【下】
さて諸君、ここから白夜祭がはじまる。眠い者は目を開けなさい。ここからが本題で、少なくとも試験には出る。ああ、寝ている者は起こさなくていい。彼らについては、もう評価を済ませてある。
龍妃様のお言葉に安堵するより早く、王子は空の異変に気づいた。
明るい深夜の空、満月のさらに向こうに、黒い点が浮かんでいた。
鳥かと思った。違う。
雲かと思った。近づいてくる。
龍妃様はそれを見上げ、困ったように、けれどひどく甘やかな顔で笑った。
「うちの人だわ」
その一言で、塔の上の空気が凍った。
龍王が来る。つがいを奪われたと思っているかもしれない龍王が、異世界の果てから、ここへ来る。
怒っているかもしれない。悲しんでいるかもしれない。妻の匂いを追って飛び、途中にあった星々をいくつか弾き飛ばしてきたかもしれない。
龍妃様は王子を振り返った。
「歌い踊りなさい。祭事にしなさい。さもないと、あの人は私を奪われたのだと思うわ。遠くの星から私を招いて楽しませるために呼んだのだと思わせなさい」
王子は一瞬、理解できなかった。龍妃様は続けた。
「乱暴な招きではあったけれど、ここは未開の地。尊き方の招き方を知らなかったと思わせなさい。あの人は楽しいことが好きだから」
国の命運を賭けた助言としては、あまりにも乱暴だった。ほかに道はない。王子は階段を転げ落ちる勢いで塔を降り、鐘を鳴らせと叫んだ。神殿の鐘を。劇場の鐘を。火事でも戦でも婚礼でも葬儀でもない、すべての鐘を鳴らせ。王都中に触れを出せ。今すぐ歌え。踊れ。火を焚け。食べ物を出せ。花を撒け。衣装など何でもいい。祭をしろ。国をあげて、龍妃様をもてなす祭をしろ。
命令を聞いた者の大半は意味が分からなかったが、空の黒点を見て、意味などどうでもよくなった。
龍が来る。たぶん、とても大きい。おそらく、とても怒っている。ならば歌うしかない。人間、理屈が追いつかなくなると案外よく動く。
その数時間で作られた祭は、後世のどの祭よりも格式がなく、切実で、妙に愉快だった。
料理人たちは昼の宴に使うはずだった肉を片っ端から焼き、パン屋は釜に残った生地を全部丸め、菓子職人は飾り用の砂糖花を子どもたちへ配った。
酒蔵は樽を開け、農夫は荷車を舞台にし、劇場の楽師は寝巻きの上に上着だけ羽織って笛を吹いた。
神殿の聖歌隊は途中から歌詞を忘れ、最終的に手拍子担当になった。貴族の娘たちは舞踏会用の羽飾りを頭に刺し、侍女たちは食卓布を腰に巻き、兵士は鎧の上に花布を結んだ。近衛騎士の一人などは、兜の上に葉のついたままの蔦をぐるぐる巻きつけていた。
後の聞き取りによれば、城でメイドをしていた恋人に「花冠では華美すぎます。あなたはこれくらいで十分です」と言われ、その場で無理やり巻かれたものらしい。本人は最後まで不服そうだったが、龍妃様がそれを見て笑ったため、以後、その蔦兜は大変縁起のよい装いとして記録に残ることになった。
この蔦兜については、後世の祭具目録にも載っている。真面目な顔で「白夜祭初期仮装装具」と分類されているので、分類とは時にたいへん暴力的である。
王子は龍妃様に「笑顔が硬いわ」と言われ、引きつった顔で踊った。三歩目で足をもつれさせ、五歩目で転びかけ、七歩目で小さな女の子に手を引かれた。
王妃が吹き出した。王が笑った。大臣が泣きながら太鼓を叩いた。
大人たちは必死だった。笑い、歌い、肉を焼き、花を撒いた。
国が焼かれるかどうかがかかっているのだから、まあ当然である。
子どもたちはただ楽しかった。初めての明るい夜だった。寝なさいと言われない夜で、大人が誰も叱らず、夜の広場を走ってもよく、甘い菓子を二つ食べてもよく、王子の下手な踊りを笑っても怒られない夜だった。
