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少しばかり、図書館で資料を借りてきた。そこから、ドストエフスキーの生涯について調べてみる。E.H.カーや、小林秀雄が書いた優れたドストエフスキーの生涯に関する論述がある。それらを読みつつ、またドストエフスキーの晩年の妻アンナの回想を読みながら、そこに病的で繊細で、苛立たしく、しかし人類に対する恐れと愛を同時に持った一人のロシア人を想像する事ができる。ドストエフスキーはおそらく、日常生活ではそのような人物であっただろう。天才であり、孤独であり、人に対してビクビク怯えながらも、時にあまりに傲慢で尊大な人物。ドストエフスキーの友人であったストラーホフは彼の悪魔的な面を、そして妻のアンナは彼の天使的な面を描いた。しかし、このドストエフスキーなる人物はその両者の側からの描写を合わせても、まだ釈然としないものを感じる。少なくとも、僕はそう感じる。
僕達はドストエフスキーの作品を読む事ができる。しかも、かなり質の良い翻訳を通して。それは文庫本で存在し、なおかつ電子書籍でも読める。ドストエフスキーの作品はもうすでに一般化されている。しかし、僕達とドストエフスキーの作品との、その長大な距離はなんだろうか。僕達の卑近な日常生活と、ドストエフスキーの作品の広大な作品との間に広がる、この深淵は何だろうか? この断絶は一体何だろうか?
この点に関して、研究者らはそれほど深く考えていないように見える。それは人々が簡単に「天才だから」という言葉で片付けているのと、似たような態度だろう。一部の研究者、評論家はドストエフスキーを神格化して、それに対して論評している自分の地位を高めようとするか、逆に神格化されているものをけなす事によって、自分の「名をあげよう」とでもいった態度を示す。そこでは真摯な評論家はそれほど数多くない。普通の人は「天才」とか「才能」とか言う言葉で、理解の代用としている。しかし、批評というのは当然、平明な視線で「理解」しなくてはならない。しかし、星のように輝いている存在にまで背を伸ばすのは確かに、至難の技だろう。
しかし、とにかく理解しなくてはならない。まず、ドストエフスキーは、何よりも一人の人間であった。彼は、天才であると同時に、実に俗っぽい人間でもあった、ちょっとした事で癇癪を起こしたり、ギャンブルに身を費やし、すってんてんになるくらいの愚かさを持ち合わせていた。にも関わらず、その内部世界はこの世界を合わせたよりもはるかに広大で、偉大であった。だとすると、この断絶の意味はどこにあるのか。この断絶を我々はどう理解すればいいのか。彼は善人か、悪人か。彼は偉大な人物なのか、それとも偉大の名の陰に隠れて悪事を成した、現実生活においては愚かなくだらぬ人物だったのか。
ストラーホフが悪意を持って、そして妻のアンナがドストエフスキーに対する崇敬の念を持って接しているのは間違った事ではない。彼らは、ドストエフスキーと直に接する人間として、この断絶に対して、そういうそれぞれの感情で、それぞれの態度を取ったに過ぎないのである。アンナは夫の良き面を、つまりドストエフスキーの聖人的姿を見たし、ストラーホフは、ドストエフスキーの悪人的、悪魔的性質を見て取った。だとすると、このどちらが真実だったのかと人は問いたくなるだろう。それは僕もそうだ。…いや、そうだった。人は認識する時、黒か白か分かれていると、とても便利であるという事をよく知っている。僕は子供の頃、偉人でもドラマの登場人物でも、かたっぱしからそれを「良いもの」と「悪いもの」とに分離しなければ気が済まなかった。そして未だに、その白黒を弄んでいる大人達は無数にいる。
僕の答えを言おう。ドストエフスキーという人物こそは、この現代ーーあるいは「現代の始まり」ーーにおいて、この善と悪の二元的対立を徹底的に止揚した人物であった。彼の中で、善と悪は同じ価値で存在したか、あるいはそれは相補的な概念として存在していた。ストラーホフは彼に悪を、そして妻のアンナは彼の中に善を見た。そしてそれは二人それぞれに違った感情で色づけられた。一方は憎悪、そしてもう一方は崇敬。しかし、ドストエフスキーはそのいずれも、自分の中に組み込み、一つのドラマとして作り上げる事ができる、全く異色の人物であった。例えば、市民社会の只中において生きる我々においては「殺人」「窃盗」は悪である。それはもちろん、悪であるし、断罪されなければならない。我々は平凡で健康的な市民として生きる限りにおいて、これら、犯罪者や異常者を自分達のテーブルから取りのけて考えられる。彼ら、殺人者を、自分の友人と同列に考えたりはしない。そんな事を始めてしまえば、世界はたちまちの内に、秩序を失ったカオスへと変わってしまう。そこでは親友が殺人者に、また殺人者が自分の年来の恋人になったりするかもしれない。そんな可能性がある世界に人は耐えられない。だから、通常、人は法律が描く線と同じに、自分の思念の領域を制限する。異常者、犯罪者達は自分の外部に存在するものであって、自分達とは相容れない何かなのだ。そしてそれが現代のように、その組織、社会集団が切羽詰まると、それは人種差別的迫害となって現れたりする。そこでは、絶対的な悪や異常者が想定されている。そしてそれにより、自身の正常さが証明されると、少なくとも彼らの内ではそう考えられている。
