伍ノ幕 ひと休み
「お兄ちゃん、そんなに広げないで……痛いよ」
ここは布団の上。行灯の淡い光が梓と美烑の肌を照らしている。
「やかましい、広げなきゃ見えないだろうが」
「で、でも恥かし……、痛っ!」
突如体に走った痛みにびくんと跳ねる美烑の体。
「あん、無理やり……しないで」
「艶かしい声を出すな。いいから傷口を見せなさい」
梓は行灯の光に翳しながら美烑が受けた傷の一つ一つに軟膏を塗っていく。これは普通の傷薬ではなく、梓が特別に調合した塗り薬だ。ただ傷の直りを早めるだけではなく、精気を含ませることで妖気の回復もできる優れもの。
普通ならこれを塗っておけば翌朝には治るのだが、今回ばかりはそうもいかない。
失った妖気が多すぎる。
「よし、もう服着ていいぞ」
「ん~、もう少し見てくれないの?」
「どこを見てほしいって?」
「えっと……乳房とか?」
「……」
梓はジト目で美烑のささやかな胸を眺めた。はっきり言って乳房といえるほどの代物ではない。バストというよりはチェストに近い。
そんなに見てほしいなら勝手に大きくすればいいのに、とか梓は思ったりしたが今は言わない。そんな余計なことに妖気を使わせるわけにはいかないのだ。
「いいよ、もうっ!ふんだっ!!」
美烑は拗ねたような声をあげて服を着始めた。
肌着は襦袢と呼ばれる薄い生地の和服だ。着物の質が悪いためちょっと濡れると透けてしまうネグリジェのようなもの。当然キャミソールもなければパンツもない。美烑の場合尻尾が2本あるために、裾が捲くれ上がって尻尾の付け根から無毛の股間まで丸見えだ。
(……色気づくなら少しは気にしろよ)
美烑は狐であった頃に何匹も子供を産んでいる身だ。肉体的な恥ずかしさよりも精神的な恥ずかしさ……恋心の方が美烑にとっては新鮮で、慣れないものだったりする。
心を、人語を、人の文化を知ったからこそ芽生えたもの。
「とりあえず寝ておけよ。お前は風邪気味の上に、妖気を失ってるんだからな。補充は明日から始めるから今日は寝ろ」
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「その……ちょっと、嬉しいかも」
「はあ?」
「あの……、心配してくれるのが、すごく……嬉しいんだよ。その……」
言いながら恥かしくなったのか、掛け布団を鼻上まで持ち上げた。その目が次第に潤んでいく。
「はあ、まったく」
梓は美烑のおでこにキスをして離れようとした。その梓の手を布団から伸びた美烑手が捉える。いつもの美烑なら梓など軽く組み伏せるのだが、今は力を入れれば簡単に動かせるほどに弱々しい。
「……」
美烑の瞳は梓に合わされたまま、何も語らず。されど強く求めて。
「本当に、まったく」
梓は立ち去るのをあきらめて美烑と同じ布団に入った。向かい合うように横になった梓の胸に美烑がしがみついた。
「怒ってる?」
「うん?」
「その……、あたしが無茶したこと。お兄ちゃんが止めたのに、妖気を使っちゃったこと」
「いや、怒っちゃいないよ。どっちかって言うと、……怖かった。お前がいなくなるんじゃないかと思って」
美烑の頬をぷにぷに弄りながら梓は答えた。美烑は目を細めつつも視線を外さない。
「ん……」
「でも、こうして炬香と3人生き残れたのはお前のおかげだ。ありがとう」
梓は美烑の狐耳や尻尾、髪の毛や体を撫で回す。美烑もそれに答えるように梓の体に抱きついた。
「んあ……」
ひとしきり撫であって満足したのか、美烑のほうから体を離す。
「美烑?」
「えへへ、もう大丈夫。1人で眠れるよ」
「本当に、大丈夫か?」
「うん。……これ以上独り占めしてたら炬香ちゃんに悪いし。炬香ちゃん最近寂しがり屋さんだから、あんまり独りにしたら拗ねちゃうよ」
言った美烑本人のほうが寂しそうな顔をしていたが、梓は軽く抱きしめてから体を離した。
「お休み、美烑」
「うん……お休み」
梓は美烑が寝ている部屋から廊下に出た。
