〈第五幕〉毒杯の月 瞳の花-2
5
――変なの。
こんな風に会うなんて、思ってもいなかった。ずっと、いろいろ考えていたのに――ジルに抱きしめられて、何故だか安心した。
ルネが泣くと、カミーユはいつも抱きしめてくれる。でもジルがそうしてくれたのは――変なの、と思った。
どうするのとジルが言うけれど――解からない。ジルに会ったら自分の感情が決められると思っていたのに――思い出してしまったから。確かに在った、きれいな感情。ジルのこと。そういうものが、確かにあったのだと。
――ジルが分からない。あのときルネのことを確かに斬りつけて、けれども今、抱きしめてくれた。さっきも、庇おうとしてくれた。ずきずきと、胸の奥の背中に近い何処かが痛む。
そう考えることが厭で、その痛みが厭で、ジルを憎もうと思ったのに。消してしまおうと思ったはずだったのに。なのに、違った。
ジルを消してしまいたかったのは、恐かったからだと。
ジルがルネのことを疎んじているならもっと簡単だったのに。けれど、ジルは変わらなくて。
心の何処かに置いてあるジルへの感情を消してしまったら、潰してしまったら、そこには何が残るのだろう。
だから、わからない。ルネはどうすればいいのだろう。今、ジルを傷つけてしまったら、きっと痛い。もっと痛い。感情は、まだ残っているのだから。――今なら腕を、伸ばせるだろうか。
「……ジルは、あたしのこと嫌い?」
考えて、言った言葉がそれだった。莫迦みたいな質問だと思う。他人がルネのことを嫌いか好きかだなんて、大した問題じゃなかったから。カミーユにすら――嫌われてもいいと思っている。ただ、いらなくならない限りは。
「……そんなことねぇよ」
ジルはわけが解からないといった調子で、憮然として答えた。
ジルは、変わらない――あの頃と。背が伸びた、それだけ。
何が狂った? 何が壊れた? 何が崩した?
ジルに、何がある。望み。疵。記憶。家族。痛み。傷み。そんなもの――……
何が正解なのだろう。否、正解なんて何処にもない。――一年前にもう、道を違えてしまったのだから。
「お前は、どうなんだよ」
「え?」
噛み締めた唇を再び八重歯が突き破る寸前に、ジルが言う。
「俺のこと」
恨んでた憎んでた嫌ってた――ずっと。つい、さっきまで。それは大切な言葉を塗り潰した墨のように。けれど、もし。
こんなことを考えるのは莫迦みたいにくだらないと思うけど、けれどもし時間が逆戻りするのなら。許されるのなら。
もう、壊れてしまった。だから今更戻そうなんて思わない。けれど、そう思えるほどにルネは。
「好きよ、ジルのこと」
ジルは複雑な表情を浮かべた。
本当は、憎しみも全部ルネの為に意図的に造った感情。さっき、気づいたように。ただルネがジルの傷みから逃げるための虚飾。
だって、それは、ジルのことが好きだったから。消してしまいたいと思ったのも、そんな傷みゆえ。
恋なんてしたことないけど、多分これはそう云うものじゃない。ルネはただ、ジルが好きだった。
――痛みを、消してしまいたい。でも、ジルを殺したって、傷みは消えない。そんなのでは、ない。
「なんかさ……」
ルネの溢れる思考を留めるように、ジルが呟いた。
「そんなこと言われたの、初めてだ」
そして、小さく笑う。
ルネの、好きな微笑だった。
いつも不機嫌そうな顔ばかりしているのに、時折、糸を緩めたように笑う。とてもきれいな笑み。あの頃は、その笑顔をみると何だか嬉しかったけど、今もそうなんだと思う。
けれど、その言葉を不思議に思って、ルネは首を傾げた。
「でも、……レミーはジルのこと、好きだと思うわ」
そうだ。言ってから思い出す。置いて来てしまった、レミー。捜しに行った方がいいだろうか。けれどそれでは何のために此処に来たのか、それこそわけが分からなくなる。どうしよう。
ふと、ジルが顔を顰めていることに気づいた。
「お前……なんであいつのこと知ってるんだよ」
「……さっき、会った。それで……ジルのこと、少し話した」
