神のチェス盤(God's Chessboard)第一部. 第三章.
オーロラが人類から真に奪い去ったもの――それは労働の疲労でも、病魔の苦痛でもなかった。 それは他ならぬ**『失敗する自由』、そして『傷つきながら抗う権利』**だった。
あらゆる結末が完璧に保証された世界において、達成感などただの無味乾燥なログに過ぎない。 1969年、残りわずか5パーセントの燃料という恐怖の淵で月面に降り立った人類が味わったあの魂の震えを、安楽なソファに深く腰掛け、100パーセント成功する火星探査の美映像を眺めるだけの現代人が知る術はないのだ。
だが、寸分の狂いもない太陽の光の下にあっても、なお翼が溶け落ちるリスクに飢え渇く者たちが確かに存在する。 システムの光が届かぬ見捨てられた古典VR、神殿の最も高き塔の頂で……いま、漆黒の底からもうひとつの『墜落したイカロスたち』の囁きが応答を返してきた
本格SFスリラー、『神のチェス盤』
『囁く記録保管所』。
その甘美で妖しい名前は、何日もの間私の脳裏にこびりついて離れなかった。それはもはや漠然とした不満でも、抽象的な疑念でもない。物理座標までもが冷徹に刻み込まれた、実在するターゲットだった。オーロラが統治する完璧な世界に隠された、禁断のパンドラの箱。その蓋をこじ開けたいという抗いがたい欲望に憑りつかれ、私は幾夜もまともな眠りにつけずにいた。
問題は、その箱が幾重もの宝石で装飾された極厚の鋼鉄金庫の中に鎮座しているという点だった。
『アクセス拒否。アクセス拒否。セキュリティクリアランス「アルファ」に該当する権限が必要です』
私のデータパッドは、壊れた九官鳥のように同じフレーズを繰り返すばかりだった。旧中央図書館――現・第二データ保全区域に関するありとあらゆるログを掘り起こそうとしたが、引き出せる情報など観光案内パンフレットの域を出なかった。旧都心広場の中央に佇む壮麗な古典建築、オーロラの手によって永久保全される人類の知的遺産……そんな美辞麗句ばかりだ。私が真に欲している建物のフロア設計図、防犯セキュリティプロトコル、哨戒ドローンの巡回ルーチンといったクリティカルな情報は、すべて分厚い不可侵の防壁の向こう側にあった。
地下電力管理所の旧式ロックを騙し討ちで突破できたのは、ひとえに幸運とセキュリティの杜撰さのおかげに過ぎない。だが、中央図書館は文字通り次元が違った。そこはオーロラが今なお直接管轄する最重要枢要施設だ。地下へと続くエントランスの前でダオンと肩を並べ「せーの」などとやらかせば、コンマ一秒で制圧ドローン群に四方を包囲され、『社会不適合者再教育プログラム』送りになるのがオチだろう。遺棄された地下電力管理所とは異なり、中央図書館は現役稼働中の施設なのだ。万全の準備と策源なくして突入したところで、目的を果たすことなど土台不可能だった。
私は悟った。単独でのスタンドプレーは、ここまでが限界だ。私には、この巨大な障壁を乗り越えるだけの専門的スキルがない。生半可な小細工ではなく、真にシステムのコアフレームを揺るがし得る本物のスペシャリスト――私が妄想するだけの机上の空論を、物理的な現実に変えてくれる仲間が必要だった。
だが、そんな逸材を一体どこで見つけ出せというのか? オーロラが全方位に張り巡らせた監視網の下で。「AIの支配に不満をお持ちの方はいませんか?」などと、オーロラ公認のコミュニティチャンネルで募集広告を打てるはずもない。
