表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本史・異聞編纂録 大谷吉継はなぜ西軍に立ったのか 〜関ヶ原証言録〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/15

第十二篇 平塚為広の日記

平塚為広は、大谷吉継の副将である。

大谷家の重臣として長年仕え、関ヶ原においては大谷軍の中核を担った。

小早川の寝返りの後も陣を崩さず、最後まで主君の傍らで戦い続けた。

大谷吉継が自刃した後、為広もまた関ヶ原の地に散った。

享年、不詳。


つまり——為広は、生きて証言できない。


以下に記すのは、為広が関ヶ原の数日前から戦いの最中にかけて書き続けた

陣中日記の抜粋である。

この日記は為広の遺品として戦場に残され、東軍の兵によって拾われた。

幾人かの手を経て、やがて筆録者のもとへ届いた。


為広は武将であり、文人ではない。

日記の文体は素朴で、飾り気がない。

だがその素朴さの中に——他のどの証言者も届かなかった場所へ、為広だけが届いている。


筆録者はこう記している。

「この日記を読んだとき、私は初めて——大谷吉継という人間の、最も内側に触れた気がした」と。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


慶長五年 九月六日


今日も晴れ。


殿の具合は昨日より少しよい。朝餉をほぼ召し上がった。それだけで私は安堵する。情けない話だが、長年仕えていると、主君が飯を食えるかどうかで一日の気持ちが変わる。


夕刻、三成殿から使者が来た。兵の配置について打ち合わせたいとのこと。殿は快く応じた。

使者が帰った後、殿が「為広」と呼んだ。


「はい」と答えたら、殿は少し間を置いてから「お前は怖くないか」とおっしゃった。

何が怖いのか、とは聞かなかった。

「怖いです」とだけ答えた。


殿は「そうか」とだけおっしゃって、また書状に向かった。


どちらが何を怖れているかは、言わなかった。言わなくてもわかった。そういう間柄だと思っている。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


九月八日


雨。


殿の体が冷えるので、陣の中を暖めるよう指示を出した。殿は「大げさだ」とおっしゃったが、私は聞かなかった。この件については、私の方が意地を張ると決めている。

昼過ぎ、殿が珍しく外へ出た。輿に乗って、陣の周囲をゆっくりと回られた。


兵たちに声をかけながら回っておられた。名前を呼んで、故郷を聞いて、家族の話を聞いて。

殿は兵一人ひとりの名前を、全員覚えておられる。

どうすればそんなことができるのかと、昔聞いたことがある。


殿はこうおっしゃった。「名前を覚えると、その人間のことが心配になる。心配になると、むやみに死なせられなくなる。だから覚えている」と。

今日、殿が兵たちに話しかける顔を見ていた。

あの顔は——どこかで見たことがある顔だと思って、しばらく考えた。


夜になってわかった。

誰かに会いに行くとき、もう二度と会えないかもしれないとわかっているときの顔だった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


九月九日


晴れ。


今日、殿と二人きりで話した。

こういうことはあまりない。殿は人と二人きりになることを、どちらかといえば避ける。

珍しいと思っていたら、殿の方から話しかけてきた。

「為広、お前は私のそばにいて、損をしたと思ったことはあるか」と。


私は少し考えた。

考えてから——「一度もありません」と答えた。

殿は「なぜだ」と聞いた。

「殿のそばにいると、見えるものがあるからです」と答えた。

「何が見える」と殿が聞いた。


私は正直に言った。

「人間が、大きく見えます。小さくも見えます。でもどちらも本当で、どちらも美しいと思えるようになった。殿がそう見ているから、私もそう見えるようになった。それは得だと思っています」と。


殿はしばらく黙っておられた。

それから「そうか」とだけおっしゃった。

その「そうか」の声が、いつもと少し違った。


何かを——受け取ったような声だった。

私は何を渡したのかよくわからなかったが、渡せたものがあったなら、よかったと思った。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