「話したって、何を」
「ジルがもともとこのセクトの人だったってこと。あの子の兄弟だってこと。それだけ」
一年前に戻ってきたこと――それは、言えなかった。今そのことに触れるのが、躊躇われたから。
「……兄弟、いたのね」
「悪いか」
「変なのって、思った」
「……どう云う意味だよ」
ジルが不機嫌そうにルネの頭を小突いた。
変なの、と思ったのだ、あのとき。今まで考えもしなかった、ジルの家族。出会ってからのジルしか知らなかったし、その前のジルのことを、知りたいとも思わなかったから。だからそんなものがあるのだと、よく考えれば当たり前なのに改めて知って、何だか奇妙な気がした。
「まあ……兄弟っても、半分しか血は繋がってないし」
ジルの顔が僅かに歪む。
「父親が違うんだよ。俺のも、あいつのも、もう死んじまったけどな」
ふと気になり、ジルに訊ねる。
「あの子、地下牢に入ってたの……知ってる?」
「ああ」
「どうしてなのかも?」
「……ああ」
ジルは眼を細めて、遠くを観る。
ジルは、ルネが知ったことを知らない。ジルの父親と、母親。理由は知らないけれどその、感情も。でも、レミーとジルとの間に何があるのかは知らなかった。
レミーはジルのことが好きだと思う。ジルは、どうなのだろう。母に捨てられたレミーを放って置いたのは、何故だろう。
そういえば、レミーがあの牢に入ったのは一年前だ。それは、ジルが居なくなったとき。何故、だろう。
ルネが知りたいのは、ジルの感情。――違う、知りたいんじゃない。解かりたいのだ。どうしてなのか、を。
もう、自分がどうしたいのか、よく解からない。ただ、ジルが此処にいるから、ルネは居る。
ジルは肩を竦めると、すぐ側の階段に腰掛ける。
ルネが茫と、突っ立ていると、「座れよ」と言った。言われるままに、隣に腰を下す。
この位置だと、ジルの顔が見えない。
前を向くと下方に下の階の廊下がみえ、硝子のはめ込まれていない窓から夜が見えた。
「俺は、本当の父親のことは知らねぇ。このセクトの頭領の――レミーの父親しか、さ。あいつは俺のこと嫌ってた。別に、どうでもよかったけど」
ジルはただ訥訥と、独り言のように話し出した。
今まで一度だって、ジルのこと、話してくれたことはなかったのに。
何故こんな風に話す気になったのか、分からなかった。
「母親は、父親――レミーの方のな――憎んでてその子供のレミーも憎んでた。なんでそんな奴と結婚したのかとか、俺は何も知らない。ただ――母さんが、俺の父親のことに、今でもまだ執着しててさ………」
ジルは一度言葉を切る。
母親がどうしてここにいるのか、何故あの父親と共に住んでいたのか、ジルは知らない。エポニーヌは何も話さないから。ジルが小さい時から、もう母親はああだった。
「俺のこと溺愛してる。鬱陶しくてたまらねぇ。――ずっと、あいつを憎んでた」
「――鬱陶しい……?」
「あいつは俺なんか、見ちゃいない。俺が、父親によく似てるらしくて――俺の中に、そいつを見てる」
エポニーヌの瞳。ジルを見ていない。いつもいつも、その奥に父親の面影を探して、あいつの子供であるジルを、かつて愛した、今も愛している奴の代わりにしている。
エポニーヌは、ジルに父親と違う場所を見つけると、まるで存在してはならないものを見てしまったような表情して、ヒステリックにジルを罵る。なのに、離そうとしない。
「あいつの中に、俺なんてどこにもいない。だから――自分が何なのか、時々分からなくなる」
分からない。
俺が実の父親の代わりなら、此処にいる自分は何なのだろう。
父の見る自分。母の観る自分。それから、周囲の奴らが見ていた自分。母が愛した男の替わり。そいつとエポニーヌの子。出来損ない。何も知らない、レミーの兄。――何処に自分がいるのか、よく分からない。
「あいつさえいなければって、何度も思った」
わけの分からない、ジルの内に流れる血が決める感情。
じゃあ、そう云うことを考える自分は、何処にいる?
