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王立学園祭礼史学講師ノア・フェルディナンの講義録 ────白夜祭の成立、または下手な踊りが王家の義務となるまで  作者: もこもこハダカデバネズミ


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1/2

【上】

 魔素とは、神話よりも遠い時代に、英雄に倒された邪神の身体から漏れる腐敗の毒と言われている。それが正しいのかは、いまだ解明されていない。ただ、地の奥から生命を羨み妬むように這い出てくるものが、魔素と呼ばれた。


 ここで注意しておきたいのは、魔素というものが単なる毒物ではなく、信仰、医術、農政、軍事、そして祭礼のすべてに関わる国家的災厄であったという点である。試験ではしばしば「魔素汚染の社会的影響を述べよ」という形で出る。眠そうな者ほど、いま顔を上げておくと得をする。


 魔素は剣の傷とも、火事とも、洪水とも違う。目に見えて家を壊すわけではないし、兵のように門を破って入ってくるわけでもない。


 ただ、そこにあり続ける。


 息を吸えば肺に入り、血へ混じり、骨の奥へ残る。生き物の体は魔素をうまく処理できない。森の奥に棲む古い獣や、山腹で眠る龍の眷属なら、魔素を食い、吐き、角や鱗へ溜め込んで生きられるらしい。人には無理だった。この柔らかい身体は、そういうふうには作られていない。


 最初は咳が出る。眠りが浅くなり、手足の先が冷え、爪の根元に薄紫の筋が走る。白目には花弁に似た染みが浮かび、声がかすれ、食べ物の味が薄くなる。

 朝、目を覚ました時、自分だけ昨日より少し遠い場所へ置いていかれたような気持ちになる。呼ばれても反応が遅れる。皿を落とす。火を消し忘れる。我が子の、親の、友の泣き声に気づくのが遅くなる。


 そこまで進めば、魔素汚染と呼ばれた。深く染まった者は、薬を飲ませても、清めの香を焚いても、聖職者が声を枯らして祈っても、数年のうちに死ぬ。


 魔素は人の暮らしを食い、国を食う。

 畑が痩せ井戸が濁り、子どもの頬から赤みが消える。兵になり得る男手は減る。職人は手元を狂わせ、歌い手は歌詞を忘れ、母親は眠る子の胸に耳を当て鼓動を確認する時間が長くなる。


 この国では、およそ百年に一度、聖女召喚が行われてきた。

 およそ、である。暦の上で百年ごとと決まっていたわけではない。聖女が召喚され、この世界で生き、亡くなる。その死後もしばらく守護が残り、国を抱く。守護が薄れたころ、また次の聖女を招く。


 そうやって国は続いてきた。


 先代の聖女は、二代前の辺境伯に嫁いだ御方である。


 北の荒野に近い、冬になると馬の吐息まで凍る土地で、彼女は長く国境を守った。

 人々は彼女を辺境伯夫人と呼んだ。晩年の記録では、白髪を結い上げた小柄な老婦人として語られているが、召喚されたばかりの肖像を見ると、頬の丸い若い娘の姿をしていた。


 膝上までしかない濃紺の奇妙な下衣と、胸元に白い襟をつけた上衣。首には黒い細布。学士たちはそれを「遠き星の学び舎に属する若き巫女の礼装」と記した。学生であるということだけはわかったのだろう。

 足に履いていたものも、革靴や木靴とはまるで違っていた。白い底に、夜色の布。ずいぶん軽かったらしい。彼女が残した小さな金属の箱は、指先で押すとからくりめいて開き、中から折れた銀の針と乾いた黒い棒が出てくる。何に使うものか、最後まで誰も知らなかった。


 この遺品については、現在も用途をめぐる論文がいくつか出ている。だが、私見を述べれば、用途が不明であること自体に意味がある。異界の品は、理解できないからこそ、当時の人々にとって聖女が本当に遠い場所から来た証拠になったのである。


 彼女を妻に迎えた辺境伯は、無骨な男だった。

 大柄で、口数が少なく、宴の席でも必要なこと以外はほとんど喋らない。親交の深かった当時の王太子は、幼いころからのその鉄面皮をどうにか崩してやろうと意地になり、彼を笑わせるためだけに小さな催しを開いたことさえあった。結果として辺境伯は、その時、生まれて初めて愛想笑いらしきものを見せた。

 鉄面皮なだけで、気の優しい男なのだ。なんとか捻り出した見よう見まねの笑みはあまりに不器用で、見ている側の胸が痛むようなものだったため、王太子は後日、「無理を強いて悪かった」と正式な謝罪文を残している。


