〈第五幕〉毒杯の月 瞳の花-1
1
「――――何でいねぇんだよ!」
あの莫迦、と心の中で付け加える。
ジルは地下牢の、一種のすがすがしさまで感じられる破壊の跡を見て頭を抱えた。
鋭利な刃物で斬られたような断面を晒して散らばっている鉄格子。地面には、血の雨も降ったかのような染みが広がっている。
十中八九、ルネの仕業だろう
『朝の月』で彼女と組んで仕事をしていたとき、ルネは水で斧を形創っていた。そう云う能力なのかと思っていたら、血液を髪のように伸ばしてものを斬ることもできるらしい。液体を自由に操れるのだという。怪我をしたときは出血を自分の意志で止めていた。
つまりは動かずに対象を殺せるということで、どうしてそうしないのかと訊ねると、『斧のほうが殺してる感じがするから』と、至極真面目に悪趣味な答えを返されたことがあった。
「ったく……。何処行きやがった、あいつは……」
ルネのことだ。大人しく帰っているはずはない。
この城に棲んでいる者は少ないしジルよりも弱い奴らばかりだから大丈夫だとは思うが、もし、エポニーヌに会いでもしたらまずいことになるかもしれない。――早く見つけないと。
そう思い、
――見つけてどうすんだよ。
溜息を吐いた。
2
その現場から漸く人が退いた頃、彼は燃え損ねた残骸に近寄って行った。
イヴェールはその場には酷く場違いな微笑を浮かべながら、瓦礫の山を眺め――所々焦げてしまった紙を拾い上げる。
もともと綴じてあった物だろう、その記述は断片的だ。だがその内容に眼を通すと、彼はす、と眼を細める。
「いるのか……あいつら……」
そして用済みとばかりにその紙片を未だ燻る焼け跡に放り込んだ。
「余計なことを……」
その声は苛立ちを孕んだ、低いものだ。
かりかりと親指の爪を噛みながら、周囲を見渡す。――暫くそうして何かを考えていたが、やがて彼はふ、と笑みを浮かべた。
「まあ……利用してやりますか」
冷笑を消しつつ、彼は砂を踏みしめ城の方へと歩き出す。
造り直した穏やかな微笑みには、それでも幽かな焦燥と瞋恚が滲む。――どうも自分は、あまり忍耐強くないらしいと、イヴェールは苦笑した。
――彼らに先を越されてはいけない。
残る宵は、もう長くはないのだから。
3
欠落。欠陥。欠損。なり損ない。出来損ない。足りない。いらない。できない。
漸く誰もいない場所まで辿り着いて、ルネは立ち止まる。
途中何人かの男たちと擦れ違ったような気がするが、何だか慌しく誰にも気に留められなかったのは幸運だった。
がくがくと震える躯を抱きしめて、息を吐く。
「なんで……こんなっ……」
こんな場所で『帝國』の人間に会うなんて。――知らない人だったけれど、『在朱の月』の者だ。
どうして。こんなに遠い場所なのに。こんなに離れているのに。
階段の踊り場。
酷い眩暈を感じ、冷たい石壁に背を預ける。
くるくる。いろんなことが渦巻く。レミーを放って来てしまった。もともと彼の意志でついて来ていただけだけれど、罪悪感が膨らむ。どうしよう。
――最悪。
また、見境がなくなった。
恐い怖いこわい。傷つけて逃げるだけ。あの女の人も、ジルも、レミーも、それから記憶の中の『あの人』も、みんな。そして、消してしまおうとする。一番消えてしまいたいのは、自分自身なのに。
間違えてばかり。
ジルがいなくなるときに吐き捨てた言葉だって、本当は――。
私は此処へ、本当は何をしに来た?
