28.(最終話)
「なぜ……」
言葉に詰まるマティアスをよそに、エレナは人差し指で斜め前を指し示す。釣られて振り向くと、木立の隙間から丘の頂が望めた。
「あの樫の木のところにいたでしょう? あなただとわかったから、飛び出てきてしまったわ」
「…………」
「この辺りは子供のころに探検したから、土地勘があるの。丘から下りてきたら、ここに出るだろうなって見当が付いたわ」
「…………エレナ」
マティアスが名を呼ぶと、エレナはほんの少し息を呑んだ。それからふわりと微笑む。
「名前を忘れられていなくて安心したわ」
エレナが首を少し傾げた。どこか揶揄うような言い回しがひどく懐かしい。彼女は親しい人にだけ、このような話し方をする。
そのとき、少し離れた場所で一際大きな歓声が上がり、続いて盛大な拍手が湧き起こった。
はっとしたマティアスは、今度は道の向こうに聳える神殿のほうに目を向けた。壁に遮られて中の様子は確かめようがないものの、祝宴の場で何かしら催しを終えたといったところか。楽団が軽快な舞曲を奏で始めた。
神殿の外壁とエレナの顔の間で視線が惑う。
「結婚式……だろう? こんなところにいては……」
「花嫁はフィオナよ。それにほら見て。婚礼衣装ではないでしょう?」
エレナはデイドレスを両手で軽く持ち上げ、広げて見せた。海を思わせる深い青色の生地が揺れる。
「てっきり、君とユリウス殿の挙式だとばかり」
呆気にとられたマティアスは、ただ彼女を見つめた。
「今回はね、正式な婚約を交わす段階で、フィオナと入れ替わったの。もうその頃から、ユリウスとフィオナは互いを好いていたのよね。以前はなぜ気付かなかったのかしら」
「君は……いったいなにを言って……」
彼女の言った内容がすぐには飲み込めず、マティアスはすっかり混乱した。何と返せばいいのかわからなくなる。
「何も言ってくれないのね。あなたったら、学院でもそうだったわ。ぜんぜん私と話してくれなかった。それどころか会うことすら、滅多になかったわよね。私のこと避けていたでしょう?」
「そんなことは……」
「あんな終わり方をしてしまったから、あなたは私と接触しようとしなかったのよね?」
「君は……その……本当に僕のことがわかるんだな?」
エレナは躊躇うことなく、しっかりと頷いた。
「ええ、もちろん。以前のことなら覚えているわ」
学院に入学して間もない頃に、廊下でぶつかりそうになったときをきっかけに、少しずつ記憶の端々が蘇ってきたのだ、とエレナは語った。起こるはずの出来事がなにも起こらず、別の形に変わる度に、記憶はより確かなものとなった。やがて二年生の終わりを迎える頃には、すべてを思い出していたのだという。
足場の修繕に至っては、実は陰で見ていたと明かされて、マティアスはなんとなしに、気が抜けるような感覚を覚えた。
「それなら僕がやっていたことは、なんだったんだろうなあ」
「うーん、無駄なあがき? 骨折り損? 水泡に帰す? それから、独りよがり? かしら」
「辛辣だなあ」
昔と変わらないエレナらしい答えに、思わずといった調子でマティアスは苦笑した。一方で、エレナは少し口を尖らせて、拗ねたような表情を浮かべる。
「それでもね、あなたが望むようにしようとも考えたわ。だから、私からも近づいたりしなかったの。でもね、さっき丘の上にあなたを見つけたとき、やっぱり諦めたくないって思った」
「…………」
返答に窮したマティアスは、困り切った顔になった。その彼との間合いを、エレナは半歩踏み出して、詰める。
「ねえ、マティアス。私はあなたと結婚したいわ」
「せっかくやり直す機会を得たんだ。二度と、君を不幸にしたくないから──」
「幸せにしてくれるつもりがないの?」
「僕は、君をあんな目に遭わせた」
「でも二度とそんなことしないでしょう?」