 そんな男が、小柄な聖女に対しては驚くほど丁寧に振る舞った。妻を飾り物扱いせず、壊れ物のように遠ざけることもしない。彼女の半歩うしろに立ち、歩幅を合わせ、少しでも風が吹けば外套を出した。彼女が黙って北の荒野を見ていれば、同じように黙って隣にいた。


 二人とも、口数の多い人間ではない。にもかかわらず、辺境伯家には二人が交わした手紙が数千通残されている。

 婚姻前、王都と北の砦に離れていた時期のものもあれば、同じ屋敷で暮らすようになってからのものもある。今も辺境伯家の書庫に保管され、子孫が守っている。

 内容は、政務の相談や戦況の報告に見せかけて、結局は互いの身を案じるものが多い。雪の日には足元を案じ、咳をすれば辛いところはないかと問い、庭に花が咲けば見せたかったと書く。遠征の朝には、帰る場所があることへの感謝が綴られていた。大げさな愛の言葉は少ない。読み進めると、静かな熱が残る。


 妙な話だが、手紙は婚姻前よりも、同じ屋敷に住み、同じ食卓につき、同じ寝台で眠るようになったあとに増えている。

 三人の子どもたちは晩年、その山のような手紙を整理しながら、「屋敷ではお互いによく喋っていたのに、それだけでは足りなかったらしい」と笑ったそうだ。

 朝の挨拶のあとに渡されたもの。昼食に添えられたもの。夜会の前に袖へ忍ばされたもの。一日のうちに数回、言葉では足りない想いの交換が行われていた。


 諸君、ここで笑ってもよい。恋文が多すぎる夫婦というのは、史料整理をする子孫にとっては少々迷惑である。ただし、祭礼史においてはこうした私的な記録が、国家儀礼より雄弁に時代の温度を残す。覚えておくとよい。


 顔を合わせれば話せる距離にいても、二人は言葉を残した。声にすれば照れてしまうことも、紙の上なら書けたのだろう。

 辺境伯夫人となった先代聖女は、北の国境を守った聖女として記録されている。辺境伯家では今も、無骨な当主が生涯をかけて騎士のように愛した、小さな妻として語られる。


 先々代よりさらに前の聖女の遺品には、腰を細く締める骨入りの衣、薔薇色の重い外套、銀糸を編んだ手袋がある。


 彼女は麦穂色の髪と淡い青の瞳を持つ背の高い女で、香草と葡萄酒を好み、王都の舞踏を覚えるのが妙に早かったらしい。

 召喚された夜、迎えに出た当時の王弟は、作法に則って聖女へ傅くはずだった。けれど召喚陣の中央に立つ彼女を見た瞬間、彼は動きを止めた。突然見知らぬ場所へ呼ばれ、知らない人々に囲まれていた聖女もまた、混乱のなかで王弟を見つけると、そこで息を呑んだ。

 しばらく二人は、言葉を忘れたように見つめ合っていた。周囲の祈りも、神官の声も、騎士たちの鎧の音も、その時だけ遠のいたらしい。やがて聖女が、強張っていた肩の力を抜いた。

 王弟もまた、儀礼のためではない、ほとんど初めて見るような顔で微笑んだ。二人のあいだに何が通ったのか、見ていた者には分からなかった。ただ、その場にいた誰もが、これはもう神殿の決める縁では済まない、と悟った。


 後年、二人の婚姻について記した宮廷書記は、「あれは神殿が結んだ縁ではなく、神々が目を離した隙に生まれた火花である」と残している。その場にいた当事者である書記の筆は、少し詩に寄りすぎていた。


 聖女は王弟の妻となったのち、王都の社交界で大いに目立った。

 異界の衣装、色彩、香り、身振り。貴婦人たちはこぞって真似をした。楽師は彼女の故郷の旋律を真似、画家は彼女の瞳の色を出そうとして青の顔料を幾度も作り直した。織物職人は、彼女が好んだ薔薇色を再現するために工房を三日三晩染料の匂いで満たした。

 彼女の到来によって、この国の芸術は一代で百年分進んだ、とまで言われている。さすがに言い過ぎかもしれない。ただ、当時の記録に残る衣装や絵の変化を見る限り、まったくの誇張とも言い切れない。


 彼女は夫を深く愛し、人前では淑やかに微笑む女だった。王弟の耳元にだけ、よく異界の言葉を囁いた。


 ジュ・ヴォゼーム。


 その言葉の意味は、今なお解明されていない。古い記録には「祝福」「祈り」「契約」「夫婦のあいだにのみ交わされる誓言」など、好き勝手な説が並ぶ。

 その言葉を囁く時の聖女はいつも、ひどく甘い顔をしていた。

 学士たちは、意味こそ分からぬまま、一つの結論だけを残している。あれは愛の言葉であった。少なくとも、彼女にとっては。


 なお、この結論は学術的厳密さという点ではかなり危うい。だが、史料を読む時には、厳密であればよいというものでもない。人がどのような顔でその言葉を口にしたか。それを記録者がどう受け取ったか。そこにこそ、時代の感情が残る。