しかし、例えば、「罪と罰」において、その殺人行為が間違っているとか、おかしな異常な行為だと、作者によって目されている箇所はほとんど一つもない。そもそも、殺人行為が完全に間違った異常な行為であり、そんなものは人のする事ではない、と考えている人物が、殺人者のあの心性の中にあれほど深く潜り込んで、その内面性を描く事は不可能なのである。理解するとは恐ろしい事である。理解するとは、究極的には、この異常ー正常の間にある一本の敷居、そのラインを消していく作業に似ていく。そこでは、全ての秩序は失われ、世界はまた一つの、それが生まれた時にそうであったような混沌へと還っていく。
ドストエフスキーが描いた世界はまさにその混沌そのものであった。「罪と罰」において、殺人行為は否定もされていなければ肯定もされていない。しかし、現代の強烈な、『正常者根性』を持っている人々には信じられないだろうが、ドストエフスキーは殺人を犯したとしても、そこから救われ、自己改革する事ができる、そういう道がこの世には存在している、という事を示しているのである。これは実に厄介な事である。現代の日本を見ても、人殺しが檻から出てきたら、そしてまた、その人殺しが自分の身近に生活しているかもしれない、と考えるとぞっとするだろう。それはまあ当然の事である。しかし、ドストエフスキーは究極的には悪すらも、最終的に、人間性の一部分であると考え、彼はそれを一心不乱に書いているのである。そしてそこには当然、シベリア流刑の経験があった。シベリア流刑の時に、彼が得た経験とは何か。それは異常者もまた我々の一人であるという事である。こう言うと、「へえ、そうなんだ、ドストエフスキーってそうなんだ。なるほどなあ」などとこれを読んでいる読者は言うかもしれない。しかし、僕はそういう傍観者根性に対して、納得させるためにこんな事をわざわざ骨折って書いているのではない。僕が言いたいのは、ドストエフスキーこそはまさに、その僕達の、画面ばかり見つめ、そして画面の中と、外側の自分を完全に分離させて充足させているその人間、僕ら傍観者の秩序と非秩序の線引きそのものを破壊する改革者であるという事だ。
「カラマーゾフの兄弟」にこんな描写がある。
「正気にきまってるんじゃありませんか……卑劣にも正気なんです、あんなや、ここにいるあの……豚どもとご同様にね!」突然、彼は傍聴席をふりかえった。「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたふりをしてやがるんだ」彼は憎さげな軽蔑を示して歯ぎしりした。「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いしているだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰るこったろうよ……とんだ見世物さ! 『パンと見世物!』か。もっとも、俺だって立派なんもんだ! 水はありませんか、飲ませてください、おねがいだから」彼はふいに頭をかかえた。
これは物語の終盤に、父親殺しの嫌疑にかけられた兄ミーチャの弟イワンが法廷でした発言である。イワンはこの時、重度の精神的錯乱に犯されている。しかながら、それはここではさほど大切な事ではない。ドストエフスキーの優れた読解者であるミハイル・バフチンは正確にも次のような事を書いている。
「ドストエフスキーの主人公は常に、彼を決めつけ、死人扱いするような他者の評言の枠を打ち破ってやろうとしている。」
バフチンの言葉は紛れもなく正しい。しかし、バフチンの言葉はただ正しいから意味があるのではない。そうではなく、バフチンは明らかに、二十世紀的人物、あるいは極めて現代的な視点からドストエフスキーを読もうとしている。…バフチンは、この主人公の特質(引用したカラマーゾフの場面では、イワンは聴衆達に対して、挑戦し、それに打ち勝とうと試みている)をドストエフスキーの小説の特質の一つとしてしかみなさなかったが、しかし、実はこの点こそが、まさにドストエフスキーがポストモダン的な作家と言えるその根底の理由にあたっている。そしてこの事こそが、僕達がバルザックを読むより、はるかに強くドストエフスキーに惹きつけられるその所以である。そこには極めて、現代的な問題が絡んでいる。では、次にそれを記そう。