そして気配を探る。
「……」
居た。
柱の影。張り付くように、影に溶け込むようにこちらを覗うモノが。
「炬香」
「ひゃいっ!?」
その怪しい影――炬香が変な声を上げて飛び出してきた。
「お前は……、普通に入ってくればいいだろうに」
「だ、だって……、『2人だけの世界』って感じで……」
「どこで覚えてくるんだそんな言葉」
「えっと……、炬香の中の魂の記憶が……」
「ごめん、聞いた俺が悪かった。話が重くなりそうだからその辺で」
「む~」
炬香は膨れながらも歩き出した梓の後を追った。
「美烑様は大丈夫なのです?」
「いや、正直まだ危険だ。応急処置はしたがすぐには全快しないだろう。妖気は明日以降回復していくとして……」
「何か……問題があるですか?」
「ああ。把音が言っていたように家臣団まで派遣されるかどうかはわからないけど、これから人間が襲撃してくる回数は確実に増えるはずだ」
「そうなのです?」
「冬に入ると農民はやる事が無くなるんだ。特にこのあたりではな。家の雪下ろしとかなら子供がいれば問題なくできるし」
「……」
「美烑があの状態である以上、炬香にも色々やってもらいたいんだが」
そこでふと炬香が寂しそうにしているのに気がついて、抱き上げてみた。
「炬香……」
「……」
炬香は黙ってぎゅっと梓の服を掴んだ。
「美烑が回復する前に人間が攻めてきたら、またお前に出てもらわなきゃならない。それも美烑なしで、だ」
「うん」
「俺は妖符の作成と美烑の治療をするから、お前は食料の調達と……下に罠を仕掛けてきてくれ」
「下って……いつも戦ってるところです?」
「そう。崖崩したからな。前より簡単にこの神社まで上がってこられるようになった。あの荒地で食い止めないとあっという間に包囲されて終わりだ」
梓は炬香を抱えたまますとんと縁側に腰掛けた。
「梓……?」
「炬香も大きくなったから今まで以上に必要だろ?これから戦ってもらうわけだし」
「ふあっ!……は、はいです」
じじじぃ~っと。炬香は恥ずかしさと緊張……もうすぐ泣くぞ、と言わんばかりの表情で、でも期待と渇望を込めた瞳で梓を見つめる。肉体的には幼稚園児のそれだが、表情は乙女のものだ。
「あんまり躊躇してると、ますます恥ずかしくなるぞ」
「じゃ、じゃあ、……遠慮なしですっ!!」
炬香が梓の口にむしゃぶりついた。唾液と共に精気を取り込んでいく。
「んんっ」
梓は母乳を飲む乳児にするように、炬香の頭を撫でたり、体を撫でたり、これは人外だからこそだが尻尾を撫でたりしている。
慣れぬ体を振り回し、妖符を使い切り、自身より大きな美烑を担いで動き回った 炬香は予想以上に妖気を消耗していたらしい。砂漠で水にありついた旅行者のごとく、ごくごくと貪っていく。
「んっ、はあぁ……」
しばらくして口を離した炬香はまだ物足りなそうな顔をしている。
「もういいのか?」
「これ以上炬香がもらったら、美烑様の分が……」
「その分炬香がいろいろ狩ってきてくれれば問題ない。まだ自分の体に慣れてないんだから遠慮するなよ。炬香にまで倒れられたらいよいよ手詰まりだぞ」
「じゃ、じゃあ……、もっと貰うですっ!」
炬香は再び吸い付いた。舌を差し込んで、押しつけて、犬がするように唾液を掬い上げて飲み込む。
手は梓の耳に。梓の顔を固定するように握っていた手をやわやわと動かし、耳を、髪を、首を、胸をまさぐるように動かす。
その手は愛おしげで、寂しげで、そして情熱的であった。
「ちゅぱっ……ふう」
炬香は唇を放した後も、美烑がそうしていたようにぽーっと宙を見つめている。体の力を抜いて梓の腕にすっぽり収まったまま。けぽっと小さなげっぷをしながら、それでも満足はしたようで心地よさそうに体を横たえている。
梓はそんな炬香の体をゆっくり撫でていく。
「満足したか?」
「……、ちょっと……食べ過ぎたような感じ、ですぅ……」