 また別の時代の聖女は、黒檀のように深く艶めいた肌と、細かな縄を無数に垂らしたような髪を持ち、青と金の布を体に巻きつけ、耳と腕に輪を鳴らしていた。


 彼女の笑い声は太鼓に合い、彼女が祈れば南の湿地が清らかな湖になった。

 彼女を迎えたのは、当時の王の甥にあたる若い公子である。血筋も姿も申し分なく、礼法にも武芸にも秀で、民の前では慈悲深い王族として振る舞った。その高潔さには、若さゆえの傲慢が混じっていた。弱き者を守るべきだとは考えている。けれど、その弱き者が泥にまみれ、泣き叫び、礼も知らず、差し出した手にすがりついてくる存在だとまでは、まだよく分かっていなかった。


 聖女は、彼の想像していた清らかな乙女と違った。

 神殿の奥で祈るより先に、裸足で湿地へ入る。嵐の夜に泥水へ沈みかけた子どもを抱き上げ、病人の寝台の横に腰を下ろし、死者を悼む母親の隣で一晩鎮魂の鈴を鳴らした。


 祈りは静かなものばかりではない。彼女にとって祈りは歌であり、足踏みであり、汗であり、笑いであり、時には雷鳴のような怒鳴り声にもなった。

 濁った水を前にすれば膝まで入り、魔素に病んだ村を見れば、誰の制止も聞かずその日のうちに発った。

 公子ははじめ、明らかに引いていたらしい。聖女とは、もっと白い手をして、もっと遠くから民を救うものだと思っていたのだ。


 彼女は誰よりも清廉だった。

 衣が汚れることを嫌わず、名が傷つくことを恐れず、身が危うくなることを数えない。そこに苦しむ者がいるから歩く。理由はそれだけで足りた。

 熱に魘された幼い子の額に手を置く時も、老いた漁師の背をさする時も、盗人として捕らえられた少年に水を飲ませる時も、彼女のまなざしは変わらなかった。

 人を救うとは、救うに値する者を選ぶことではない。そのことを、公子は彼女の背中から教えられた。


 いつしか彼は、聖女の半歩後ろを歩くようになった。はじめは王族としての義務。次に護衛としての責務。最後には、彼自身の望みへ変わった。

 泥道を嫌っていた靴は幾度も履き潰され、飾りの剣は実際に人を守るため抜かれるようになり、民へ向ける微笑みからは、少しずつ演技の薄皮が消えた。

 聖女はそんな彼を見て、よく声を立てて笑った。太鼓に合う、明るい笑い声で。


 二人は婚姻ののちも王都に長く留まらなかった。

 南の湿地、東の鉱山町、西の葡萄畑、北へ向かう街道沿いの小さな祠。聖女が歩くところに公子も歩き、聖女が祈る場所で公子は膝をつき、聖女が民を抱きしめる横で公子は荷を運んだ。

 後世の記録には、彼を「聖女の夫」だけでなく、「聖女の最初の巡礼者」と記すものもある。高潔と傲慢を履き違えていた若い王族は、彼女を愛したことでようやく、本当の高潔とは高みに立つことではなく、膝を汚して誰かの手を取ることなのだと知ったのだ。


 この公子の変化は、白夜祭の理解にも関わる。祭礼とは、清らかな場所に清らかな者だけを集めるものではない。泥を踏み、肉を焼き、泣く者に手を貸し、笑う者を笑わせるものでもある。ここを取り違えると、白夜祭はただの奇祭に見える。実際、奇祭ではあるが、それだけではない。


 なお、ここで紹介した以外にも、歴代聖女については国立図書館に詳しい資料が残されている。

 時間のある者は閲覧申請を出すとよい。もっとも、多くの逸話は諸君らが子どものころ、すでに絵本として読み聞かせられているはずだ。

 『ひめきしセーラとおてんばミラーのかいぞくたいじ!』は今でも版を重ねる名作であるし、『ことのは探偵ミライ』、『機械仕掛けのマリアネッテ』、『大地の娘の緑の手』、『星をなくした乙女と銀のランタン』なども、児童文学としては定番だ。史料として読むには脚色が多いが、民衆が聖女をどう記憶したかを知るには、絵本ほどよい資料もない。子ども向けの本棚には、しばしば大人が読むものより真理に近いものが忍ばされている。