明るい音楽があり、焼けた肉の匂いがあり、病で寝ていた祖父が椅子に座って笑っており、母親の顔色が昨日より明るかった。
魔素祓いの加護のためか、その夜は普段なら騒ぎに乗じて悪事を働く者たちも、なぜか盗みや喧嘩を考えつかなかった。
財布は腰にある。宝石も首にある。祭に夢中な酔っ払いもいる。人混みもある。それなのに、手を伸ばす気がしない。誰かを殴る気も起きない。
今は歌った方がいい気がする。踊った方がいい気がする。隣の見知らぬ人間に焼き菓子を渡した方が、楽しい。そうして民も貴族も、聖職者も兵士も、病み上がりの老人も眠い目を擦る子どもも、同じ広場で輪になった。
龍王が大地に降り立った時、広場の石畳は一瞬だけ波打った。
彼の本来の姿を正しく見た者はいない。黒い山脈に翼が生えていたと語る者もいる。夜空が折り畳まれて獣の形になったと怯える者もいる。
金の目がいくつも開き、そのすべてがただ一人を探していた、と残す記録もある。龍王が発した最初の息だけで、王都のすべての火が横へ倒れた。
人々は凍りついた。歌も笛も、一瞬止まる。広場の中心で、龍妃様だけがのんびりと手を振った。彼女の頭には子どもが編んだ歪な花冠が乗っており、片手には串焼きがあり、足元には王子が転んだ時に落とした羽飾りがあった。龍王の巨大な瞳が細まった。怒りか、困惑か、誰にも分からない。龍妃様は笑って言った。
「私のためにやってくれたのよ」
そのたった一言で、龍王の周囲に渦巻いていた嵐が消えた。信じたのかもしれない。信じることにしたのかもしれない。どちらでもよかった。龍は強く、賢く、誇り高く、つがいの言葉に弱い。最愛の妻が楽しそうなら、それで良しとされた。
龍王はしばらく沈黙したのち、人の姿を取った。黒い髪、金の瞳、背の高い男である。人の形になっても、人ではない。広場の火は彼を避けるように揺れ、彼が歩くたびに石畳の下の地脈が身を竦めた。
彼は王を見た。王は死を覚悟して膝をついた。龍王は、王冠より先に、鍋をかぶった子どもを見た。その子どもは恐怖で固まっていたが、手には花を握っていた。龍妃様が楽しそうに見ているので、子どもは半泣きでその花を龍王へ投げた。花は龍王の胸に当たり、ぽとりと落ちる。広場中が息を止めて見守った。
龍妃様がしゃがむことなく指先の動きだけで落ちた花を拾い上げ、今度はちゃんと龍王の大きな手のひらに乗せる。まじまじとそれを眺めていたが、龍王は低く喉を鳴らした。
「うちの人、花も好きなの。ほら、笑っているでしょう」
威嚇か激怒だと思われたが、笑ったのだと龍妃様が仰ったので、以後それは笑ったことになっている。
この一文を読むたび、私は記録者の苦労を思う。事実とは何か。龍妃様がそう仰ったなら、それは笑ったのである。歴史学とは、時にそういうものだ。
祭は再び動き出した。龍王は龍妃様に手を引かれて焼き肉を食べ、酒を飲み、楽師にもっと速く弾けと命じた。
王子の踊りを見ると、龍妃様に「あれは何だ」と尋ね、龍妃様が「あなたを歓迎するための由緒ある舞よ」と真顔で嘘をついたため、王子はその場でさらに三度踊ることになった。あまりに下手だったので、龍王はたいそう満足した。
大人たちは最後まで必死だったが、いつしかその必死さも本当の笑いに変わった。国を救われ、国を焼かれず、子どもが笑い、夜が明るい。ならばもう、それは本当に祭であった。
朝になった時、龍王夫妻はいなかった。正確には、いつ帰ったのか誰も見ていない。
龍妃様が最後に残したものは、塔の上に置かれた真珠色の鱗一枚と、王子に囁いた小さな言葉だけだった。
「次からは、呼ぶ前にもう少し考えなさいね」
王子は最大限の礼を取り、ただただ深く頭を下げた。
