白すれば……減刑してあげる……ほら、自分が何をしたのか……言って?」
「ぼ……僕はあなたの乗っている車を……天使……い、いや……偽天使に襲わせました!」
加織の足下で、ガシャンという音がした。
「違う……続けて?」
「あ、あなたの心臓を……剣で突き刺しました……」
加織の足下で、ガシャンという音がした。
「違う……駄目……だね……わかってないから……こうなる……」
伊武が二つの石膏の塊を、加織に見せつけた。
「ひぃっ……」
痛みもなく砕けた自分の足首を見て、加織は泡を吹いた。
先ほどのガシャンという音は、自分の足が砕ける音だった。
伊武は躊躇なく、それを放り投げた。壁にぶつかって砕ける。
「あなたの罪はね……椿君を傷つけたことと……傷つけようと思ったこと……まず、思った時点で……死に値するってことを……わかって欲しい……かな……」
「わ、わかった! わかりました! 僕は椿……椿様に手をかけようとしました! 反省しています! 悔いています! どうか、お許しください!」
必死に祈る加織を見て、伊武は笑顔になった。
「もう……二度としない?」
「し、しません!」
「本当に?」
「本当です! 毎日、椿様に懺悔の祈りを捧げます! 一生です!」
「そう……うん、わかった……」
「じゃ……じゃあ?」
「減刑してあげる……反省してたよって……椿君にも伝えるね?」
伊武は、素直に加織を許した。
伊武の笑顔にも言葉にも、一切の嘘はなかった。
安堵した加織は、キューンと、喉を鳴らすような声をあげた。
「あ……ありがとうございます……」
「うん……もういいよ――B、石膏化の速度あげて」
「――え?」
状況を理解できない加織を尻目に、Bは人形を動かした。
これまでゆっくりだった石膏化の速度が上がり、加織は腰まであっという間に石膏化した。
そして、下半身の方から、ガシャンガシャンと何度も音がした。
「な……なんで……」
砕いた石膏を加織に見せつけては、目の前で粉々にしていく。
加織は痛みもなく、自分の体が砕かれていく様を見せつけられていた。
「ゆ、許して……くれたんじゃ……」
「うん……許したよ……半分だけね……」
「な、なら――どうして――僕は――死――」
加織は首までが石膏になったところで、恐怖のあまり絶命した。
その後、すぐに頭の先まで完全に石膏化すると、伊武は踏みつけて念入りに砕き始めた。
少しすると、辺りには白い粉が残っているだけとなった。一雨来れば、それすら流れて消えてしまうだろう。
「……終わった……帰ろう」
伊武の感情がまったく乱れていないのを見て、Aは呆れた表情で言った。
「希衣は、まるで悪魔のようですね」
「……そう?」
「そんな恐ろしい殺し方、悪魔でも思いつきませんよ――一つ、聞いていいですか?」
「……何?」
「罪を告白すれば、減刑すると言いましたよね?」
「うん……言ったし……減刑……したよ?」
「は? いやいや。だって」
アスタロトの目は、「何言ってるんだこいつ。殺しただろ」と言っている。
伊武は指を二本立てて、Aに説明を始める。
「傷つけようと思った時点で……一回死刑……実際に傷つけて……二回死刑……」
「罪を告白した減刑というのは?」
伊武は、二本立てていた指を一本折った。
「死刑を……一回に減らしてあげた……」
真面目な顔で言う伊武を見て、Aは顔を引きつらせた。
「先ほどの言葉を訂正します――希衣、あなたは悪魔より恐ろしい」
「もしもし、天木」
「おや、アイシャ。おめでとうございます」
「悪びれもせず、よく言うわ。嘆きの涙と魔石、加織に売ったのはあなたでしょう?」
「顧客情報は――といいたいところですが、彼からクレームが来ることもないでしょう。そうですよ。私が売りました。ただ、脅されて仕方なかったということ、代金は踏み倒されて丸損ということはわかってもらいたいのですが」
「それは加織に払った保険料というやつでしょう。私たちと天使教会、どっちにも良い顔してたってわけね」
「弱者の処世術ですよ。ただ、最後にはアイシャを選んだでしょう。加織の居場所を教えたじゃないですか。どうです? 今回はアイシャへの保険が効いたってことで」
「――いいわ。これ以上は言わない。その代わり、今後は加織の分まで私に尽くしなさい」
「それはもちろん。これまでよりも深いお付き合いをさせてください」
「保険料って、二回目は高くなるのよ」
「覚えておきます。まずはお祝いを送りますよ」
「シャンパンと花束でも、もらえるのかしら?」
「それもいいのですが――嘆きの涙なんてどうです?」
「いいわね。それにしてちょうだい」
「はい。それでは、今日中にでも」
加織を追跡していたAは戻ると、「加織は死にました」とだけ言った。勝手に死んだとも思えないが、直巳はただ、「わかった」とだけ返事をした。
あれだけ派手にやった《楽園の到来》を隠せるわけもなく、ニュースでも取り上げられ、現場に天使教会の所属らしき人間も来た。
ニュースは大規模な天使降臨で被害者は無しと発表し、天使教会も何も言わなかった。
加織は内密にことを進めていたため、天使教会に直巳達の情報は漏れていないようだった。
やがては天使教会と正面から対立するのかもしれないが、今すぐではないようだ。
そして、今度は天木から大量の贈り物が届いた。
いくつもの大きな花束と、高級シャンパンが1ケース。それから、大きな熊のぬいぐるみ。
熊のぬいぐるみの首には、小瓶が3つぶら下がっていた。
アイシャは小瓶だけ引きちぎると、後は全員でわけるように言った。
それから、数日をかけて3体の天使を狩った。
天使遺骸は全て直巳が魔力化して、アイシャの持っている、「ソロモンの壷」に入れた。