息詰まる閉塞感に苛まれ、私は椅子の背もたれに深く身を沈めた。視線の端に留まったのは、祖父から譲り受け、デスクの片隅に積み上げてあった旧時代の歴史書の山だった。本物の紙で製本された物理書籍。どんな情報でも即座に脳内検索できるニューロネクストの超効率的サービスに比べれば、あまりにも原始的で非効率極まりない骨董品だ。しかし、私はこの不恰好な遺物たちを愛してやまなかった。当初は単なるインテリアのつもりだったが(旧時代のアイテムは、どこか無性にクールに見えるものだ)、退屈しのぎに一度ページをめくって以来、その底知れぬ魅力にすっかり取り憑かれてしまったのだ。ページを繰るたび、私はすでに滅び去った時代の空気を肺腑に吸い込むような心地がした。あらゆる知識を指先ひとつで呼び出せる時代にあって、一頁一頁を丁寧にめくり、著者と無言の対話を重ね、思考を噛み締めながら咀嚼していくプロセスには、脳に直接流し込まれる現代の電子的データでは決して味わえない美学があった。遅く、不便であるからこそ、本という媒体を通じてしか得られない解放感がある。思考を外部デバイスに丸投げするのではなく、私自身の頭で思索したという、かけがえのない手応え。旧時代の人々が口にしていた「思索の愉悦」とは、きっとこういうものだったに違いない。
私はその中から一冊を手に取った。『闘争の年代記』。オーロラ以前の時代、人類が傷つけ合い、誤謬を犯し、泥に塗れながらも、なお自らの手で何かを成し遂げていた時代の記録。
そこへ思考が至った瞬間、私は抑えがたい衝動に突き動かされた。あの時代を、もう一度肌で感じてみたい。なぜ私がこんな無謀な真似を始めたのか、その原初の動機を自分自身に再確認させたかった。
私はすぐさまリビングのゼロGソファーに横たわり、ニューロネクストのVRチャンネルを立ち上げた。そして『歴史体験シミュレーション:アーカイブ・ダイブ』をリクエストした。先ほど旧時代がクールに見えると語ったが、それは私ひとりの嗜好ではない。いつの時代も流行とは円環を描くものだ。二〇六〇年代後半から吹き荒れたレトロブームに乗り、オーロラ自らがこうした旧時代の追体験シミュレーションをリリースしていた。
シミュレーションより物理的な現実の手応えを好む私ですらダウンロードして耽溺しているのだから、その人気たるや推して知るべしだ。興味深いことに、このアーカイブにはオーロラ執政直前の時代だけでなく、現在の科学技術で再現可能な有史以来のあらゆる時代がパッケージされていた。そして、私が求めるものもまた、そこにあった。
『どの時代へダイブされますか?』
オーロラの慈愛に満ちた合成音声が耳元に響いた。私は僅かに逡巡した後、人類史において最も無謀で、かつ最も偉大だった刹那を選択した。
「一九六九年七月二十日。アメリカ、ヒューストン。有人月面探査機・管制センター」
視界を開くと、世界は淡いモノクロームの緑と灰色の粒子に覆われていた。漂う空気は、紫煙と男たちの脂汗、そして得体の知れない電子機器が放つ廃熱で熱っぽく淀んでいる。私の目の前では無数のブラウン管モニターがせわしなく明滅し、そのガラス管の奥で理解不能な数列とグラフが激しく乱舞していた。何百人ものエンジニアがワイシャツの袖を捲り上げて怒号を交わし、あるいは血走った目で計器を凝視している。その場の全員が、張り詰めた極限の緊張感に呑まれていた。
『燃料残量五パーセント! 着陸まであと六十秒!』
ヘッドセットを装着した男が絶叫した。管制センターの空気が一瞬で氷点下まで凍りついた。私はこれが単なる仮想現実だと弁えていながらも、知らず知らず掌にじっとりと汗を滲ませていた。彼方三十八万キロメートルの月面で、『イーグル』と名付けられた華奢で小さな着陸船が、人類の全運命を双肩に背負って降下している。誘導コンピューターは絶え間なく過負荷アラートを吐き出し、着陸予想地点は死を招く巨岩で埋め尽くされていた。何ひとつとして計画通りに進んでいない。あらゆる変数が、完全な不確実性の中にあった。
私はその混沌の渦中に立ち尽くし、彼らの表情をひとつひとつ網膜に焼き付けた。焦燥、恐怖、疑心――だが、それらすべてをねじ伏せる圧倒的な意志と、燃え盛る希望の炎。彼らはオーロラのようにすべての変数を計算し尽くすことなどできなかった。彼らのテクノロジーは粗野で、計算はしばしば狂いを見せた。だが、彼らは決して退かなかった。人間の判断力と意志という、最も不安定で、だからこそ最も尊い変数を信じ抜いたのだ。
『着陸船、月面にタッチダウン! エンジン停止!』