鱗は国宝となり、召喚の間ではなく白鐘塔に納められた。その年から、白夜祭が始まった。王家と神殿は由来を整え、祭式を定め、歌を作り、踊りを残した。
民のあいだで本当に語り継がれたのは、難しい祭文ではなかった。龍妃様は串焼きがお好きだった。龍王陛下は下手な踊りを面白がられた。子どもが鍋をかぶるのを可愛いと仰られた。
祭の夜には、身分の高い者も低い者も同じ火を囲むこと。明るい深夜には、魔素が空へ帰ること。病人には甘い粥を、子どもには焼き菓子を、旅人には酒を。盗むな。殴るな。泣いている者がいれば手を引け。龍妃様が見ているかもしれないし、龍王陛下が妻の気に入った国を見に来るかもしれない。
そうして一年に一度、深夜の空は明るくなり、地に沈んだ魔素は薄紫の煙となって天へ昇った。龍妃様の言葉通り、それは三百年続いた。
王朝は途中で一度傾き、分家が継いだ。神殿は火事で半分焼け、再建された。国境は押し戻され、また伸びた。
先代聖女たちの遺品は守られ続け、龍妃様の鱗は白夜祭の夜だけ民へ公開された。
王族の男子は成人すると必ず、あの夜の王子の下手な踊りを踊らされた。うまく踊ると縁起が悪いとされ、わざと足をもつれさせる者までいた。
二百年前の王太子は、これが大いに問題になった。彼は生まれついての踊りの名手であり、転ぼうとしても転び方が美しく、足を踏み外してもそれが優雅な転調に見えたのである。練習に立ち会った神官たちは頭を抱え、舞踏教師は「下手に踊る才能がない」と真顔で評した。
結局、本番では目隠しをした婚約者に隣で闇雲に舞ってもらい、その予測不能な動きに巻き込まれる形で、王太子はようやくまともに足をもつれさせた。後世の記録には、この時の舞を「王家史上もっとも美しく、もっとも必死な失敗」と記している。
ここで重要なのは、下手な踊りが単なる笑い話ではなく、王家が龍王夫妻に対して「我々はあなた方を楽しませるために愚かになれます」と示す儀礼であった点である。王威を高めるのではない。王威を少しだけずらす。白夜祭が長く愛された理由は、おそらくそこにある。
鍋をかぶる子どもの仮装も残った。焼き肉には甘い香辛料を塗るようになり、祭の夜に眠る子は逆に「起きなさい」と揺り起こされた。
白夜祭は、恐怖から始まった祭である。三百年のうちに、それは救われた者たちが救われたことを忘れないための、明るく、騒がしく、少し馬鹿馬鹿しい祈りになった。
三百年目の白夜祭の日、古い神官たちは異変に気づいていた。
空が、いつもより暗い。魔素が昇る煙も細い。龍妃様の守護が尽きようとしている。
王は召喚の間を開くべきか迷った。けれど三百年前の記録は、王家の血に深く刻まれている。
異界から尊き方を乱暴に招き、たまたま慈悲深い方であったから国が残った。二度目も許されるとは限らない。
召喚陣は磨かれた。聖銀も流された。火は入れられなかった。
この判断は、当時の王の治世においてもっとも評価されるべきものの一つである。何もしない勇気、というものが政治にはある。召喚陣を開けば救われるかもしれない。だが、また誰かを奪うことになるかもしれない。その躊躇いを、私は弱さではなく成熟と見る。
王は白鐘塔の下に立ち、民とともに歌った。神官は祈り、騎士は松明を掲げ、子どもたちは鍋をかぶって走り回った。
王族の若者は例の下手な踊りを披露し、民に大いに笑われた。笑い声が上がったその時、空から声が降った。
「母から言われて、代わりをつとめに参った」
人々が見上げると、明るさの足りない白夜の空に、ひとりの若者が降りてきていた。髪は龍妃様に似て、夜と銀のあわいに揺れている。
瞳は龍王の金を受け継ぎ、まなざしは人を見ているのに、人だけを見ていない。美しい若者である。人の姿をしているが、影に翼がある。笑みは柔らかいが、背後に星の遠さがある。彼は広場に降り立ち、鍋をかぶった子どもと目が合うと、まず笑った。
