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ある漁師の物語

ーーイピサ=ガモニケ暦 409年

レクサンド地方 ファロス島ーー


 今は昔、魚()りの(おきな)という者がいた。海原に()ぎ出しては魚を漁り、村の皆に分け与えていた。


 この島が面している海は波も穏やかで、潮の流れの塩梅(あんばい)が良いのか、脂の乗った美味(うま)い魚が漁獲(ぎょかく)できる。


 ここより東方の蒼海(そうかい)は、他に類を見ない潮の流れ方と、空まで届かんばかりの水の壁により、漁が可能な環境ではない。壁と潮の内側にある島国の沿岸部では漁を行っていると聞くが、外側からでは蒼海には近づけない。


 西方のポラスは、日がら嵐と高波が起きる荒天(こうてん)のため、こちら側の海もとても漁に出るなんてことは見込めない。


 翁の生業(なりわい)である漁師は、ある日急に思い立って始めたわけではなく、この家で先祖代々受け継がれて来た仕事だ。今となっては真偽(しんぎ)の程は確かではないが、テトマトと呼ばれる時代から続くものらしく、神々もここの魚に舌鼓(したつづみ)を打ったとまことしやかに語られている。太陽神ヘリオスが、自身の力を宿したオーパーツを組み込み、この地に灯台を(つく)ったのは、安心して漁ができるようにとその時代の漁師を護るためだったとか。


「♪七つの~ ♪虹の~」


 翁は今日も一(そう)の小舟を海原へと出し、ご機嫌で歌いながら(かい)を漕いでいる。何の歌かはわからない。


 さて、東方と西方に関する先述の事情がある以上、魔族がダーナ大陸からエデン大陸を襲いに来る際のルートだが、北平洋(ほくへいよう)を通ってジブタル海峡に渡り、今まさに漁に出ているこの海を渡る一本に限定される。


 当然、空からの攻撃という観点で言えば、海に面したここ以外の地方も警戒の必要があるのだが、そこは有翼神人(セラフィム)が上手く対処しているのか、甚大(じんだい)な被害が出たというような話は特段(とくだん)伝わって来ていない。今のところは。


「輝きが~♪」


 振り返ると、小さくなったファロス灯台が見える。良い具合の距離感で沖合(おきあい)に出たと自覚し、翁は歌うのをやめた。


 小舟の後ろ側から(あみ)を引き寄せ、風の音を聴く。ミサゴやアジサシ、同種の鳥類の群れを探し、波の色を()る。こうやって漁場(ぎょじょう)に成り得る場所を絞り込み、ある程度アタリをつけてから網を投げ入れるのだ。


「ん?」


 さあ網を投じようとしたその時、波の色が変わった。魚群のそれとは異なり、ひと回り大きな生物の接近を彷彿(ほうふつ)とさせる。


 みるみる大きくなった影は、あっという間に水面(みなも)を突き破り、勢いそのままに空中へと(おど)り出た。


ザバーン!


「お、お前は!」


 どうやら翁にとっては既知の存在のようだ。声色も少し明るい。予期せぬ事態に驚いたというよりは、思いがけぬ再会を喜んだという方が適当と言えよう。


「大変ダ!」


 久しぶりの邂逅(かいこう)を味わう間すら惜しみ、海上に現れた水棲生物は人間の言葉で訴えかけた。


「なんだ~ いきなりだな。」


 翁からしても、もうちょっと言葉のラリーが発生するものだと予想していたらしい。


「なに焦ってんのよ。」


グブ…… グブ……


 (エラ)呼吸から肺呼吸への切り替えが追い付いていない。魚鱗(ぎょりん)で覆われた両頬に空いた穴が、(せわ)しく開閉する。(あぶく)を浮かべながら。


「落ち着け、マツヤ! ちゃんと聞くって。」


グブブ……


 翁に(なだ)めすかされ、呼吸の穏やかさを取り戻した男人魚(マーマン)は、翁にはマツヤと呼ばれている。後世においては、当たり前のように水棲族と他種族が交流しているが、その(いしずえ)を築いたとされるのが何を隠そう彼だ。(いわ)んや、生前の本人が(あず)かり知るところではない。