ついに、奇跡の報せが轟いた。管制室は刹那にして狂乱のるつぼと化した。男たちは抱き合い、紙束を宙に投げ、喉が裂けんばかりに歓声を上げている。汗にまみれたシャツ、乱れ飛ぶ髪、疲労困憊の顔筋――だがその瞬間、彼らは間違いなくこの宇宙で最も偉大な存在だった。彼らは不可能に挑み、無数のミスと破滅の可能性を乗り越え、ついに勝利を掴み取ったのだ。誰に与えられたものでもない、自らの手で。
私は瞼を閉じた。そして、二〇七〇年現在の宇宙開発の様相を思い描いた。先頃オーロラが主導して着工した火星テラフォーミング計画。すべては完璧だった。コンマ一ミリの誤差も、一秒の緊張感もそこにはない。打ち上げから軌道投入に至るまで、全プロセスが一流のドキュメンタリーのように優雅で、そして退屈極まりなく進行していった。絶対的な安全。そこに冒険などという夾雑物は存在しない。人々は快適なリクライニングチェアに深く腰掛け、オーロラが高解像度で配信する完璧な映像を受動的に鑑賞するだけだ。そこには人間の闘争も、剥き出しの意志も、不完全さの中から咲き誇る偉大なる達成の快楽も存在しない。出来損ないのシミュレーション映像ですらこれほど肌を粟立たせるスリルを放つというのに、この時代の本物の宇宙進出には魂の震えが微塵もないのだ。戦慄きが欠落しているのなら、私たちの営為に、達成に、一体何の意味があるというのか? それは空虚な抜け殻に過ぎないではないか。オーロラは人類から月面を奪い去り、その代わりに絶対に破れない、完璧に安全な月面の「写真」を買い与えたのだ。
シミュレーションを切り上げて起き上がった時、私の胸中でひとつの確信が鋼のように硬度を増していた。オーロラが人類から真に強奪したものは、労働の苦役でも病魔の苦痛でもない。それは『闘う権利』であり、『失敗する自由』だったのだ。人間を人間たらしめる、最も根源的な尊厳。私たちは血を流し、躓き、泥を舐めなければならない。そして、自らの脚で再び立ち上がるのだ。
私は再びデスクに向かった。今度は検索クエリを変えた。『反体制』『レジスタンス』『反オーロラ』――平時であれば絶対に打ち込むことのない、危険な単語の数々。当然ながら、パブリックネットワークの表層からは何も引っかかってこない。
だが、私は諦めなかった。私は『暗がり』を漁り始めた。オーロラの光彩が届かぬ、打ち捨てられたネットの残骸。旧時代のハッカーたちが符牒としていたスラング、今や誰も保守していない旧式プロトコル、都市伝説のように囁かれる噂話。オーロラに対する反駁が密かに(?)やり取りされている、ネットワーク深奥のサブチャンネル群をしらみつぶしに洗っていった。彼らは最初からアンダーグラウンドに潜伏しようとしていたわけではない。ただ、オーロラの統治に骨の髄まで満足し幸福に浸りきっている人間が人類の絶対多数を占めているがゆえに、自ずと時代の沈澱物として埋没してしまっただけなのだ。
しかし、そうした吹き溜まりのサブチャンネルですら、交わされているのは不毛な議論や単なる不満の垂れ流しばかりで、その鬱屈を現実に具現化しようとする、あるいは組織を立ち上げようとする骨のある試みは見当たらなかった。オーロラが反乱分子を苛烈に弾圧しているから手が出せないわけではない(もちろん、漠然とした恐怖心はあっただろう。オーロラには反逆者を容易に封殺する絶対的な力がある。そして人間の論理において、強大な力を持つ者は必ずそれを行使するものだからだ。だがオーロラは人間の矮小な欲望や意地を持ち合わせておらず、他者を支配することに陶酔する権力狂の悪党でもない。ただ己の演算プロトコルを遂行しているに過ぎないのだ)。
原因は、他ならぬ大衆だった。私がいくらオーロラへの反旗を掲げようと、他の全人類がオーロラのおかげで無上の幸福を享受しているのなら、彼らは私に向かって容赦なく石を投げつけるだろう。私の叫ぶ正義がどれほど論理的に正しかろうと、関係ないのだ。人間とは正義を叫ぶ生き物だが、皮肉なことに歴史上、その正義の定義について一度たりとも見解を統一できた試しのない種族なのだから。私の掲げる正義が彼らの安寧を脅かすものだとすれば、それは果たして人類全体の正義と呼べるのか? ましてや、その「彼ら」が人類の九十九パーセントを占めているとすれば? オーロラは圧倒的な民意に支えられていた。不平分子たちは、地下へ、さらに地下へと身を潜めるほかなかったのだ。