梓は視線を虚空へと向けた。昼間の雨が嘘のように晴れ渡っている。梓の視線につられて見上げた炬香の瞳には満点の星空が浮かんでいた。
月はない。
それはまるで美烑が臥せっているのを象徴しているようで……。そこまで想像した炬香はなんだか悲しくなって、寂しくなって……涙が零れた。
「……ぐしゅっ、ぐす~」
「どした?」
「ん~ん」
言ってしまうとそれが現実になってしまいそうで、そしてそんな事を考えてしまった自分が嫌で、炬香は首を振って口を閉ざし、梓の胸に顔を埋めた。
「炬香……、美烑と3人、こうして星を眺められるようがんばろうな」
「……ん」
炬香は小さく頷いた。
しばらくすると、すーすーと寝息が聞こえ始めた。
「……」
梓は暫しその横顔を眺めていたが、きっ、と満点の空を見上げた。
「これからだ。……今度こそ失わない」
今日生き残ったのは把音の気紛れと、運が良かったというだけ。それでも後悔はしない。
今日の失敗を反省し、明日に生かす。
もうあんな想いはたくさんだ。
これから。
これから……。
「梓、ここでいいです?」
ここは拝殿と呼ばれる建物……そのさらに奥にある、この神社で最も神聖な場所。
「ああ、そこでいい。それ以上はまだ近づくなよ。怪我するから」
この神社に祀られた農耕神『美烑稲荷』のおわす場所。正確にはそのご本尊が安置されており、他の場所より強い、また質の高い結界が張ってある場所である。
「さすがにこのビリビリする光には触りたくないのです」
それは本来であれば美烑や炬香といった妖怪の類は入り込めないものなのだが、今美烑の体は結界の中に敷かれた布団の上にある。
「美烑様は大丈夫なのですか?息苦しくないです?」
「んっと、何ともないけど?」
「別にこの結果は中にいるものの妖気を根こそぎ吸い取ったり、封印したりする類のものじゃないからな。ただ入らせないというだけの結界だ」
エアーカーテンのようなものだ。
「通るときは多少刺激があるかもしれないが、美烑くらい強ければ特に問題はないし、今回は細工したから、美烑はほとんど素通りだったからな」
簡単に言うと「美烑」は妖怪の類じゃないですよ、穢れてませんよと結界に信じ込ませて通過させた、というところか。
「へえ~、それで何も感じなかったんだ。でも、なんでここに?」
「美烑の体調が悪くなったのは、変な妖気が紛れ込んだせいだろう?」
美烑は「伝話」の練習中に、自分とは違う妖気が体内に流れ込んだために風邪に似た状態になり、本調子で戦えなくなってしまった。
「その何かを追い出すために……?」
「いや、それは自分で何とかしてくれ」
美烑の予想とは違ったらしい。
「ちょっと期待したのに」
梓が考えている以上に自分の中の違和感が不快なのか、美烑はジトっとした瞳を向けた。
「そうじゃなくてだな……。これからお前の中に大量の精気を送り込む。その時にまた変な妖気が流れ込まないようにこの場所を選んだんだよってこと」
言葉につられるように美烑は周囲を見回す。炬香のいうところのビリビリする光が床を縦横無尽に走っている。同心円状に4本。その最も中心にある円の中には陰陽道の象徴たる五芒星。部屋の四方・東西南北には、それぞれの方角を象徴する色である青白黒赤で覆われた行灯。
ちなみにさすがに真っ黒では光が出ないので、南の行灯は黒がかった黄色の行灯になっている。
「確かに……空気が綺麗な気はするけど……」
妖怪である美烑はどこか落ち着かない様子。
「それで、俺と美烑は基本的にここを離れられないから、炬香には食料の調達と戦場の準備をしてもらいたい」
「食料の調達はわかるですけど……、戦場の準備って……」
「これを見てくれ……」
バアサッという音と共に巨大な紙が広げられる。その大きさは畳6枚……6畳分に相当する。梓たちが居る、一段高くなったエリアでは収まりきれないので、炬香が座っている広間の方に広げる。
「これは……?」
「あの荒れ地の俯瞰図だ」
「ふかんず……です?」