「もうすぐ、高い波が来るんダ!」


 完全に肺呼吸になり、しっかりとした発声で、マツヤが伝えた。


「こんなに晴れてるのに?」


 マツヤを疑うわけではないが、およそ海が荒れるような天気ではない。


「ここの海はいつも(なぎ)だしさ。」


 蒼海やポラス海峡ならいざ知らず、北平洋は基本的には常に凪だ。それが故に魔族が攻めて来るのだが。


「地震ダ! 地震!」


 なるほど、そうとなれば話は変わってくる。確かに、海底に住む彼らは、地殻変動の類には(がい)して目敏(めざと)い。事実、火山噴火や大地震の際には、陸地に住む種族よりもいち早く危険を察知していた。


「どれぐらい強い?」


 俄然(がぜん)先ほどの発言に説得力が出てきたところで、マツヤが詳細を(たず)ねられ、待ってましたと言わんばかりに即答する。


「こんな大きいの久しぶりダ! 昔の大地震の時みたいダ!」


 水棲族は、総じて人間よりも寿命が長い。恐らく、デ・ロッフェの時代の大地震のことを言っているのだろう。マツヤの注意喚起は、実体験を踏まえた上でのものということだ。


 以前大地震が起きた時は、沿岸部の被害は相当だったと伝え聞く。挫折(ざせつ)感に(さいな)まれながらも、人々はなんとか生活を立て直した。自分たちの苦い経験を学びとし、同じことが起きる未来のために備えた。


 レクサンド地方の沿岸部には、石造りの堤防がある。海岸線を一続(ひとつづき)に結ぶそれは、過去の神々と人々が(のこ)した津波対策だ。未だこの時は津波なんて言葉はなかったのだろうけど。


 件の堤防だが、群を抜いて高いというわけではない。せいぜい多少の高波を防げる程度だ。繰り返しになるが、普段は凪なのだ。堤防自体が基本的に必要とされていない。着目(ちゃくもく)すべきは、高さではなく、この堤防の機能の方だ。


 かつて洪水を防いだ神がいた。残念なことに誤解が生まれ、今やその神は()い神として知られていないのだが、それはまた別の話。


 さて、その神は願った。わざわざ神を呼ばずとも、人々が自力で洪水を防ぐことを。3箇所の台座に宝石を嵌めることで、自らと同じ力が発揮できるオーパーツを創り上げたのだ。たとえ自身がそこにいなくとも。たとえ自身が(ぼっ)した後でも。たとえ自らと同じ時代を生きた人々がその生涯を終えていようとも。


 勇気を示す者に赤い宝石を、知恵を発揮(はっき)する者に青い宝石を、不屈(ふくつ)の精神を有する者に透明の宝石を、それぞれ神が信頼していた三人の人物に宝石が預けられ、その子孫たちが受け継いだ。