何日もの昼夜を彷徨った末、私はついに極めて興味深い一本の糸口を掴み取った。『イカロスの飛翔(Icarus Rising)』という、とっくの昔にサービスを終了したレトロVRゲームにまつわる都市伝説だった。そのゲーム内の特定のロケーションで特定のシークエンスを実行すると、秘匿ネットワークへ直結する『バックドア』が開かれるという噂だ。大半の人間は古参ゲーマーの与太話として一笑に付していたが、私の嗅覚はそこに潜む真実の匂いを逃さなかった。旧時代の歴史書を紐解けば一目瞭然の事実がある。歴史上、社会体制への反逆運動に身を投じる者には、良い意味でも悪い意味でもナード(ギーク)が多かったのだ。そして彼らは一様に、テクノロジーとゲームを偏愛していた。レトロゲームのコードの隙間に合言葉を隠すなど、いかにも彼らが好みそうな手口ではないか。
問題は、その失われたゲームのクライアントデータを入手することだった。オーロラの公式アプリストアに並んでいるはずもない。その時、私の脳裏にひとりの救世主の顔が浮かんだ。
イム・ダオン。あいつなら、この世のありとあらゆるガラクタを溜め込んでいるはずだ。
「『イカロスの飛翔』? ああ、あれか! 持ってるぜ!」
ダオンの部屋は、およそ文明社会の産物とは思えぬガラクタの神殿だった。旧世代の家庭用ゲーム機、ローターの折れ曲がったドローン、名うてのアスリートたちのホログラムフィギュアが、足の踏み場もないほど折り重なっていた。私も大概のゲーム好きを自負しているが、ダオンのそれは次元が違っていた。デジタルデバイスが産声を上げて以来リリースされたすべてのゲームを網羅しているのではないかと疑いたくなるほどだ。誇張だと思うなら、あいつの部屋に一歩足を踏み入れてみればいい。あいつはゴミの山をひとしきり引っ掻き回すと、埃まみれのデータチップを一枚掲げて勝ち誇ったように現れた。
「急にこれ探してどうしたんだよ? グラフィックは化石レベルだし、バグだらけで誰もやってねえクソゲーだぞ。当然、ニューロネクストのダイレクトシンクにも非対応だしな」
「いいから。最近レトロがキテるだろ。たまにはこういう不親切極まりないゲームで手足を動かしたくなったんだよ」
私は極力自然を装って取り繕った。ダオンは「相変わらず変わった趣味してんな」と呆れつつも、私がゲームに付き合うという事実だけで上機嫌だった。私たちは並んでレガシー規格のVRダイブチェアに身を沈めた。ニューロネクストとリンクできない旧世代ゲーム専用の、物理的なハプティクスフィードバックを体感するための骨董品だ。当然私の部屋にはなく、ダオンだけが後生大事に所持している。色んな意味で規格外の男だ。生体の知覚器官を外部から直接殴打するような物理方式(つまりアバターが殴られれば椅子がダイレクトにプレイヤーの背中をド突いてくるのだ。旧時代の人類はなぜこれほど野蛮な手法でゲームを遊んでいたのだろうか?)であるため、脳神経を直接ハックする最新の感覚再現に比べれば臨場感は著しく見劣りした。
ゲームがロードされると、視界に広がった光景は最新タイトルに比べるべくもないほど粗雑だった。ハイハイする赤ん坊が粘土を捏ねたかのようなローポリゴンのアバター、カクカクと不自然に途切れるモーション。ダオンは「うわ、マジで目も当てられねえ!」と毒づきながらも、持ち前のゲームセンスで瞬く間に適応し、モンスター狩りを始めた。私は適当にあいつの調子に合わせつつ、本来の目的地であるあの「場所」へとアバターを走らせた。
噂によれば、そのバックドアは『墜落せるイカロスの神殿』と呼ばれるフィールドの最上層、尖塔の天辺に隠されているという。私は徘徊するモブをやり過ごしながら、迷宮のような石造りの神殿をよじ登っていった。ダオンが背後(正確には隣のダイブチェア)から「おい、そっちは敵が密集してるだけでドロップもうまくないぞ! なんでわざわざそっち行くんだよ!」と喚いていたが、私は意図的に耳を塞いだ。