炬香は何のことかわっていない様子。
「鳥が空から地表を見下ろしたように書かれている地図のことだよ、炬香ちゃん」
つまりこれ、と美烑は指差した。
炬香が座る側にデフォルメされた神社、その前には一直線に伸びる階段、そして粗く削られた崖とその先には荒れ地が広がり、その外周にまたなだらかな崖がある。
そして梓と美烑の居る側には、崖を這うように蛇行した道が描かれている。その道を進んだ先にあるのが近くの村。いわゆる人里だ。
「昨日も言ったがしばらくは炬香1人で戦うことになる。とはいえ1人で全部相手するのは無理だからな。事前にいくつか罠を張っとく必要がある」
そう言っていくつかの妖符を取り出した。それは前に作ったものとは違うもの。
「これは?」
前に渡されたモノとは性質の違う……妖気の流れが違う妖符を前に炬香は首を傾げた。
「これは設置型の妖符……つまり罠だ。前に渡した妖符は妖気を流し込むことで技を発動するものだが、これは先に妖気を送り込んでおいて設置。人が通ったり、誰かが新たに妖気を流し込むかすることで発動する」
いわば地雷だ。それも遠隔自爆機能付の。
「とりあえずはこれを設置してきてくれ……場所はここと、ここと、ここ、それから……」
梓は地図上を指差していく。基本的には同じ間隔で設置していくようだ。
「わかったのです」
「仕掛けるときに妖気を入れるのを忘れるなよ。……それと無理はするな。妖気が減ってきたらちゃんと戻ってくるように」
「はいです」
炬香は小さく頷いて出て行った。
「お兄ちゃん、念のため言っとくけど炬香ちゃんにあんまり無茶させないでね。急に妖気が強くなったせいで、その……調子にのってるとこあるから」
美烑が少しキツい言い方をするが、意地悪で言っているわけではない。それは梓にもわかっている。
美烑は今までずっと1人で戦ってきたのだ。
梓と出会う前からずっと1人で。
その間には、軽はずみな行動で危険な目にあった事もあるだろう。
加えて今回美烑が負傷したのは、風邪気味である事以上に美烑の油断によるところが大きい。はっきり言って、
「美烑が言うなよ」
「う……、あ、あたしだから、だよ。炬香ちゃんに同じ失敗をして欲しくない。炬香ちゃんはあたしほど丈夫じゃないんだから……」
「俺に言わせれば、お前も十分弱いけどな」
「……ほんとに?」
美烑は上目遣いで梓に聞き返す。
「あたしって……弱いのかな」
「何だどうした?」
「頭なんか全然良くないし……、調子乗って先走ってすぐ怪我するし……」
だんだん頭が下がってきた。
「美烑……」
梓は美烑の頬を包み込んで上を向かせる。
「お兄……ちゃん……ううう、ぐしゅっ……ううう~~~」
美烑の瞳が歪み、あっという間に涙が溜まって零れ落ちた。
「あ~ごめんな。言い方が悪かった。美烑もだいぶ気ぃ滅入ってんだよな」
梓は美烑の頭を胸に抱え込んだ。
そのまま体を摩ったりして美烑を落ち着かせる。
「ごめん……」
しばらくして落ち着いたのか美烑は梓の胸から顔を上げた。まだ涙目ではあったが、今は力を取り戻すこと優先する。
「じゃあとりあえず……、これから美烑に精気を与える」
「は、はいっ!!」
梓と美烑は布団の上に正座して姿勢を正した。
さながら新婚初夜の図である。
「心の準備はできてるよ。……ちょっと恥ずかしいけど」
「待て、何で襦袢に手をかける」
「え?だってするんじゃないの?……着たままするの?」
梓は暫し何を言っているのかわからなそうな顔だったが、ようやく思い至った。
「どうやって?」
「どうやってって……ぽっ」
何かいろいろと想像したようで、美烑は顔を赤面させた後、つーと鼻血を一筋。
「ったく……、たしかに交尾って方法もないわけじゃないが、はっきり言って効率が悪い」
狐が人を化かして精気を摂る上で最もポピュラーな方法で、子供まで作る狐もいるようだが、事前にあれやこれやとせねばならないために効率が悪い。