 3つの宝石が台座に嵌まると、あの日神が洪水を防ぎ切った力と全く同じ力が石造りの堤防に宿る。


 創造ーー石壁は、天まで高く(そび)え立つ。

 維持ーー石壁は、堅牢(けんろう)性を半永久的に保つ。

 破壊ーー石壁は、迫り来る津波を霧散(むさん)させる。


「わかった! ありがとな!」


 グブグブブ……


 マツヤは、何か返事をしようとしたが、肺呼吸のタイムリミットが訪れてしまった。


「大丈夫だ! あとはなんとかするよ!」


 無理をするなという意味も乗せて、翁は、息継ぎのために波間に消え行くマツヤに言った。


グブ…… ゴゴゴゴゴ……


 マツヤの鰓呼吸の泡の音と入れ替わるように、徐々に音量を上げ、振動音が轟轟(ごうごう)と響く。それが地鳴りなのだと認識するまでに、そうは時間を要さなかった。


「本当に来る! 来やがった!」


 信じていなかったわけではないが、こうして実際に地鳴りの音を聞くと、実感と恐怖が湧いてくる。意図せず出た独り言は、発せられて然るべきものだ。


ダンッ ダンッ


 出来るだけ早く岸に戻るために、目一杯の速さで櫂を漕ぐため、腕を動かす度に固定器具へと櫂が当たる。


ダンッダンッ ダンッダンッ


 翁の焦りに比例して、音と音の間隔が(せば)まって行く。


グエー クァックアー ウミャー


 海鳥たちも騒ぎ出した。いつもは方々(ほうぼう)で狩りをしているが、今は同じところで旋回しながら大きな鳴き声を出して何かを訴えている。


 次第に波が荒れ始める。今頃陸地では、人々も地震について認識し始めたことだろう。まだまだ距離は離れているが、岸辺や堤防周りに人の姿は見えない。避難しているか、揺れが収まるまでジッとしているに違いない。


グオォォォォン!


 奇怪(きかい)な唸り声を上げ、鮫でも人魚でもない巨大な影が海面から現れた。翁は、斜め後方に出現したその存在を視界の端ギリギリで捉えはしたが、今はそれどころではないため、すぐに前へ向き直して再び岸辺を目指す。


ドボオ~ン


 さっきの巨大な何かが海中に飛び込んだ。その結果、ただでさえ荒れ始めていた海面が、より一層暴れ狂う。


「あっ……」


 船体の制御を失い、翁の体が宙に浮く。


 重力に(さか)らい、空中で時間が止まったような感覚に襲われた翁の脳内に、今までのあれやこれやが駆け巡る。『走馬灯(そうまとう)』とは言い()(みょう)だ。物語のダイジェストを一気に流し込まれ、一場面一場面が決まった間隔ごとに切り替わって行くような現象だ。


 大物を釣り上げて喜んだ幼き頃のあの日。


 親友たちとの砂遊び。


 初めての恋。


 祖父から教えられた、堤防の使い方。


 漁のコツを掴んだ瞬間。


 マツヤとの出会い。


 我が子の誕生。


 魔物と呼ばれるものを初めて見た日。


 海上での戦闘と、マツヤへの恩。


 父の死と、今際(いまわ)(きわ)で受け継がれた赤い石。


 釣果(ちょうか)を共有した村人たちの笑顔。


 視界がどんどんぼやけていく。人生の振り返りも、終わりを迎えたようだ。せめて、自分と関わってくれた全ての人が生き残ることだけを願い、覚悟を決めた翁は両目を閉じた。墓場に選んだ海原にその身を預けんと、両手を大きく広げて……


「しっかりするんダ!」


 息継ぎを終え、此度(こたび)はしっかり肺呼吸に切り替えていたマツヤが、翁の体が海面につく前に受け止めて助け出す。


ダムッ ビチャン……


 マツヤは、翁を小舟へと乗せた。


「恩に切るぞ!」


 覚悟して閉じたばかりの両目を開いた翁は、何が起きたのかを理解した。一度ならずとも二度までも、このマーマンは自分の命を救ってくれたのだ。


「早く行けー 行くんダ!」


 再度前方を見据えた翁の両目に、光が灯った。それは意志であり、遺志でもある。


「メイワール! ラナプール!」


 親友たちの名を声の限りに叫ぶ。それぞれ、青い石と透明の石を受け継いだ翁の友だ。


 海辺に未だ人影は見えない。まだそれなりに距離がある。翁の声は届いていないかもしれない。それでも叫ぶことをやめない。


「ラナプール!」


ダンッダンッ ダンッダンッ


「メイワール!」


ダンッダンッ ダンッダンッ


 海面の揺れが収まった。陸地も同じだと見える。おかげで小舟の進む速度は格段に上がった。


 一方で、海岸線から水がひいた事により、いつもなら海に沈んでいる砂地(すなじ)(あら)わになっている。周期的な満潮(まんちょう)干潮(かんちょう)の差はあれど、この潮の引き方は異常だ。陸地に到着するまでに舟を漕ぐ距離が短くなるのは助かるが、長年漁師をしていても見たことのない現象だ。翁の胸が早鐘(はやがね)を打つ。