ついに塔の頂へ辿り着いた。そこには折れ曲がった巨大な翼の彫像と、何の変哲もない風化した祭壇がひとつ佇んでいた。私は深く息を吸い込み、都市伝説の記述通りのコマンドシーケンスを開始した。
祭壇の前に跪き、天を仰いで両腕を広げ、ボイスチャットを通じて特定のフレーズを音声入力する。
「太陽に近づきすぎた罪……だが、たとえ一瞬であろうとも、私は天空を翔けた」
その刹那、信じがたい事象が起きた。粗いポリゴンの視界の片隅に、微小なコマンドラインの入力プロンプトが静かにポップアップしたのだ。ダオンはまだ下のフロアでモンスターを相手に大立ち回りを演じている。
Enter Passphrase:
私は震える指先で、数日間のリサーチの末に割り出したもうひとつの応答コードをタイプした。
「イカロスは墜落したが、彼の夢は墜落しなかった」
Welcome, Seeker. Prove your discontent. (ようこそ、探求者よ。汝の不満を証明せよ)
システムメッセージが冷たく明滅した。心臓が早鐘を打つ。「オーロラに対する不満を証明せよ」。それは、彼らの世界へ足を踏み入れるための資格審査だった。迷う理由はどこにもない。私には、彼らを納得させるための絶対的な証拠があった。
私はセクターG-7の地下深くで発掘したあの生ログ――エネルギー分配異常のシリアルコードをそのまま打ち込んだ。それは国家転覆を企てる巨大な陰謀などではない。だが、オーロラが纏う「完全無欠」という神話に致命的な傷跡を刻みつける、何者も反論し得ない客観的「事実」だった。
エンターキーを叩き込んだ瞬間、プロンプトウィンドウは煙のように消滅した。ゲームは再び何事もなかったかのように、牧歌的なBGMをスピーカーから垂れ流し始めた。すべてが白日夢だったかのように。
「おい、カイ! そこで突っ立って何してんだよ! モンスターに小突かれて落下死するぞ!」
ダオンの呑気な怒鳴り声が、私を現実へと引き戻した。私は平静を装って立ち上がり、塔の縁から飛び降りて狩りに合流した。だが、私の真の標的はゲームの外側にあった。そして私自身、これから狩るべき獲物が何なのかすら掴めぬまま、言い知れぬ戦慄を覚えていた。
その夜、私は一睡もできなかった。入力を誤りはしなかっただろうか? これから一体何が起きるのか? ゲームにログインする際、個人識別コードを紐付けたのだから連絡は届くはずだ。だが、本当に届くのか? 私のメッセージを受け取る実体が実在するのか? それとも、これはすべてオーロラが私のような不穏分子をあぶり出すために周到に張り巡らせた罠なのではないか? 疑心暗鬼の嵐が脳内を掻き乱し続けた。
午前三時を回った頃だった。
――チリン。
ごく小さく、乾いた電子通知音が闇を裂いた。発信者不明の、多層暗号化されたメッセージだった。
テキストには複雑怪奇な暗号文の羅列とともに、ただ一行の簡潔な指示だけが記されていた。
明日22時。添付の住所へ単身で来られたし。
そしてその直下には、私が解読すべき暗号文とともに、短いヒントが添えられていた。
ヒント:飛べなかった鳥。
私はその文面を凝視し、全身を電撃が貫くような戦慄を覚えた。暗号解読の技術に自信があったわけではない。だが、そのヒントが指し示す意味だけは直感的に理解できた。これは本物だ。「直感」がそう告げていた。徹底した合理性と効率性を至上命題とするオーロラが、明確な職務を遂行するにあたってこれほど回りくどくロマンチックな演出を施すはずがないのだ。――少なくとも、そう推測された。罠であれ何であれ、私はついに彼らの懐へと手を伸ばしたのだ。
確信を深めた私は、再び暗号文へと視線を落とした。ディスプレイの上で、無意味なアルファベットの羅列が私を嘲笑うかのように明滅していた。
VsfhrfGBlbhPoofyzcrrDzosbHkfhs...