「あれ?炬香ちゃんを外に出したのはそういう意味で、じゃないの?」
「どこまで好色なんだお前はっ!」
好色……つまりエロいということ。
「……しないの?」
美烑は本気でガッカリしたようで、尻尾も耳もへなりと垂れ下がってしまった。おまけに顔も俯いて、再び泣きそうになる。
「あーなんだ……。今回のこととは別にそのうち……な」
「え……いいの?」
既に涙が溜まり始めた瞳を梓に向ける。
「男に二言はない」
「やたーっ!!!」
諸手を挙げて喜声を上げる美烑は本当に嬉しそうで、見ているだけで幸せになれそうだ。過去のトラウマがあって、梓には一緒に喜べない気持ちがあったのだが。
一頻り布団の上を転げ周り喜びを存分に噛み締めた後で、再び向かい合う。
「それで結局どうするの?」
「あれを使う」
梓が指差したのは美烑神のご本尊……その前に安置されている御神刀だ
御神刀そのものが本尊であったり、本尊を宿す依代であったり、祭のときに用いるただの道具であったり……。場所にもよるが、神社の中ではご本尊の次に徳の高いであろう刀である。
梓は無造作に御神刀の元へと近づいていく。それなりに結界が張られているはずなのだが、梓にはあってなきようなもの。軽く立礼して御神刀を掴み取る。
白木の鞘から引き出された刀身は、行灯の光を反射して七色に光った。
「でもこれ……ただの刀だよ?こんなものを何に……」
「美烑」の名を関されていながら何とも信心の浅いことである。
「こうするんだ……っ」
梓は左手で刀を握り、右手にその刃を当てると勢いよく引いた。
あくまで皮膚を少し破るだけ。腕が落ちる事はもちろん、骨が露出することもない。せいぜい血が流れるくらいのものである。
「ってええええええぇぇっ!?何してるの、お兄ちゃんっ!?」
「吸え」
「はい?」
「この血を吸って精気を摂取、妖気に変えて補充しろ」
「え……あ……」
美烑が流血することで妖気を失うということは、血液の中に妖気が含まれているということである。妖気と対になる生命エネルギーである人間の精気もまた、体を巡る血液に含まれている。
故にその血液を直接取り込むことで精気を効率よく摂取する事ができる。
「そ……そんなことしたらお兄ちゃんが……」
美烑が妖気を失って昏倒したように、人間である梓も精気を失えば当然死ぬ。血液が不足しただけでも人の身体……とりわけ脳があっという間に死んでしまう。
「別に今日一日で回復しろなんて言ってないだろ?お前だっていきなり精気を大量に摂取したら頭おかしくなるぞ」
既に流れ出した後の血を舐めるのと、自ら進んで血を吸い出すのとではその意味するところが全く違うものになる。
酒より強力な、麻薬と呼べるほどの高揚感と満足感……、吸血。
それは味に溺れ、狂い求め……貪り喰らう化け物になるモノが居るほどの甘い毒。
「あ、たしっ、あたしは……、ごめんなさい……、あたしは怖いの」
「大丈夫だ。俺がいる。お前を化け物にはさせない」
「でも……」
梓は再び俯く美烑の頬を両手で抑えて瞳を覗き込む。
「信じろよ。俺はお前の専門家だぞ」
「あう……、うん」
それでも不安なのか耳はへたりと垂れ下がったまま。尻尾も股の間に挟まれている。
梓は震えたまま動かない美烑を左手で抱えて、自身の胡坐の上に乗せた。その目の前にずいっと右手を差し出す。
「あ……」
「大丈夫だ。……そしてすまない。俺に闘う力がないばかりに、お前や炬香にそれを押し付けている」
「そ、そんなことはないよ。今回だってお兄ちゃんが考えてくれたから生き残れたんだよ?」
「そもそも美烑が体調不良になったのは、俺が考えた『伝話』が原因だろう?」
「そ、そうだけど……」
「だから……ごめん。俺達が生き延びるためには、美烑に闘ってもらわなければならない。そして今の弱いお前を戦場に出すわけにはいかない。今の状態で戦いに出れば今度こそあの鎖男に殺される」
「……」
美烑が不安そうに梓に体重を寄せる。
