第88話 悪い子とすまき
「菊華……!」
思わぬ場所から現れた菊華に驚き、慌てて駆け寄る。
「危ないじゃないか……! 何してるの!」
「お兄様に会いに行きたいって言ったら、みんな『もう遅いから明日にしなさい』って言うから……」
ベランダづたいに外壁をまわって、窓から入ることを考えたのだと言う。
確かに菊華の言う通り、屋敷の北側にある菊華の部屋と、南側にある俺の部屋は、途中東側にある父の部屋に面したベランダを通ってくれば、外からまわってくることもできなくはないけど……。
だけど、俺の部屋にも菊華の部屋にもベランダはないので、そこを通過する時は外壁の出っ張りの部分を伝ってくるしかない。
「落ちたらどうするんだよ……! 何もなかったからよかったものの……!」
菊華が窓から入ろうとするのを抱き上げて助けてあげながら、もし足を滑らせて2階から落ちていたらと想像して、考えただけでぞっとした。
「だって……」
「……だって何?」
窓から下ろして、そのまま真横にあったベッドに菊華を座らせると、妹に目線を合わせるために床に膝をつく。
「おにいさま……」
「なに?」
たどたどしく、今にも泣き出しそうな顔で言い淀む菊華だったが、こっちだってまだ驚きで心臓がバクバク言ってるからあんまり余裕ないんだよ……! ごめんね、思わず声を荒げちゃって!
とはいえ、少しは気を落ち着けようと静かに深呼吸をしながらじっと菊華の言葉を待っていたら、やがて菊華が躊躇いがちに、少し掠れたようにも聞こえる声でしゃべりだした。
「……みんながね、素敵なお姉様ができてよかったですね、って言うの。これでうちもひと安心ですね、って。それを聞いて私、お姉様を見ても、お姉様も困ったような顔して笑うだけなの」
「…………」
「お姉様、私のお姉様はお姉様だけですよって言ってたのに。何も言ってくれなくて。……お兄様。宮姫様が私のお姉様になるの……?」
瞳を震わせながら、不安げにそう尋ねてくる菊華に、答えあぐねた俺は一瞬言葉を失い。
「……菊華は、宮姫様がお姉様になるのは嫌なの?」
俺の問いかけに、菊華は「わかんない……」と小さくつぶやき、首を左右に振る。
「宮姫様は……、お優しいし、綺麗だし、絵もとっても上手で……。宮姫様のことは大好き。なのに……、みんながさっきみたいに嬉しそうに話しているのを聞くと、なんだかすごくもやもやするの。お兄様……。私、悪い子なのかなあ……?」
そう聞かれて俺は。
一体、なんと答えればよかったのだろう。
かろうじてやっと「……菊華は悪い子じゃないよ」と口にすることができたくらいで。
「本当に悪い子は、自分が悪い子だって思わないもの。菊華は『自分が悪い子かもしれない』って思ったんでしょ?」
「……うん」
「じゃあやっぱり、菊華は悪い子じゃないよ。宮姫様のことも、心の準備ができていなかったからちょっとびっくりしてるだけで、時間が経てばきっともやもやも無くなるよ」
ね? そう思わない? と。
目の前で、静かに流れ落ちていった菊華の頬の涙を手のひらで拭い取ると、「……うん」と、小さな声で菊華がうなづいた。
そうして、ちょうどそのタイミングで、コンコン、と部屋をノックする者がおり――。
「蓮様。頼まれた軽食をお持ちしたのですが」
「あ、はい」
――まずい。
このまま、ドアを開けて部屋に入れると、菊華が中にいるのがバレちゃうんだけど。
いや、俺はいいけど。
疾しいことなんて何もないし。
でもこの子。
みんなに『明日にしろ』って言われたのを強行してここに来てるんだよね?
いっそビシッと叱ってもらうべき?
えー、でも今、すでに落ち込み気味なのに追い打ちかける……?
そんな考えをほんの一瞬の間に巡らせた結果、「出てきちゃダメだよ。大人しくしててね」と菊華に上から《《わさっ》》と布団をかぶせてドアに向かった。
「――蓮様?」
「ごめんなさい、ちょっと……うとうとしてて」
ドアを開け、呼ばれて俺がすぐに出てこなかったことに不思議そうな顔をする女中にそう言うと、「あ、ここで大丈夫。これから集中して勉強しようと思ってたところだから」としれっと嘘をつき、中まで食事を運ぼうとしてくれる彼女を遮った。
そうして、ドアを閉め、軽く息をついてから振り向くと、寝台の上で布団にくるまったまま顔だけ出した菊華が、なんだか物申したげな顔でこっちを見ていた。
いや、なんなのさ菊華ちゃん。
匿ってあげたというのにその態度はさあ……。
「……菊華? 兄様はこれから、ご飯を食べたいんですけど」
「…………」
無視されるし。
そのうえ、そのままくるりと寝返りをうって、こちらに背中を向けてくるし。
………………。
……………………とりあえず食べよ。
なんなの、もー。
いきなり布団を上からおっかぶせたのが気に入らなかったのだろうか?
よくわからないけど、食べてるうちに機嫌も直るだろ、多分……。
食べ終わっても直ってなかったらその時にまた考えようと気を取り直して、ローテーブルにおにぎりとお茶の乗ったお盆を置き、長椅子に腰掛けた。
あ〜……。
やば……、おにぎり沁みる……。
俺さ……。ここで《《おしゃん》》なサンドイッチとかじゃなく、おにぎりを出してくれるからあの料理長と気が合うんだよなあとほんのり思いながらおにぎりを噛み締める。
ちょっと水気の多い米と、おそらく巻く前に軽く炙ってくれたであろう香りのする海苔。
俺のために、火を落とすのを待っていてくれたのか、もしくは落としたのにもう一度入れ直してくれたのかはわからない。
それでも、そんなちょっとしたひと手間に誰かの愛情や想いがこもることを知っているから。
だからあの料理長、なんかオカンみが強くて好きなんだよなあとぼんやりと思いながら咀嚼をしていると。
布団にすまき状態にされているのに飽きたのか、菊華がのそのそと寝台から降りてきて、俺の目の前を横断したかと思ったら本棚から適当な本を抜き取り、そのままこっちに来たかと思うと、人の体を背もたれがわりにしてどっかりと長椅子に座り込んだ。
そうして――、
「……あるところに、スーとジョンジーという、仲の良いふたりの絵描きが住んでいました」
なんだかわからないけど、突然朗読を始めました……。




