改訂【塀の上、綱渡りのハッカーズ】 本編 6 馬券スキーム
初夏の陽射しが、不動産屋「ハッピーホーム」のガラス窓に反射している。退屈そうなパートの女性、佐藤さんは、今日も週刊誌のゴシップ記事をめくっている。
戸田誠司は、その不動産屋の裏手にあるアパートの一室から、いつものルーティン通りにモニター越しの視線を投げた。
何の変化もない。それがこの日常の「安全」の証明だ。だが、その平和な風景に、異物が混入した。
一人の男が、不動産屋のドアを開けた。
男は戸田の知らない駒だ。だが、その歩き方、周囲を確認する視線の鋭さ、そして何より店に入るまでの迷いのなさに、戸田は「司直の人間」であることの可能性を感じた。
数分後、男は不動産屋から出てきた。
その手には、物件の資料ではなく、不自然に膨らんだ茶色の封筒があった。
戸田は尾行を開始した。
尾行訓練は、呼吸をするよりも深く身体に染み付いている。
男は地下鉄の駅へ向かった。改札を通り、ホームへ。戸田は距離を保ちながら、男の思考を予測する。男はプロだ。だが、どこか焦燥の色が見える。
電車に乗り込み、次の駅で降りた。男は路地裏へ駆け込み、公衆電話の受話器を取った。
戸田は曲がり角の影に身を潜め、男の背中を見つめる。男の声が、風に乗って聞こえてきた。
「……該当する場所は見つかりました。『ハッピーホーム』の隠しカメラの存在に気づきました」
戸田の背筋が凍りついた。
警察か?
男は電話を切り、路地裏を抜けて大通りへ出ようとした。
その瞬間、戸田のスマホが激しく振動した。深見からの通知ではない。未知の番号からの、強制接続だ。
『逃げろ、戸田』
しかしそれは、深見の偽りようのない、抑揚のない声だった。
「あの男は……」
『あれは警察の「犬」ではない。別の派閥だ。俺のシステムを乗っ取ろうとする、亡霊だよ』
戸田は立ち尽くした。
システムが、システムを食らおうとしている。深見の構築した「壊れた哲学」に、さらなる歪みが加わった。
「指示を」
戸田は低く言った。
戸田は路地裏の男を見た。
戸田は歩き出した。
都市の地下で、何かが軋む音がした。
社会という巨大なチェス盤が、今、激しく揺れ動いている。戸田誠司は、その混沌の中で、ただ一つの目標に向かって突き進む。システムを維持するためではない。自分の存在を、この冷徹なゲームの中に刻み込むために。
空には、どんよりとした雨雲が立ち込めている。
雨が降り始める。世界が、歪み始める。その中心で、駒は笑った。
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