気持ち悪い。
生理的な涙で、視界がぼやけた。
足りない。
消えて消えて消えて。早く来て。迎えに来て。来ないで。
「死ね、死ね、死ね、死ね……」
自分でも意味の解からない、でも一番安心する言葉を呟く。
「死ね、死ね、死んじゃえ……」
何が。
「――――……ルネ?」
びくんと躯を震わせ、ルネは声のした方に顔を向けた。
霞む視界に映る人。わからない。誰だっけ。頭がぐらぐらする。でも。
「あなたじゃない」
本当に、死ねばいいのは。
4
漸くルネを見つけたとき、彼女は階段の踊り場で自身を抱いて俯いていた。
名前を呼ぶと、怯えたように月色の瞳を見開いてぽろぽろと涙を零したので、ジルはぎょっとした。
――なんだよ、ったく……。
ルネが何かを呟いたけれどよく聞き取れず、ジルはルネに近づいた。
「おい……」
こんな状態のルネを何度か見たことがある。孤児院にいた頃、夜中に時々泣き出して、いつもカミーユに宥められていた。そのときはいつもこんな顔をしていたと思う。いつもカミーユは、どうしていたっけ。泣いているルネを。
――ああそうだ。
ジルはルネに腕を伸ばし、痩せた矮躯を――抱きしめた。
「――――――っは、ぁ……」
ルネはもがいて突き飛ばそうとするが、ジルは構わず背中に手を回す。しばらくすると、ルネは抵抗をやめた。
――何でこうなるんだよ……。
いろいろと、予想外だ。まさかルネとこんな風に再開するとは思ってもいなかったし。大体これでルネが元に戻らなかったらどうするんだ。
思い切り顔を顰めながら、おずおずと髪を撫でた。
肩の辺りに、ルネの顔があった。以前よりも広がった、身長の差。一年経っても、ルネはあまり変わらず、小さくて細い。
ジルの背が伸びたのだろう。それで、一年も経ったのだと何となく実感した。――あのときの記憶は、昨日のことのように脳裡に焼きついているのに。
――前にも、こんなことがあった。立場は逆だったけれど。
これだけの時間が経っても、ジルが忘れられずに後生大事に取って置いてある、ほんの僅かなコト。ルネは覚えていないかもしれない。彼女にとっては瑣事だったかもしれない。けれどジルにとっては、失くしたくないモノだ。
例えそれを叩き潰したのが自分だったとしても。
いろんなことがあった。信じられないくらい、感情の凪いでいた時間。孤児院での一年間。
『朝の月』へ行く前――この城に住んでいたときはいつも、神経が張り詰めていた。周囲の奴らに、隙を見せないように。心はどろどろに煮詰まっていて、眼に映る世界すべてが憎かった。
強くなりたくて、欠損を補いたくて、ひたすらに剣を振るい続けていた。強くなれば、殴られることもないと思ったし、事実、その通りだったから。
生き物なんてみんな、くだらなくて最低で矮小で卑屈で卑怯でどうしようもない存在だと思っていた。レミーは自分を慕っていたけれど――でも、ジルはレミーを見られなかった。どうしても。大切に思っていたのは確かなのに。
それから、城の外へ出るという選択肢を見つけ、だから――違う世界を、知った。そうではないモノもあるのだと。
何も知らない者たちは、ジルの顔に巻かれた包帯に好奇や奇異の目を向けても、蔑みはしなかった。其処でジルはちゃんと、対等な『人』になれた。
他人を傷つけないように話す事はなかなか上手くできなかったけれど、其処は居心地が良かった。最初はぬるま湯の内でふやけて行く様な奇妙な感覚がしたけれど、そのうち慣れた。
けれど。いつか壊れてしまうのではないかと、不安だった。
蔑まれることも罵られることも、とうに慣れてしまった。くだらないと足蹴にする事だって簡単だ。けれど、そうしてそれらが自分を傷つけたとしても、自分がそれらを傷つけることが、厭だった。一瞬でも大切だと思ったものを、壊してしまうのが厭だった。自分の中で生まれたそんな感情を、棄てたくなかった。だから、ひたすらに隠していた。ジルの欠落。欠損。欠陥。
それを補うだけの努力はしたし、事実、完璧な魔族よりも強かった。けれど、そういうことじゃない。それは確かな『事象』だったから。――ジルの、存在そのもが。母親にも認めてもらえないくらいに。だから、ジルは必死だった。
――――けれど、ルネは。
「いい加減、泣き止めよ……」
不機嫌、と云うよりも当惑した表情でジルは呟いた。
ルネの身体の震えが、徐々に治まってゆく。縋るようにジルの服を掴んでいた指の力が抜け、――漸く落ち着いたのか、ルネが長い息をついた。ジルは心底ほっとする。
――そういえば、こんな風に誰かを抱き締めるのは初めてだ。
奇妙な感覚。
ルネはそのまま暫くじっとしていたが、やがて時間に線でも引いたかのように自分から躯を離す。
数歩離れたルネは、決まり悪そうな顔で此方を睨みつけた。
「……何だよ」
彼女のこんな顔は、昔見たことがある。ずっと前に、狩りの最中ルネを助けたことがあった。その時に初めて見た表情。――怒ったような顔だけれど、つまりは恥ずかしいのだろう。
「……ごめん」
長い沈黙の後、ふっとルネが目を逸らして呟いた。
何を言われるのかとか、そうしたらどうするのかとか、ルネを捜している間いろいろと考えてはみたけれど第一声がこれとは。
「別に……お前が言ったことだろ」
意味が解からない、といった風にルネが首を傾げる。
それでいいと思う。ジルが、覚えていればいいのだ。――ジルが、一番失くしたくない、モノ。
「……で、お前、どうすんだよ」
「うん……」
その瞬間、ルネがふっと笑った。ジルは目を見開く。今まで、ルネのこんな笑顔なんて見たことが無かったから。いや、笑顔とまでは呼べないかもしれない。それは一瞬で消えてしまった、薄いものだったから。けれど確かに――笑った。
「どうしよう」
ジルは、眉根を寄せた。どう云う心情の変化だ。
「俺のこと殺すんじゃねえの?」
「うん……でも、思い出しちゃった、から……解からない」
自嘲気味に言う。
普段とは少し違う、微かな諧謔を含んだ声。
「思い出した……?」
「……ジルは、変わらないのね」
ルネの言葉は脈絡がない。けれどそれはいつものことだった。心では人一倍、いろいろなことを考えて壊れそうになるのに、その断片しか口にしないから
――よく解からない。いつも、ルネは。
けれどもジルを此処ですぐに攻撃する気はないようで、安堵した。ジルは、今までルネに殺意も害意も抱いたことがないから。これからも、抱くことはないと思うから。




