序
ドストエフスキーについては、世界中の一流の批評家、評論家らによってもうすでに散々に論評されている。そしてドストエフスキーは世界中の多くの人間から読まれている。従って、それはもうすでに完全に「古典」に入っているように見える。
今から僕が記す批評に関しては、あくまでも現代から、つまり二十一世紀から見た批評という側面が強くなると思う。それにそうでなければ、論評する意味がないとも言えるかもしれない。もう今の時代にドストエフスキーに対して言及する事自体が古臭い発想だという考えに僕は断固反対する。古いものの本質を守る為に、我々は絶えず新しくならなければならないのであり、目先だけの新しさを希求する人間は、経済でいうバブル現象のように、泡のように現れてはすぐに消えていく。昨今のソーシャルゲームの動向などもそういう気勢を感じさせる。ドラッカーは、現代を論じるに当たって、平気で百年、二百年前の事例を持ちだした。ドラッカーの中では本質は変わっていない。しかし、それ故に、本質を維持し、あるいはそれを固守する為に我々は日々生まれ変わらなくてはならないのである。現代においてドストエフスキーを論じる意味は確かにあるが、しかし、それはドストエフスキーが何かというその本質に至る為に、現代的であらざるを得ない。本質そのものは変化しないと考えても良いだろうが、それを論じる人間の立ち位置は常に、優れたサーファーのように、変化しなければならない。波の上に乗り続けるには、自分が絶えず細かく変化しなければならないのだ。素人は自分が変化できないので、自分そのものが世界に変化させられる。巨大な現象においても、それは変わらない。