「母は、この国の夜更かしを気に入っていた。父は、肉と下手な踊りを覚えている。三百年で終わらせるには少し惜しいそうだ」
王は膝をついた。神官も、騎士も、民も膝をつこうとした。若者は片手を振った。
「頭は好きにせよ。母ほど気にしない。私は末の二十六番目だ。兄姉たちは面倒だと言ったので、私が来た」
その言い方が、あまりにも家の用事を押しつけられた末子のものだったので、広場の端で誰かが小さく笑った。若者はそれを聞き、満足そうに目を細める。
「歌い踊れ。火を焚け。食べ物を出せ。魔素は空へあげてやる。ただし、母が言っていた。救われる者が葬列の顔をしていては、救った者がつまらない。礼を尽くすなら、まず楽しめ、と」
その背に、不可視の翼が広がった。三百年前、龍妃様が広げたものと同じ、地上の風をすくい上げる翼だった。
薄紫の魔素が空へ昇りはじめる。夜が明るくなる。子どもが歓声をあげる。大人がその光景に感激しながら天を仰ぐ。白鐘塔の鱗が、母の返事のように淡く光る。
王は、名を尋ねるべきか迷った。三百年前の大神官が止めた問いである。けれど若者はその迷いを見抜いたように笑い、自分から名乗った。
「私はラーバイン。龍妃の末子、二十六番目の子だ」
広場が静まり返った。
王も、神官も、民も、子どもたちまで黙った。鍋をかぶった子どもが、ずれた鍋を両手で押さえたまま目を丸くしている。
若者はその沈黙に首を傾けた。
「何かおかしな名か」
王は深く頭を下げ、震える声で答えた。
それは、この国の名でございます、と。
若者は少しの間、きょとんとしていた。次に、ああ、と声を漏らした。
そして笑った。
母はこの国の名を覚えていた。父も覚えていた。兄姉たちは面倒だと言ったのではない。きっと知っていたのだ。末の自分がこの国と同じ名を持つことを知っていて、誰もが面倒くさそうな顔をしながら、仕事を押しつけるふりをした。
「なんだ」
若者は、呆れたように空を見上げた。遠い星の向こうにいる家族へ向けるように。
「みんな、これを見せたくてわざと私に譲ったのか」
そう言って笑った顔は、龍妃様にも、龍王にも、少しだけ似ていた。
こうして白夜祭は終わらなかった。
ここが本日の講義の結論である。白夜祭とは、魔素祓いの祭であり、龍妃様への感謝であり、龍王陛下へのもてなしであり、同時に、この国が自分たちの愚かさと幸運を忘れないための記憶装置である。
難しく聞こえる者は、こう覚えておけばよい。肉を焼き、歌い、踊り、子どもを叱らず、下手な舞を笑う。それがこの国にとって、もっとも古い礼儀の一つになったのだ。
龍妃様が壊すのをかわいそうだと言った砂の城は、三百年を越えてなお波打ち際に残り、人々は毎年その城の周りで歌い、踊り、肉を焼き、下手な舞を笑い、空へ魔素を返す。
遠い星の向こうで、龍王は今も妻に弱く、龍妃様は今も人の祭を面白がっている。だからこの国では、白夜の晩に子どもが鍋をかぶって走っても叱ってはならない。尊き方々のご機嫌を取るためという名目で、誰もが少し愚かに、少し優しく、明るい夜を生きる。
龍妃様の末子の名は、ラーバイン。そして、この国の名もまた、ラーバインであった。
ノア・フェルディナン
王立学園祭礼史学講師。五十三歳。平民街の出身ながら、祭礼と民間伝承の研究で頭角を現し、現在は王族も眠気と戦う名物講義を受け持つ。温厚に見えて口は悪く、学生の居眠りを見逃さないが、古い祭具と子どもの絵本には比較的甘い。なお、彼自身も愛妻家であり、恐妻家である。白夜祭初夜に龍王へ花を投げ渡した子どもの末裔であることは控えめに語るが、語り口が控えめなだけで毎年必ず語る。




