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幻世 (サトルあや伝3)完結  作者: 光闇居士-Twilight Master


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14/15

エピローグ:春の風と、始まりの座標

挿絵(By みてみん)


彼らの本当の物語は、この満開の桜の木の下から、誰にも知られることなく、静かに幕を開けたのだ。


【しおの】

四月の風が、校門へと続く桜並木を優しく撫で、ピンク色の絨毯をアスファルトの上に広げていく。

 

 すれ違う生徒たちの、弾けるような笑い声。新しい制服の匂い。スクールバッグに付けられたキーホルダーが触れ合う音。

 そこには、人を狂わせる「黄金色のバニラ」の匂いも、特務機関の冷たい銃爪の感触も一切存在しなかった。完璧なまでに平凡で、だからこそ泣きたくなるほどに尊い「青春」という名の日常が、そこには広がっていた。


カジは、校門の手前にある、古びた時計塔の陰で、静かに足を止めた。

現在の彼は、三十代後半。エージェントとして最前線を駆け抜け、次元の狭間を生き延びたその肉体は、かつての青年のような危うさを削ぎ落とし、大人の男としての精悍さと、静かな色気を纏っていた。

仕立ての良い、しかし着古されたダークネイビーのトレンチコート。その広い肩と、微かな傷跡が残る横顔は、登校途中の高校の女子生徒たちが思わず振り返るほどの、深く重い影を落としている。

かつてのサトルとあやのように、今の彼と「彼女」の間には、残酷で、しかし抗いがたいほどの年齢差と、経験の絶対的な断絶があった。


カジの視線の先。

友達と数人で、楽しそうに笑いながら歩いてくる一人の女子高生がいた。


黒曜石のように濡れた、美しい黒髪。

紺色のブレザーに、チェックスカート。スクールバッグを肩にかけ、足元は白いソックスにローファー。

友達の冗談に肩を揺らして笑うその顔には、エージェントとしての「氷の仮面」など微塵もない。感情を殺す訓練も受けておらず、誰かのために血を流す覚悟も知らない、ただ無邪気で、純粋で、希望に満ちた十六歳の少女の姿が、そこにあった。

(……シエ)


カジの胸の奥で、心臓が痛いほどに脈打った。

あの未来の処刑塔で、すべてを犠牲にして微笑んで散っていった彼女の血まみれの顔が、目の前で楽しそうに笑う無垢な少女の顔と重なる。

会いたかった。

狂おしいほどに。その体をもう一度抱きしめ、バニラの匂いではなく、彼女自身の髪の匂いを胸いっぱいに吸い込みたかった。


だが、カジはその場から動かなかった。

自分が彼女に接触すれば、それは特務機関の因果律ループを再び起動させることになりかねない。今のシエは、カジを知らない。時空跳躍も、殺し合いも、そしてカジ・オガワという男に抱いたあの重く狂おしい純愛も、すべては「まだ起きていない未来の幻」なのだ。


不意に、強い春風が通学路を吹き抜けた。

歩いていたシエが、風に煽られて髪を押さえる。その拍子に、彼女が教科書に挟んでいた数枚の授業プリントが、ふわりと舞い上がった。

「あ、ちょっと待って……!」

シエが慌てて立ち止まり、風に乗って桜の花びらと共に転がっていく紙片を追いかけた。


その一枚が、カジの足元に滑り落ちた。

カジはゆっくりとしゃがみ込み、その紙片を拾い上げる。そこには、几帳面な文字で、古典の授業のノートが書き込まれていた。

エージェントの無機質な報告書ではない。普通の女の子が書いた、生きた文字。

「あ……すみません、それ」


鈴を転がすような、澄んだ声。

カジが顔を上げると、息を弾ませたシエが、目の前に立っていた。

黒曜石の瞳が、カジの顔を真っ直ぐに見つめている。

カジは、その瞬間、世界から一切の音が消えたように感じた。呼吸すら忘れるほどの、圧倒的な喪失と、圧倒的な救済が同時に彼を貫く。


シエは、目の前の精悍で、どこか近寄りがたい影を纏った大人の男を見上げ、不思議そうに瞬きをした。

見ず知らずの男のはずなのに。

どうしてか、彼のその深く、痛みを抱えたような瞳を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、懐かしくて泣き出したくなるような奇妙な感覚に囚われる。

「……大切にな」


カジは、深く、低く、しかし信じられないほど優しい声でそう言うと、プリントをシエの小さな手にそっと返した。

二人の指先が、ほんの一瞬だけ触れ合う。

シエの肩が、微かに跳ねた。

「あ……ありがとうございます」

シエがペコリと頭を下げて微笑む。

それは、あの日防爆扉の向こうで彼に向けた凄絶な笑顔とは違う、何も知らない少女の、曇りのない晴れやかな笑顔だった。


カジは、その笑顔を目に焼き付けるように一度だけ瞬きをし、ゆっくりと立ち上がった。

これでいい。

俺は、彼女に「カジ」という名前を呼ばれなくてもいい。愛していると泣き叫んでくれなくてもいい。

彼女がこの普通の太陽の下で、普通の恋をして、普通の幸せを手に入れられるのなら。俺は一生、彼女の知らぬ影の中で、この狂った世界から彼女を守り抜く「盾」になる。

それが、三十代になったエージェント・カジが出した、彼なりの最も納得のいく、そして、最も純粋な「愛の答え」だった。

「……いい風だ。気をつけて行きなさい」


カジは、シエに向けて、これまで生きてきた中で一番美しく、穏やかな微笑みを向けた。

大人の男の、すべてを許容し、包み込むようなその極上の微笑みに、シエは思わずドキリとして頬を赤らめ、言葉に詰まった。

「は、はい……あの……!」

シエが何かを言いかける前に、カジは静かに背を向け、桜の花びらが舞う通学路へと歩き出していた。


風に翻るダークネイビーのコートの裾。

シエは、その広く、どこか寂しげな男の背中が人混みに紛れて消えていくのを、胸の鼓動を抑えながらいつまでも見つめていた。

なぜだか、目から一粒、理由のない涙がこぼれ落ちそうになった。

(……いつか、どこかで会ったことがあるのだろうか)


そんな春の幻影のような疑問を抱えながら、シエは自分のプリントを胸に抱きしめ、再び友人たちの待つ校門へと駆けていく。


遠ざかる彼女の足音を背中で聞きながら、カジはコートのポケットに手を突っ込み、少しだけ眩しそうに春の空を見上げた。

胸の奥に焼き付いたバニラの残り香が、春の風に溶けて、どこまでも高く昇っていく。

終わりのない任務と、狂おしい愛の果てに辿り着いた、始まりの場所。


彼らの本当の物語は、この満開の桜の木の下から、誰にも知られることなく、静かに幕を開けたのだ。


(幻指、幻影、幻世、全作 

        ~終わり~)

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