ダンッダンッ ダンッダンッ


 急いで漕いできた甲斐(かい)もあり、陸地が随分(ずいぶん)と近づいた。


ダンッ ダンッ


 よく見えるようになってきた海岸線に、足取りのおぼつかない村人たちがちらほらと出てきている。ここまで来れば、向こうからもこちらが見えているだろう。


「メイワール! ラナプール!」


 村人たちの中で、明らかにこちらを振り向き、進み出る二人がいる。 


「「エルドール!!」」


 二人は、翁のーー親友の名を同時に叫んで、応えた。


「高い波が来る! マツヤに聞いた!」


ダンッダンッ ダンッダンッ


 長々と説明している猶予(ゆうよ)はない。文字数は少なくとも、最低限の言葉だけで彼らになら伝わる。不漁の日も、大漁の日も、いつも一緒に過ごして来た二人なのだから。


「「「堤防に急ぐぞ!!!」」」


 エルドールが言い終わらずとも、メイワールもラナプールも、彼が今何を成したいのかを汲み取っていた。


シュタタタタタッ


 メイワールは、そのまま海岸線を左方向へ走った。石造りの堤防が続くその先には(みさき)があり、そこに3つの台座の内の1つがある。未だ微かに揺れている地面の影響を感じさせない体幹の強さと脚力で駆ける。首飾りとして肌身離さず持ち歩いている透明の宝石が、胸元で光る。


ダダダダダッ


 ラナプールは、村の外れの船着場(ふなつきば)の方面へと走った。メイワールが向かったのとは逆の右側へ。不安定さが残る足取りを補助するように、時折バランスが崩れそうになる度に杖をつき、疾駆(しっく)を中断せずに済む工夫を()らして。杖の先に埋め込まれた宝石が、青く光る。真っ直ぐに見つめる視点の行先は、船着場横の青の台座だ。


ダンッダンッ


 腕が乳酸でパンパンになりながら、エルドールはやりきった。二人の友は、きっとそれぞれの台座に間に合うだろう。あとは自分の番だ。


ザジャアァァァァ…… カンカラカンッ


 ようやっと岸へと漕ぎ着けたエルドールは、少々乱雑に乗り捨てるようにして小舟から降り、村の中へと入って行く。


「エルドール様、どうぞ!」


 ラナプールの奥方(おくがた)が、木の椀を差し出した。


「ありがとう!」


 なみなみと()がれた飲み水を一息(ひといき)で飲み干し、椀を返す。まるで()りし日の神々の競技大会のようだ。


 奥方が椀を受け取ったかどうかを確認する(いとま)もなく、エルドールは走り抜ける。走りながら、腰につけている革袋から指輪を取り出して嵌める。指輪からは、赤い光が漏れ出ている。


「くそ……間に合うか!?」


 エルドールの(まなこ)が捉えているのは、村の裏側にある丘だ。その丘の中腹辺りに、赤い宝石を嵌める台座がある。まだまだ辿り着くまでには時間が必要だ。


「きゃあぁぁぁ!」


「何だあれ!」


 走り続けるエルドールの後方で、慄然(りつぜん)とした村人たちからの声が上がる。


「逃げた方が良いよ。」


「死にたくない~!」


 この日、彼等(かれら)は初めて津波を見た。まだまだ水平線の向こう側だが、高い波が、いやただ単に"高い"という表現では事足りぬぐらいの波が見えている。神々かはたまた魔族かーー超常的な力を持つ者が水を(あやつ)ったかのような現象は、恐怖を与えるには十二分(じゅうにぶん)だ。