――エポニーヌなんて、早く死んでしまっていたらよかったのに。
「だから、『朝の月』の存在を知って、此処から出て行くことを思いついて、そうした。
『朝の月』に入ったのは――このセクトへの反抗、みたいなものと、俺のこと知っている奴が何処にもいない処に行きたかったから」
こんなことを誰かに話すのは、初めてだった。
本当の気持ち。ジルの感情。誰かに、聞いてもらいたいなんて、思ったことはなかったし、誰にも話したくはなかった、ジルの弱い場所。
いつも隙を視せないように――見せられずに、弱い部分を押しつぶして自分を創っていたはずだった。
なのに、どうしてだか心が軽い。
「ジルは……」
ルネが、感情の見えない声で呟き、暫く黙ってから言い直す。
「あたしは、ジルのそう云うこと、知らなかった。……何にも。知りたいとも思わなかった。解かろうとしてなかった。それでいいと思ってた。だって……」
ルネはジルの顔を覗き込む。
何だか突付けば泣き出しそうな顔をしていた。
「だって、出会ってからのジルが、あたしの知ってるジルで、厭な人って思ったのも、ジルは忘れてるかもしれないけど、あたしが足挫いておぶってくれたとき、背中があったかかったのも、全部、あたしが知ってたジルは、そんなの、関係なかったもの。今だってそう。よく解からない、けど、でも、あの頃のあたしはジルのこと好きだったし、今も好きよ。ジルが好き」
感情が纏まらないままに全部を無理矢理換言しようとしているのか、熱っぽく躁のように一度に捲し立てる。
けれど、今までに聞いたことがない、ルネの長い言葉だ。拒絶でも、憎しみでもない言葉。所々支離滅裂で、痞えながら、それでも。
ルネはルネの言うように、ジルを知らない。なのに、そんな言葉を、ジルに与える。
知らなくても、『あの瑕』を見たはずなのに、それでも。
思い出す。普段は強がって、怒ってばかりいるのに、時折驚くほど、無防備に感情を晒していたルネ。
一年前、自身が酷く傷つけた少女は、それなのにあの頃と同じように。
ジルはルネを傷つけてばかりいるのに。
傷みではない痛みに似た、なのに温もる、わけの解からない感覚。泣きたいような笑いたいような気分になって、膝頭に顔を埋めた。
こんな顔、ルネに見られたくない。
6
エポニーヌ・カスタニエはお気に入りの窓辺に腰掛けて、城下に広がる森をながめながら小さな声で唄を歌っていた。
小さな頃、母から聴かされた子守唄だ。
あの人は、エポニーヌの唄を聴くのが好きで、エポニーヌが唄を歌うと嬉しそうに微笑んでくれた。
いまもまだ、唄っていればあの人が来てくれるような気がして、だからエポニーヌは唄う。
あの人によく似ているジル。ジルはあの人とエポニーヌが共に居た証。だからあの子は誰にも渡さない。
一年前、あいつはもう死んでしまったのにあの人はまだ迎えに来てくれない。ジルは帰ってきて――それはとてもとても嬉しいことだったけど、あの人が来てくれないと。だって、ジルは不完全だ。
――迎えに来るって、云ったのに。
でも、ジルの居なくなってしまった二年間は、とても辛かった。独りぼっちになってしまったのだと思った。
レミーがいたけど――あいつに無理矢理孕まされた子供なんて、見たくもない。
ジルが、ジルだけがあの人と繋がっているのだと思える。
――とても、愛した人が居た。
あの人もエポニーヌを愛してくれた。幸せだった。とても。
けれど、あの人とエポニーヌは決定的に違っていて。
エポニーヌに執着してたあいつ。――あいつはエポニーヌをこの城へ閉じ込めた。
あの人は、あいつに対して何もできなかった。だってあの人は、とても優しかったから。だってあの人は、エポニーヌたちとは違ったから。
あの人との子供を身篭っていたことだけが、支えだった。
あの子がいれば、エポニーヌはあの人のものなんだと思えた。
あの子が生まれて、あの人と同じ名前をつけて、あの人と繋がっていられた。今も、ジルが居れば、エポニーヌは待っていられる。
だから――あの子は誰にも渡さない。何処にも行かせはしない。ジルは、エポニーヌとあの人のものだ。