九月十日


くもり。


関ヶ原まで、あと数日だ。

今日は一日、陣の確認をした。

殿が配置を決める。私が兵に伝える。そのやり取りを繰り返した。

夕刻になって、殿が地図を広げたまま動かなくなった。


松尾山の方角を、じっと見ていた。

「小早川が向こうにいる」と殿が言った。

「はい」と私は答えた。

「あそこと——ここが、正面から向き合うことになる」と殿が言った。


小早川の陣と、大谷の陣が、真正面に向き合う。

「よい布陣ですか」と私は聞いた。

殿は少し間を置いてから、「よい布陣だ」とおっしゃった。

私には意味がわからなかった。

戦略的に見れば、寝返りが予測される武将の真正面に陣を置くのは、最悪の選択に見えた。


でも殿が「よい」とおっしゃったから——よいのだと思った。

長年仕えていると、わからなくても信じられることがある。

それが主従というものだと、私は思っている。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


九月十四日 夜


明日が関ヶ原だ。

夜、殿のそばで控えていたら、殿が「今夜は下がっていい」とおっしゃった。

「傍にいます」と言ったら、殿が少し笑った。

「お前は頑固だな」とおっしゃった。

「殿に似ました」と答えたら、今度は声を出して笑われた。

殿が笑う声を聞いたのは、久しぶりだった。

しばらく二人で黙っていた。


陣の外で風が吹いていた。虫が鳴いていた。

殿が「為広」と呼んだ。

「はい」と答えた。

「明日のことは、お前が一番よくわかっているだろう」と殿がおっしゃった。

「わかっております」と私は答えた。

「それでもここにいるか」と殿が聞いた。


「ここにいます」と答えた。

殿は何もおっしゃらなかった。

しばらくして、「そうか」とだけおっしゃった。


その声が——私は今も忘れられない。

安堵でも、感謝でも、悲しみでもなかった。

もっと静かな何かだった。

言葉にしてしまうと損なわれる気がするから、言葉にしない。


ただあの声を聞いたとき、私は思った。

この方のそばで死ねるなら——それでよいと。

それだけのことだ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


九月十五日 朝


霧が深い。

殿の輿を確認した。兵たちの顔を見て回った。


怖い。


正直に書く。怖い。

でも不思議なことに、足は動く。手も動く。声も出る。


殿が輿の中から「為広」と呼んだ。

「はい」と答えたら、「顔を見せろ」とおっしゃった。

輿の帷を少し開けて、殿の顔を見た。

殿も私の顔を見た。


しばらく、そうしていた。

殿が「よい顔だ」とおっしゃった。

私は何も言えなかった。

殿が「行くぞ」とおっしゃった。

「はい」と答えた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


九月十五日 昼過ぎ


(注記)

以下は、為広の筆跡ではない。

別の人物——おそらく為広の傍にいた兵の一人——が、為広の日記に書き足したものとみられる。

文字は荒く、乱れている。

書いた人物の名前はない。

(注記 終)


為広様が、最後まで戦われた。

小早川が寝返った。脇坂が動いた。西軍が崩れていった。

それでも大谷様の陣は崩れなかった。為広様が何度も立て直した。

何度も。何度も。


最後に、大谷様が自刃された。

為広様は大谷様のそばで、しばらく動かなかった。

それから立ち上がって、東軍の中へ駆け込んでいかれた。

一人で。

私たちは止めようとした。止められなかった。

為広様は振り返らなかった。


東軍の中に入って——そこで倒れた。

私には為広様が最後に何を思っておられたか、わからない。

ただ大谷様が自刃される前に、最後におっしゃった言葉を、私は近くで聞いた。

「これでよい」とおっしゃった。

為広様はその言葉を聞いて、目を閉じた。

少しの間、そのままでいた。

それから目を開けて、立ち上がった。


為広様が何を思って立ち上がったか、私にはわからない。

ただ——立ち上がったとき、為広様の顔が、これまで見たことのない顔をしていた。

何の顔だったか、私には言葉がない。

ただ——怖れていなかった。

それだけは、確かだった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


為広の日記は、ここで終わっている。


筆録者はこの日記を読み終えた後、長い間、頁を閉じることができなかったと記している。


「九月九日の記述を、私は何度も読み返した。『人間が大きく見えます。小さくも見えます。でもどちらも本当で、どちらも美しいと思えるようになった』という言葉を。」

「為広はこの言葉を、大谷に語った。大谷は『そうか』とだけ言った。その『そうか』が何を意味していたか——私には、まだわからない。」

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