「エルドールが間に合わなかったら?」


 ゆっくりだが確実に、あの高い波は村へと近づいている。


「おい、逃げようぜ!」


「逃げるったってどこに!?」


 恐怖は焦りを生み、焦りは冷静さを奪い、奪われた冷静さは混乱をもたらし、混乱は伝染する。


「くそっ!」


 かくいうエルドールも、(はや)る気持ちを抑えられないでいた。日頃から鍛えているとはいえ、ここまで老体に鞭打って急行してきたツケは確実に回っている。節々が痛むのもそうだが、自分の走る速度が落ちて来ていることも自覚していた。


ザンッ ザンッ


 細かな足運びはもはや叶わず、一歩一歩が重たく(のろ)い。


「このままじゃ……」


 両足が(なまり)のようだ。一歩踏み出すに際して、(もも)を持ち上げるその動作自体がもはや負担へと成り下がっている。


ゴオォォォォォ……


 エルドールの耳にも、その音は届いた。思わず振り返った時に飛び込んだ光景は、およそこの世のものとは思えない恐ろしいものだ。


 迫り来る津波が、全てを()み込もうとしている。その巨大な波は、もうはっきりと見える距離にまで迫っている。ここに到達するまでに呑み込んで来たであろう岩塊や島々の名残、人々の営みの形跡が散見される。


「エルドォォォォォォル!」


 津波の音ではっきりとは聞こえない。


「エルドォォォル!」


 だが、ラナプールも、メイワールも、自分の名を呼んでいる。自分を信じている。なぜだかわからないが、そう感じた。


 鉛のように重くなった足を無理やり引き摺り、もう一度走り出す。否、走っているとは言えない。歩いていると言った方が良いかもしれない程の状態だが、それでも前へと進む。この赤い石をあの台座に嵌めるまでは、諦めるわけにはいかない。


ヴォン!


 小規模な爆発が起きた。


パチ……チリチリチリ……


 その後、(たきぎ)が弾けるような断続的な音を背に、エルドールの前に男が現れた。文字通り、炎を(まと)って。


 その異様な出で立ちは、彼が只の人ではないことを物語っていた。全身を炎に包まれてはいるが、涼しい顔をして立っている。顔は3つあり、手足も6本あるが、腰布(こしぬの)や麻の外套は人間のそれと変わりない。手にしている聖銀と(おぼ)しき細い槍は、これまた明らかに何かの力が宿っていそうではあるが、その先端が真っ直ぐに自分を指しているため、エルドールに思案する余裕はなかった。


「我はアヴァターラ。」


 雅楽(ががく)の音色のような声が響く。この歌声とも取れそうな声色は、三名同時の発声によって織り成されているのだろうか。いや、その(じつ)、三名は一名なのだが。


「シヴァの残滓(ざんし)を追って来たが、なるほど……」


 アヴァターラという名には心当たりがなかったが、シヴァという名は知っていた。一世代前の大地震と高波の話に登場した神の筈だ。


「アヴァターラ様! どうか……」


 迷っている一瞬すらも惜しい。目の前の男は、どう見積もっても、神かそれに類する者だ。ならば、今エルドールが願うことは一つだ。


「……どうか、私に力を!」


 アヴァターラは、自分に話しかける男を見た。見たと言っても、6つある内のただ1つの目ではあったが。別の目は、あらぬ方向の空を。また別の目は、迫り来る津波を。またまた別の目は、村人たちを。


シュインッ


 刹那だった。6つ全ての目がエルドールを見たと同時に、銀色の三叉(さんさ)の槍が光った。


「シヴァの残滓は、そなたにあるようだ。」


 赤い宝石を嵌めた指輪が、三叉槍と同じ色に光り、やがてその光はエルドールの全身を包んだ。


「行け、もう走れる筈だ。」


 エルドールも、自分を包む白銀の光を見た。と同時に、さっきまでの倦怠感が消えて行くのを感じていた。不思議な感覚だ。思わずアヴァターラの顔色を(うかが)うような形で見つめた。