梓はそんな美烑の頭をゆっくり撫でて。
「ごめん」
もう一度謝罪の言葉を口にした。
「お兄ちゃん……、あたし……やってみる」
未だ不安は拭えず、美烑の耳は垂れ下がったままだ。
「でも……約束して。あたしが暴走したら……化け物になったら、お兄ちゃんの手で殺して。お兄ちゃん以外の人間に殺されたくないから」
「おい美烑、縁起でもない事言うなよ。大丈夫だって」
「今回のことだけじゃないの。もしあたしが何かで暴走したら、お兄ちゃんに殺して欲しい。お兄ちゃん以外なんて絶対に嫌……お願い」
美烑の不安は欲に溺れ、暴走し、自らの手で梓を殺してしまうこと。だから、絶対に梓に、他でもない梓に確実に殺して欲しいと願う。
そして梓以外の人間に殺されることも忌避したい。はっきり言って何をされるかわらない。ただ調伏されるだけならいい。封印などされれば、未来永劫、永遠の孤独の中で意識だけが老いていくという絶望を味わうことになる。
梓が居ないというだけで狂おしいほどの絶望だというのに。
そして何より、やっぱり梓が好きだから。好きな人以外に触られたくない。好きな人以外に負けたくない。好きな人以外に自分を害されるなど……。
「……わかった」
「うん……」
美烑は小さく頷いて梓の腕に吸い付いた。
「ん……」
既に半分できていたかさぶたを舌で削ぎ落とし、傷を広げる。
「ぃっ……」
梓が小さく声を上げたが、美烑は止めない。理性の部分で梓が止めるまでは吸うべきだと思っていたし、本能の部分が梓の血を求めて止まないからだ。
「んっ、ちうっ、ぺちゃっ、ちゅうっ……」
既に表面に出てきていた血は舐め終わり、未だ梓の中を流れる血を吸い出しにかかる。
鉄の匂いと生臭さ、そして梓の体温と生気が美烑に流れ込む。
死者の流す血とは違う、甘美にして濃厚な生の味。
「んあっ、んっ、んっ……」
薄暗い部屋に梓が身じろぎする音と美烑が血を吸う音が静かに小さく響く。
美烑が夢中になって吸い始めて5分ほど、梓が美烑の頭をぽんぽんと撫でた。
「んちゅっ……あ……」
「大丈夫か」
「う……あ……」
虚空を泳いでいた美烑の視界に覗きこんだ梓のが移りこむ。しばらく呆けていた美烑の瞳からじわっと涙が溢れてきた。
「ふえっ……ふっ、あっ、あぁぁぁぁぁ」
「うわっ……美烑?……あ~、怖かったか」
「ふっ、ふっ、ふうううううう」
美烑は梓の声に頷いた後、涙声を抑えようと歯を食いしばる。
「あたっ、あたしっ、……今何も……、何も考えられなかった。お兄ちゃんのことも、ただ血を吸い出せればって……、あたし……」
再び震えだした美烑をぎゅっと抱きしめてから、くいっと顔を上に向ける。
「大丈夫だ。さっきの状態を恐怖できるお前は化け物なんかじゃない」
「でもっ、あたし……」
「ごめんな、怖がらせて……んっ」
「んっ?んん……んあ……」
梓は途中で言葉を止めて、美烑の口を塞ぐ。いつもの精気を送り込むような濃厚な接吻ではなく、ただ美烑を落ち着かせるためのキス。美烑も無意識に瞳を閉じた。
口を離した後も二人はしばらく無言で抱き合っていた。
そして美烑がぽつりと呟いた。
「ごめんなさい」
「いや俺が無理させたのが悪かった」
「そうじゃないの……。お兄ちゃんの血を吸ったとき、お兄ちゃんの知識……記憶が頭に入ってきて、その……」
梓の手がぴくりと硬直した。美烑は怒ったと思ったのか、途中で言葉を止めた。それでも言わなくちゃいけないと思い直して言葉を紡ぐ。
「お兄ちゃんの家族は……お兄ちゃんのお父さんと、お母さん、……それにお姉ちゃんは人間に殺されたんだね」
はっきりと告げた美烑の声は梓の脳にこびりつき、暗い記憶を呼び覚ます。
父を庇った母が殺され、その父も別の人間に殺された。そして絶対に軒下から出てくるなと言った姉は庭に討ち捨てられていた。
痛くて、悲しくて、寂しくて、そして悔しくて……、自分の非力を味わって、全てを失った……記憶。