「そうしないために! そうしないために、君と二度と会うべきではないと思ったんだ! 僕は弱いから、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。だから──」
「弱いのは私もよ。私も変な風に思い込んで、あなたに確かめもせずに、自分から心を閉ざしてしまったもの」
マティアスは、叔母がエレナへ宛てて書いた手紙の存在を思い浮かべていた。おそらくはそれだけではなかったはずだ。思いやりや優しさで覆い隠された誰かの思惑に、誘導されたのかもしれない。
だが、渋面になるマティアスに反して、エレナは妙に挑むような眼差しを向けてくる。
「けれど、同じ過ちを繰り返すつもりはないわ。だからこれからは、二人で一緒に進んでいけないかしら」
彼女の瞳が真剣であるからこそ、マティアスは視線を逸らす。
「僕にはそのような資格などないよ」
「それは私が決めることじゃないかしら」
エレナがきっぱりと言い放つ。思わずマティアスは彼女の顔をじっくりと眺めてしまった。
「……そうかもしれないが……」
「ねえ、マティアス。うちの父がハルフェン家に私との縁談を持ち込んだとき、あなたはなぜだと思った?」
唐突な問いに、マティアスは面食らったように目を丸くした。
「財政難の我が家なら、文句なく受け入れるという見込みだろう? ちょうど僕には婚約者なんていなかったし」
「もう! 違うわ。ぜんぜん違う! その条件なら他にも当てはまる方はいらっしゃったもの。父はね、私に選ばせてくれたの。好きな人に嫁いでいいって」
「好きな人? えっ? 僕?」
想像すらしていなかった内容に、マティアスは心底驚いた。エレナは迷いのない瞳で、まっすぐに彼を見る。
「あなたが手鏡を一緒に探してくれてからずっと、あなたは気になる人だった。それがいつの間にか大好きな人になっていたの」
だからこそ、自分を庇って怪我を負った際は、申し訳なさを覚えつつも、付きっきりで寄り添う口実ができたことを嬉しく思ってしまったのだ。そのように明かしたエレナに、マティアスも当時は役得だと感じていたと認めた。
二人は、自然と顔を見合わせて、小さく笑い合った。
「そうだわ。これ」
ふいにエレナが、提げていたリストレットバッグに手を入れる。取り出した彼女の掌に載っていたのは、見慣れたあの懐中時計だった。
「これを、受け取ってくれる?」
マティアスは最初は躊躇った。だが、意を決して右手を伸ばす。
再び自分の元へと戻ってきた懐中時計を、じっと見下ろす。ずしりとした重みを、掌に感じた。
「ありがとう」
呟く声が擦れた。それでもその言葉には、マティアスの思いが充分に載っている。
「受け取ってくれて嬉しいわ。私はあなたと一緒にいてもいいのよね?」
「ああ、頼むよ。一緒にいてほしい。僕はすべてをやり直したいと願ったけれど、本当は、君ともう一度やり直したかったんだ」
「ええ、今からそうしましょう」
エレナはさらにあと半歩近寄ると、そっとマティアスの袖を引いた。
「私、一つ心残りがあったから、それも叶えられたらと思ってるの」
「心残り?」
「ええ。私たちのあの子を、今度はちゃんと育てられたらいいなって」
その言葉にマティアスは奥歯を強く噛みしめた。しかし、溢れ出る感情を抑えきれずに、両目には涙の粒が浮かぶ。
「あなたの泣き顔を見るのは二度目ね」
エレナは少しつま先立ちになり、マティアスの頬を、両手でそっと包み込んだ。
「けれど、これは前とは違う涙よね?」
彼女はゆっくりと手を離すと、じっと顔を覗き込んできた。
マティアスはエレナを見下ろした。何か言おうと口を開きかけたが、声にならずに閉じる。代わりに力強く頷くと、心からの穏やかな笑顔を浮かべた。
その頬を、温かい涙が一筋、ゆっくりと伝い落ちていった。
了




