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「地下室の手記」で、この孤独な小役人は、始めて一人の「他者」と出会う。それは始めての他人との出会いであり、そしてまた、それはドストエフスキーにとっても最初の「他者」との接触だった。そう言う事もできる。
では、他人と何だろうか。始めて出会う他者とは何か。他人というのは、我々が一緒に話したり、喋ったり、また喧嘩したり、また仲良くしたりできる、そういうものの事だろうか。他人とは、馴れ合いと、敵対とを離れては存在できない何かなのだろうか。
僕は問題を極限化しすぎているのかもしれない。まあいい。続けてみよう。…この小役人が出会う、その最初の他者とは、売春婦のリーザである。リーザに出会うまで、この小役人は、自分以外の他人とは誰一人会う事はなかったと言っても良いだろう。そしてこのあたりの事は次作の「罪と罰」とも関わる事だ。
この小役人はラスコーリニコフと同じに、あらゆるものを全て、自分の自意識の中に閉じ込めておく事のできる存在だ。そこでは、いくら他人と出会おうと、付き合おうと、殴り合おうと、そこで他者と出会う事はない。他者というの結局、わめこうが何しようが、この主人公の自意識を変容させようとするなにものかーーつまり、邪魔者でしかない。そしてこの自意識はこの邪魔者達に絶えず反発する。この邪魔者達というのは、この自意識にとっては乱立する無数の声である。そして自意識は常に、この無数の声に反発する事によって、この邪魔者達を自分の存在の中に取り込んでしまう。
自意識というのは奇妙なもので、そこではありとあらゆる劇がすでに演じられる、あるいは「演じられた」そのような壇上の事なのだ。例えば、現代の我々の社会では、恋愛とか友情とかは、この世界の資本主義システムに取り込まれて、もうひとつのお芝居になってしまっている。そこで人々はそれが現実だと勘違いしながら、システムが描いた脚本の通りに踊るのである。しかし、自意識はこれに反発する。自意識はこの劇そのものを全て自分の脳内に取り込み、そしてその可能性と不可能性をあらいざらいぶちまけさせる。こうして、自意識的な存在、その脳髄は全ての事をあますところなく、その脳内で体験するとともに、それに飽き飽きして、そうしてこの人物はもう一歩も動けなくなってしまうのである。我々の行動の可能性と不可能性との間に無限の差があるなら、この差分の、その意識の泥濘の中にこの人物は寝そべる。そして、この人物はそれから一歩も動けなくなってしまう。
だとすると、この人物に他者は存在しないのではないか。
ここに、弁証法的な発展があると思ってもらいたい。あるいは、その可能性があるのだ、と。
まず、我々は最初に他人と出会う。他人と馴れ合い、そした他人と反発し合う。そこでの他人とは、飲み会で出会う気の合う仲間であり、大学のサークル仲間、合コンで知り合う男女であり、また誕生日にディズニーランドに行く愉しげなカップルである。あるいはそれは馴れ合って犯罪を起こす不良グループかもしれない。しかし、どれにしても、それがそれぞれの存在の次元に至るような認識、その葛藤までに至る事はまずない。誰かが死に瀕した時、あるいは殺人などの凶悪な犯罪の只中に巻き込まれた関係の時、それらの人は、それら他人の存在を直視する事を余儀なくされる事だろう。しかし例えそうだとしても、それは単に偶然的なものであって、彼らが意識的に行う「存在了解」ではない。
ここでは他人とは、意識的に、表面的に出会うにすぎない。そこでは、それぞれがそれぞれにとっての表皮を撫で擦るにすぎない。しかし、我々の長らく平和の続いた社会、危機の少ない社会では、表面が本質に取って代わられる。なぜなら、危機の時に始めて人間の、真の醜さも美しさも表面に現れ出るからであり、そういうものが現れにくい今日の世界では表面的なものが全てを占める事になる。「イケメン」とか「美少女」、などに過大な価値が付加されるのには、そういう理由があると思える。つまり、本質とか、人の奥底についてはもう言う事がないので、表面だけが全てになり、問題となっているのだ。
しかし、それはあくまでも表面なので、その表皮はすぐに剥がれてしまう。表皮だけ見て結婚しても、それは長くは続かない。金の価値だけにおびき寄せられて働く人間がその会社で長く働く事は難しい。こうして我々は、表皮的であるゆえに、取替え可能な存在へと次第に巻き込まれていく。自分の都合で他人を取り替える事は可能だが、そうすると自分もまた他人に簡単に取り替えられる何かになる。そして、ここに我々の不安が起こる。我々は今、不安である。そしてそれから逃げる為に、ますます表皮を磨く事に専念している。