「……行け!」


 アヴァターラが再度そう言ったのを端緒(たんしょ)に、我に立ち返ったエルドールは走り出した。


ザザッ ダダダダッ


 足が羽のように軽い。ついさっきまで鉛のように重かったのが嘘のようだ。


「はっ! はははっ!」


 エルドールは自然と笑った。間に合う。これならば間に合う。


「「エルドオォォォル!」」


 村人たちは奇跡を見ていた。息も絶え絶えで、もう走れない状態だったエルドールが、得体の知れない男とやりとりした後に再び走り出した。しかも、それまでよりも速く。水を得た魚のように。


ゴオォォォォォッ


 津波は、もう入り江にまで迫っている。だが、皆の目には希望が映っていた。


 白銀の光が、流星のような速さで丘を駆け登って行く。皆の希望の光が、(またた)く間に丘の中腹へと着弾する。エルドールの赤い宝石が、遂に目的地へと届いた。


ポオーン…………


 鐘の()とも弦楽器の音とも言えないが、何かの楽器のような音が響いた。岬から透明の、丘からは赤色の、船着場から青色の、光の柱が三本同時に立ち上り、そしてすぐさま消え失せた。


ズゴゴゴゴゴ……


 石の堤防が()り上がる。到達した津波の高さと(きそ)うように、空へと。天へと。


「間に……合った!」


 三名の漁師は、それぞれの場所で宝石を真上へと突き上げた。エルドールは指輪を。メイワールは首輪を。ラナプールは杖を。


「やったぞー!」

「ウオォォォ~」


 歓声がこだました。


 村人たちの中には、涙を流す者や抱き合う者もいる。皆、互いの無事を喜んだ。宝石を受け継いだ三名を(たた)えた。この堤防を授けた神々に感謝した。


ヴォンッ


 アヴァターラと名乗った神は、もうここには用はないのだろう。顕現した時と同じ爆発音を残し、炎と共に消えて行く。去り際に、少し微笑んだような気がした。


「そういえば……」


 大の字になって台座の横で寝そべっていたエルドールは、何かを思い出した。


 自分に不思議な力を与えたあのアヴァターラという神らしき男だが、どこかで見た誰かに似ている気がする。もちろん、アヴァターラに会うのは今回が初めてだ。


「……誰かに似てたんだよな。」


 言い終わると気が抜けたのか、エルドールは瞼を閉じた。襲い来る強烈な眠気に、抗う気はもはやなかった。


バーン! バーン!


 津波が石壁にぶつかる音は、その日の夜半まで響き続けた。エルドールが眠っている間も。


 やがてその音が響く回数も減り、津波の発生も途絶えた頃、ファロス灯台が再び光った。


ヴォンッ


パチパチリ……


 津波に呑まれても崩れなかった灯台は、それでも長い時間海水に漬かっていた。夜間の灯りの源である薪はとうに湿気(しけ)てしまっていた。それなのに、火が燃えたのだ。


「こっちも、おまけだ。」


 楽器の音色のような特徴的な声は、そう言い残して再び消えた。


ヴォンッ


 夜明けまでは数時間、まだまだ(くら)い海中で(うごめ)いていた巨大な影は、灯台の灯りが復旧したのを認めると、深海へと引き下がって行った。


 その後エルドールは、アヴァターラへの感謝を胸に、ファロス灯台の周りを整備した。時折現れるようになった海の魔物から灯台を守るために戦った。もちろん、メイワールもラナプールも彼を手伝った。彼らを慕って集まった村の若者たちも結集し、やがて自警団のような組織が出来上がった。後の"守人"である。


 アヴァターラは何者で、なぜあの時ここを訪れたのか、それはまた別の話。

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