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
体を震わす梓の瞳から一滴、涙が零れた。そして美烑もまた涙を流す。瞳を閉じて、嗚咽はもらすまいと歯をくいしばって。
2人で静かに涙を流した。
「もう10年以上前の話だよ。10年ってのは、お前にとってはついこの前なのかもしれないけど、俺にとってははるかに昔だ。
うちに盗賊が入ったんだ。その時家族が殺された。姉ちゃんに守られた俺1人を除いてな。親戚連中はみんな知らん顔。あちこち仕事探して、いろんなことやって、最終的に当時陰陽寮に仕えてた役人の下働きとして生活するようになったんだ」
「お兄ちゃんの風水の知識はその時覚えたんだね」
梓はああ、と呟いて美烑を抱きしめた。美烑も梓を抱きしめて頭を撫でる。奇しくもかつて梓の姉がそうしていたように。
しばし抱き合って。
「ありがとう」
「大丈夫……なの?」
「ああ、悪ぃな。みっともない所を……」
「そんなことないよ。あたしは、お兄ちゃんの弱い所をもっと見たい。もっと見せて欲しい。強いお兄ちゃんだけじゃなくて弱いお兄ちゃんも好きになりたいから」
美烑はじっと梓の目を見つめて宣言した。特に照れる様子はなく、至極当たり前のことを言ってるんだ、という顔で。
「恥ずかし気もなくそういうことを……、だいたい美烑の方が強いだろうが。俺はそんなに強くないだろ?」
「別に戦闘力のことを言ってるんじゃないよ。……わかってるくせに。あたしや炬香ちゃんが泣きそうだったり、寂しそうだったりしたら慰めてくれたり、もう勝てないかもって思ってもちゃんと考えて勝てる策を教えてくれたり……、えっとそれから……。
とにかくっ!そういう事全部だよ。ここにこうして居てくれるだけでいいんだよ」
興奮して多少赤くはなっているもののやはり照れた様子もなく美烑はまくしたてた。梓のほうが赤面してまともに美烑の顔を見れない。
「(さっきからコイツにずっと好きって言い続けているような気がするんだが……。ほんと、強いな美烑は……)」
「ねえ、お兄ちゃん」
「えっ?」
「どうしたの?……まあいいや。血を吸うのってこれで終わり?」
「んなわけないだろ?多少妖気を回復したかもしれないが、まだまだだ。体の傷すら回復してないだろうに」
梓はそう言って美烑の下っ腹のあたりを指でさすった。
「いったあああぁぁぁっ!」
美烑が悶絶する。
「お前はその状態でどうやって交尾するつもりだったんだ?」
「愛の力は痛みを超えるんだよ」
「お前が一方的に痛いだけじゃねえか」
涙目の美烑を抱きかかえた梓は背後の物音に気がついた。
「さて、大人な会話はここまでかな」
「え?」
「炬香」
「ひゃ……ひゃ~い」
襖の間から中を覗っていた炬香が真っ赤な顔で現れた。目も潤んでいる。
「炬香ちゃん?いつからそこに……」
「なんでお前が気づかないんだよ。この耳は飾りか?うりうり」
梓は美烑の耳を掴んでぐりぐりと回した。
「いやっひゃはははっ、くすぐった……あんっ、そこダメぇっ!……もうっ!耳の中に指入れないでってば!
あたしの耳はお兄ちゃんの声しか聞いてなかったんだもん。仕方ないでしょ」
美烑は耳をぺたんと頭に付け、その上から手で押さえて身を引いた。それでも身体は梓の膝の上に残っている。
「お前はまったく。そんな事ばっかり言ってるから炬香が遠慮して入ってこれなくなるんだよ。この色ボケ狐~」
梓は膝の上を右へ左へ逃げる美烑の頬を捉えて横に引っ張った。
「ふふん、あたしは人を誑かす狐だもんね~。お兄ちゃんも誘惑しちゃうよ~」
美烑は体をくねらせてしなを作った。
「こんな小さな乳房で何言ってんだ~」
美烑は体中くすぐられて布団の上を転げまわる。
「あひゃははは、ひゃひゃはひっ、くすぐった……っ!?いったああぁぁぁ……」
騒いだせいで傷が広がったのか美烑は再び悶絶した。
その間炬香はおろおろと見守るばかりだった。