表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

1.

 鐘楼の鐘の音が響き渡った。昼休みの終わりを告げられて、教室へ戻る生徒たちが足取りを速める。


 五年間の学校教育が始まってから三週間目。一年生の教室が並ぶ西棟の廊下は、未だにどこか落ち着かない雰囲気に包まれている。窓から差し込む明るい日差しの中を行き交う皆の足取りは軽い。どの生徒も皆、真新しい制服に身を包んでいるが、その制服が馴染んでいるとは言えない者ばかりだ。


 マティアスもまた、教室へ戻る途中だった。新入生の一人として、慣れない環境に戸惑いながらも、徐々に順応してきたところだ。昼休みの間に、友人になったばかりのクラスメイトと校外まで昼食に出かけるくらいには、馴染んできていたといえる。


 だが、戻ってきたところで、選択授業の時間割が変更されたと知らされた。新しい時間割を受け取りに教員室に赴き、そこで鐘が鳴ったので慌てて教室へと急ぎ、それなのに時間割が気になって歩きながら確認した。それが良くなかった。角を曲がったところで、前から歩いてきた女生徒とぶつかりそうになったのだ。


 危ういところでぶつかることはなく、互いに半歩退いて道を譲る。それだけで済めば、互いに詫びの言葉を述べて、その場をすぐに離れたはずだった。


 だが、身を翻したはずみで少女の腕から本が滑り落ちそうになる。それを慌てて押さえ込んで、彼女が前屈みになった拍子に、その胸ポケットから何かが飛び出した。


 マティアスはとっさにそれを両手で受け止めた。縁取りに蔦の模様が彫られた、小さな古い手鏡だった。


 手鏡を見た途端、マティアスは息を飲んだ。


「すみません」


 そう言われて、目の前の少女の顔を見る。マティアスは、今度は身動きできなくなった。


 それは、とてもよく見知った顔だったのだ。


 黙り込んで凝視すると、少女はわずかに首を傾げる。マティアスは不審に思われていると察し、慌てて手鏡を手渡した。


「ごめん、あ、いや、ぶつかりそうになって、その、余所見してたから」


 しどろもどろになるマティアスに、少女は微笑み返した。


「こちらこそごめんなさい。これ、ありがとうございます。おかげで落とさずに済みました」


 なにも言えず、目を離すこともできず、マティアスは少女を見つめて、ただ立ち尽くす。


 少女は、眉根を寄せてこちらを覗き込むように見てくる。だがそのとき、友人らしき女生徒に名を呼ばれて、そちらに「今、行くね」と返事をした。それからもう一度マティアスに礼を言ってから、足早に去っていった。


 栗色の長い髪が揺れる後ろ姿を見送る。


 初対面の少女だ。だが、彼女の名がエレナ・ロシュタールであると知っている。


 ロシュタール伯爵家の長女。ユリウス・クロイツァー侯爵令息の現婚約者。婚約は、家格と両者の事業的な思惑から侯爵家側から提案され、学院入学前に決められていた。卒業次第、ユリウスが婿入りする形で結婚することになっている。エレナの妹とユリウスの兄を含めた四人は幼なじみだ。姉妹は瞳の色が違うだけで、容姿はよく似ている。


 それ以外もよく知っている。


 彼女がミルクティーを愛飲していたこと、ナッツ入りクッキーが好きなこと、セロリは食べるのに、なぜかキュウリが嫌いなことも知っている。刺繍や絵画の才能は壊滅的だが、ガーデニングでは率先して動く。音楽と読書を好み、それを慈善活動に上手く生かしていた。


 小首を傾げて笑う。柔らかい声で話す。だが、困ったときにはほんの少し眉を寄せ、拗ねると子供っぽく口をとがらすなど、そんな令嬢らしからぬ癖があった。


 それだけではない。父親は彼女のことを溺愛しているが、気が弱い上に婿である立場から、自分の妻に頭が上がらない。母親はひどく自尊心が高く、恋人がいた伯爵を強引に自分の婿に据えた。そんなことも詳細に承知していた。


 なにしろ彼女は、マティアスが心から愛した、それなのにひどい言葉を投げつけて、むざむざと死なせてしまった()、なのだから。


 人の波に飲まれて、エレナの姿は見えなくなった。


 マティアスはしばらくその場から動けずにいた。


 その後、通りかかった教師に声を掛けられて、マティアスは教室に入り、席に着き、授業を受けた。だが、帰宅して自室に入るまで、彼はずっと上の空だった。


 いや、自室でも机の前に座って復習しようと試みたところで、気もそぞろで集中できないままだ。ふと気付けば、過去の記憶が次々と浮かび上がり、頭の中を占拠してしまう。諦めてベッドに寝転がった。


 唐突に昔の記憶が引き出されたのは、エレナと出会ったからなのだろうか。それとも、エレナと出会ったあの瞬間が、自分の回帰点ということだろうか。マティアスにその答えはわからない。


 わかるのは、自分が八十歳半ばまで生きながらえて老衰で死に、気付けば十五歳に戻っていた、ということだ。


 起き上がり、もう一度机に向かい、ペンを取る。


 今度は間違えない。間違えてはならない。マティアスは、そう自分に言い聞かせてから、思い出せる限りの過去をノートに書き記していった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