第1話:悪役令嬢、入学する
春の風が王都の通りを抜け、白い石畳の上を軽やかに流れていく。
王立アストリア学園へ向かう馬車の中で、少女は固く拳を握っていた。
ミリア・エヴァレット。
今日から学園に通う新入生。そして――
「ここは……ゲームの世界……」
小さく呟く。
それは確信だった。
この世界は、彼女が前世で遊んだ乙女ゲーム
『薔薇と誓いのロイヤルアカデミア』
舞台は王立アストリア学園。
王族や貴族の子女が通う名門校で、ヒロインはここで運命の恋をする。
王子、騎士、天才魔導士、若き宰相候補。
魅力的な攻略対象たちと恋に落ちる学園恋愛物語。
そして――
「悪役令嬢……」
ミリアの声が少し低くなる。
セレフィーナ・ルヴァリエ。
公爵家の令嬢で、王子の婚約者候補。
美しく、気高く、完璧な貴族令嬢。
だがゲームではヒロインを目の敵にし、嫌がらせを繰り返し、最後にはすべての罪を暴かれ断罪される存在。
いわば、最大の敵。
ミリアは窓の外を見つめる。
「絶対に負けない」
ゲームの知識がある以上、負ける理由はない。
イベントを正しく進めればいい。
王子との運命の出会い。
騎士との剣術訓練。
魔導士との図書館イベント。
すべて知っている。
だから――
「私は幸せになる」
馬車はゆっくりと速度を落とした。
やがて大きな門が見えてくる。
王立アストリア学園。
白い大理石で作られた壮麗な建物。
高くそびえる魔法塔。
王家の紋章が掲げられた巨大な校門。
まさしく、ゲームの画面そのままだった。
馬車を降りると、すでに多くの新入生が集まっている。
華やかなドレス、上品な礼装。
貴族の子女たちが期待と緊張の入り混じった表情で立っていた。
そして。
「……!」
ミリアは思わず息を呑んだ。
視線の先に、金色の髪の少年が立っていた。
陽光を反射するような金髪。
深い青の瞳。
堂々とした立ち姿。
王太子アルヴィン。
この国の未来の王であり、メイン攻略対象。
周囲の女子生徒たちがざわめく。
「アルヴィン殿下よ……」
「やっぱり素敵……」
ミリアの心臓が跳ねた。
(本物だ……)
ゲームの中のキャラクターが、今、目の前にいる。
その少し離れた場所には、背の高い騎士の少年。
黒髪で無口そうな顔立ち。
騎士ルートの攻略対象、レオン・ヴァルグレイ。
さらに、建物の柱に寄りかかりながら本を読んでいる銀髪の少年。
天才魔導士、カイル・セレスタ。
(全部……ゲーム通り……)
ミリアは胸の奥で高鳴る鼓動を抑えた。
だが。
本当に警戒すべき相手は、彼らではない。
ミリアは周囲を見回す。
(いるはず……)
そして――
人々のざわめきが一瞬、変わった。
「……セレフィーナ様だ」
「ルヴァリエ公爵家の……」
ミリアの背筋がぴんと伸びる。
ゆっくりと人垣が開く。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
銀色の長い髪。
透き通るような青い瞳。
洗練された立ち姿。
完璧な令嬢。
セレフィーナ・ルヴァリエ。
間違いない。
ゲームで何度も見た悪役令嬢その人だった。
ミリアの喉が乾く。
(来た……)
ここから物語が始まる。
最初の対立。
悪役令嬢はヒロインを見つけ、冷たい視線を向け、皮肉を言う。
それが定番のイベント。
ミリアは身構える。
セレフィーナの視線がこちらに向く。
一瞬、目が合う。
そして――
セレフィーナは
しゃがみ込んだ。
「……え?」
ミリアは間の抜けた声を出した。
セレフィーナは地面に手を伸ばし、土を指でつまんだ。
軽く揉み、匂いを確かめる。
真剣な顔で呟く。
「……水はけが悪いわね」
近くにいた庭師が慌てて近づく。
「お分かりになりますか、セレフィーナ様」
「ええ。このままだと根腐れするわ。腐葉土を混ぜた方がいいわね」
「さすがでございます」
ミリアは固まった。
(……何してるの?)
セレフィーナは土をもう一度手に取る。
「あと少し酸性寄りね。バラなら問題ないけれど」
庭師は深く頷いた。
「やはりここに花壇を作るのがよろしいでしょうか」
「日照が足りないわ。もう少し向こうがいいわね」
二人は完全に園芸の話をしている。
ミリアの頭が追いつかない。
(え?)
(悪役令嬢って……こんな感じだっけ?)
周囲を見る。
王子も。
騎士も。
魔導士も。
みんな、同じ顔をしていた。
「……?」
入学式の鐘が鳴る。
新入生たちは講堂へ向かい始める。
だが。
セレフィーナはまだ校庭にいる。
土を見つめている。
「この土、面白いわね」
ミリアは遠くからその姿を見つめた。
胸の奥に、不安が広がる。
(……おかしい)
(ゲームと違う)
入学式は滞りなく終わった。
ヒロインと悪役令嬢の対立も。
嫌味も。
事件も。
何も起きないまま。
ただ一人。
校庭の隅で、セレフィーナは庭師と話していた。
「ここにバラを植えましょう」
春の風が吹く。
この日。
確かに乙女ゲームは始まった。
だが――
誰一人、物語を始められなかった。