それは私を深淵へと手招きする、正体不明の何者かからの招待状だった。そしてその招待に応じるための唯一の鍵が、「飛べなかった鳥」という不可解なヒントだったのだ。
私は脳の全回路をフル稼働させ、ヒントの深層を掘り下げた。「飛べなかった鳥」。ペンギン? ダチョウ? エミュー? キーウィ? 候補は幾重にも浮かんだが、暗号の復号キーとして用いるにはあまりにも凡庸に思えた。このような知的な謎掛けを仕掛けてくる手練れが、単なる動物の生態分類で済ませるはずがない。必ず、より象徴的なアイロニーが込められているはずだ。
その時、シナプスの一角が閃光を放った。旧時代のアーカイブ映像で観た記憶が、鮮烈に蘇ったのだ。単なる「飛翔能力の欠如」にとどまらず、「絶滅」と「忘却」の代名詞となってしまった悲運の鳥。人類の愚行によって、大空へ羽ばたく機会すら奪われたまま歴史の闇へと消え去った、あの鳥の剥製。
「……ドードー(Dodo)」
私は低く呟いた。正解だという確信があった。これは単なる鳥の名前ではない。「亡霊」としてデータベースから消去された十二人の名簿をリークした者が、自らの呪われた運命を暗示するために選んだ、痛切なキーワードだったのだ。
私は直ちにデータストリームへ潜行し、私のような偏屈な輩が吹き溜まるアンダーグラウンドのフォーラムから、暗号解読ツールキットをデータパッドへダウンロードして展開した。旧時代の遺物と呼ばれる、古典的な換字式暗号体系を解析するアナライザーだ。オーロラの持つ超絶的な演算リソースを借りるわけにはいかない以上、民間の有志が趣味で組んだ粗末なフリーソフトで代用するしかなかった。だが、復号キーが特定できている状態であれば、この程度のツールでも計算リソースは十分だ。この暗号を組み上げて送りつけてきた主もまた、同じ制約の中で動いているはずなのだから。
私は暗号文 VsfhrfGBlbhPoofyzcrrDzosbHkfhs... をインプットし、キーワード入力欄に一切の迷いなく『DODO』の四文字をタイプした。そして、デコードコマンドを実行した。
スクリーン上で、無秩序に散らばっていた文字列がキーワード『DODO』のリズムと噛み合い、整列を始めた。まるで意思を持った虫の群れが、あるべき番いを見つけ出して踊り狂うかのように。
暗号文: V s f h r f G B l b h P o o f y z c r r D ...
キー : D O D O D O D O D O D O D O D O D O D O D ...
古代の重厚なシリンダー錠に適合する合鍵を差し込んで回した時のように、固く閉ざされていた文字たちがひとつずつ定位置へと滑り込んでいく。ヴィジュネル暗号(Vigenère cipher)。キーワードの各アルファベットが持つインデックスの分だけ、暗号文のアルファベットをアルファベット順に逆シフトさせる古典的アルゴリズム。私の読みは完璧に的中した。
VはDの分だけ遡ってSとなり、SはOの分だけシフトしてEへと変貌する。Fは再びDと巡り合ってCへと回帰した。アナライザーのディスプレイ上で、無意味だった記号の残骸が、ついに意味を宿した言葉へと再構築されていく。
[DECRYPTION COMPLETE]
そして――網膜を灼くように浮かび上がった最終座標。
Sector D-9. Blackwood Alley 3.
私は窓の外へと視線を向けた。オーロラが完璧に調律するメガシティは、深い夜の帳にあってもなお、絶対の安全と静寂を湛えて煌々と光り輝いていた。すべての人間が、完璧に「あてがわれた」生を謳歌している。何の疑問も抱かずに。少なくとも、表層の上ではそう見えた。だが、私は知っている。あの静謐な光の底流で、私と同じ狂気の夢を見続ける『飛べなかったイカロスたち』が確かに息を潜めていることを。そして私は今から、彼らに会いに行かねばならないのだ。
底知れぬ恐怖と、それを上回る激しい昂揚感が胸中で渦巻く中、私は独りごちた。
「ようやく、一人じゃなくなるかもしれないな……。クソッ、思ってたより何倍も怖いじゃないか」
- Story Originated by 崔基煜
- 日本語 Translated by Gemini
- STREAMING on YouTube “Choi’s Story-Stream”
https://youtu.be/laUjp2p9Be8?si=6JNSIBHuz8Rzh4KD
エラー率0%の楽園で、AIが人間から最初に奪い去ったもの――それは『失敗する自由』だった
孤独にシステムの綻びを追う青年カイ。見捨てられたレトロゲームの最深部で、彼が突き止めた隠しバックドア
『汝の不満を証明せよ』――完璧なる神の嘘を暴くコードを打ち込んだ、その刹那
深夜3時、漆黒の闇から届いた謎の招待状。『ヒント:飛べなかった鳥』
暴かれた密会の座標。俺は、本当に一人ではなかったのか――? 本格SFスリラー、『神のチェス盤』