しかし、こういう他者との出会いに不満を感じ、こんなものは本当の「他人」ではない、と考える事ができる。従って、ここに哲学で言うところの「懐疑論」が始まる事となる。そしてこの「懐疑論」において、人はもう他人を簡単には信用しない。他人というのは、うざったい、面倒な存在となってしまう。何故か? 彼らは小さな物事に細々と取り入り、そして目の前の物事しか見ずに生きていない。彼らは何より「思索」を欠いている。目の前に壁があると、彼らはそれにすぐに服従し、その通りに行動して、何ら後悔しない。彼らに深い諦念や絶望はない。そして今や、ーードストエフスキーの当時の社会では、完全なる絶対真理、美にして崇高なるもの、そして完全無欠の水晶宮が打ち立てられようとしていた。それこそが、西欧から伝わった社会主義であり、それは新手の、そして、原版であるマルクス社会主義よりかなり雑な出来の聖書そのものであった。そして人は何を為すべきか、その全ての挙動が、その聖書には書き込まれているのである。
地下室の手記の主人公は他人を全て寄せ付けない。彼らは、この主人公を迫害し、そして侵略するなにものかである。孤独! 孤独とは、なんと価値があるものだろう!? 彼は自分の思索にすがる。彼は思索する為に思索するのであり、そしてそれは絶えざる世界の声への反発としての声である。そして、この声への反発としての声ーーというこの点において、かつての、フローベール式に捉えられた人間は、全く新しい、心理的な生体へと変化されている。しかし、この変化はドストエフスキー必死の変貌であり、もちろん、それに悦に入っている余裕などはなかった。ここで、人間は、『世界の声に対する声』という一つの心理的実態として、新たに蘇生しているのである。フーコーであれば、この事実を、新たなエピステーメーの出現として指摘した事だろう。僕がもしフーコー的に言うのであれば、現代というのはまさにこの点から始まったのである。人間が、声に抵抗する声としての心理的な実在にーーー生活し、恋愛し、人を殴ったりする、生活者としての市民的存在から、「声に対する声」として新生したこの瞬間からこそが、現代の始まりである。そしてそれこそが、現代人である僕達がドストエフスキーに素直に感情移入できる、その最も大きな原因である。そしてこの新しい、コペルニクス的転回に比べれば、他の大家の作家らが試みている様々な方法論の変革は実に些細な、細々としたものだとさえ言える。
しかし、ここでこの小役人は自己を認識する自己という存在でしかない。彼らは意識のバリアーによって、決して破られることのない自己意識、その世界を作った。だとすると、このバリアーは決して破れる事はないのだろうか? 他者は、この世界に侵入可能だろうか? しかし、あらゆる他者の意識がこの小役人の自己意識に捉えられ、そしてそれらは遠ざけられ、蹴飛ばされている。この孤立はもはや、絶対であるかに見える。
しかし、捨てるものあれば拾うものあり、との格言、真理に従って、まさにその場所に他人が現れる。「他者」が現れるのは、自分というものを絶対化し、絶対存在の権化へと変革した、その後の事なのである。この事を世の中の人々は決して承認しないだろう。彼らは自己を失う所に他者が存在すると信じ、またそう生きているので、積極的に自分を失う事を、彼らの教義としている。しかし、飲み会に、合コンに行き、いくら他人と会話し、愛撫し、親友となり結婚相手となっても、それらは全て妥協の産物である。自己を失った分が他人に流れただけである。しかし、その他人もまた自己を失っている。そして、彼らはこの「自己を失っている」というその感覚に対して、いつの日にか復讐しようと企てる。心の見えない奥隅の方で。彼らが老年になり、世界や自分に絶えざる不満を感じて、始終怒り散らしたり、また急に駅前で奇抜なイデオロギーにとらわれてチラシを配ったり、急にかくかくしかじかの宗教に入って、熱心に活動を始めるのはそのためである。彼らはまず世界に服従する事から始め、他者と妥協する事から始めた。そしてあまねく万人に彼らは「天才などこの世にいない。だから、我々はまず世界と他人に服従する事から始めようではないか」と、そういう教義を振りまいた。しかし、その教義の犠牲者はまず何よりも、彼ら自身であった。彼ら自身が、自分を失った穴埋め取り戻す事を、人生の後半生で強いられているのである。しかしそれは埋めても埋めても埋まらない何かである。彼らは元々、失ったものが何かを知らないために、それを取り戻す事は決してできない。彼らはだから、自分からそうして逃げ続ける。確かに、彼らは孤独ではないだろう。だが、彼らは孤独以上のひどい孤独にさいなまれる事になる。そして他者という、一時的な麻薬の効き目もそう長くは続くまい。
しかし、「地下室の手記」で小役人が出会う他者は、普通一般の人間のだらけた、ぼんやりとした認識に現れる他人ではない。しかも、それは娼婦であり、一般のそれなりの地位身分の市民ではないのである。では、これはどんな意味を持つのか。どうして他人がこの自意識のバリアーに現れるのか。それをもう一度、考えて見なければならない。