 このあたりは余談に見えるだろうが、余談ではない。祭礼史では、正史より絵本の方が民衆の記憶に近いことがある。次の小課題で触れるので、題名だけでも覚えておくとよい。


 異世界から来る聖女たちは、いつもこの世界の誰にも似ていない。

 国は彼女たちを恐れ、敬い、守り、できる限り愛そうとした。

 王家の血に連なる者の庇護下に入る。多くの場合、それは婚姻という形を取った。それは聖女を王家のものにするためではなく、王家を聖女の盾にするための制度である。


 聖女を侮れば王家を侮ったことになる。

 聖女を傷つければ王家に剣を向けたことになる。

 聖女が望まぬなら夫婦でなくともいい。名ばかりの婚姻でも、守護者としての契約でも、姉弟のような関係でも構わない。

 国のすべてが彼女を守る理由を持たねばならなかった。魔素は分かりやすく命を食う。それを退ける聖女は、なにより尊い存在であった。


 その尊い存在を、再び招かなければならなくなったのは、先代の聖女、二代前の辺境伯夫人が亡くなってから三十年目の春である。


 彼女の守護は、死後も長く国を包んでいた。三十年目にして、ついに薄れはじめる。

 王宮北塔に安置されていた魔素計の銀盤が濁った。神殿の聖水は底に紫の澱を沈め、王都の外れでは、井戸の綱を引くたびに手が痺れる者が出た。辺境では羊が続けて流産し、南の港町では漁師たちが同じ夢を見るようになった。海の底から紫の霧が上がり、死んだはずの母親が浜辺で名を呼ぶ夢だ。


 魔素が、心の柔らかいところに手を伸ばしはじめていた。握り潰すための手が、すぐそこに来ている。


 王と神殿は三日三晩会議を続け、四日目の夜、召喚の間を開いた。そこは王宮の地下深くにありながら、天井だけが空へ抜けている奇妙な部屋である。天井は見えない。星だけが見える。

 雨の日にも雨は落ちず、雪の日にも雪は舞わない。異界へ向けた穴だけが、静かに口を開けている。

 床には百年前、二百年前、三百年前の召喚陣が幾重にも刻まれ、溝には聖銀が流し込まれていた。


 壁には歴代聖女の名と、この世界での生涯が彫られている。泣いて暮らした者もいた。楽しんで暮らした者もいた。王子と恋をした者も、女騎士と生涯を共にした者も、故郷へ帰る方法を探し続けて見つけられず、最後にはこの地の土に眠ることを選んだ者もいた。


 召喚の夜、その遺品はすべて並べられる。呼ぶ側が忘れていないことを示すためだ。

 あなたたちを使い捨てたのではない。あなたたちはこの国の母であり、姉であり、娘であり、友であり、尊き救いであった。異界へ向けてそう示すための、国にできる精一杯の礼である。


 儀式を執り行う召喚士たちは、すでに何人か咳をしていた。大神官の指先にも薄紫の染みがある。王妃は病を隠すために厚く白粉を塗っていたが、目元の翳りまでは隠せていない。

 王子は、召喚された聖女を迎える役目を負っていた。二十二歳。まっすぐ育った若者である。

 幼いころから歴代聖女の記録を読まされ、聖女とは国を救うための道具ではなく、国が生涯をかけて報いるべき恩人だと教えられてきた。

 今代の聖女が望むなら、彼は夫となる。望まぬなら、盾となる。望まれる限りそばにいて、望まれぬなら遠くから守る。そう決めていた。


 何十もの祈りの言葉が召喚の間を満たした時、召喚の火が灯った。召喚の間にいた者は全員、祈りを止めて息を殺す。


 光は白とも青とも金ともつかなかった。

 薄く冷たい光が床から立ちのぼる。

 召喚陣が震え、壁に刻まれた歴代聖女の名が淡く浮かび、国宝として並べられた遺品がかすかに鳴る。

 先代聖女の雲を踏む靴が、誰も触れていないのに一歩ぶん前へ滑った、と後に証言する者もいた。光が細くなり、再開された祈りの声が途切れ、最後の聖銀が音もなく蒸発した時、召喚陣の中央に一人の女性が立っていた。


 その女性の衣装は、どの記録にもなかった。歴代聖女の誰にも似ていない。

 白とも黒とも金とも言い難く、見る角度によって淡く色が変わる衣をまとっていた。布であるはずなのに重さがなく、立っているだけで裾が静かに揺れている。


 肩から胸にかけて、銀の蔓とも水の鎖ともつかぬ飾りが垂れ、小さな石がいくつも留まっていた。

 髪は長く、黒いのに黒一色ではない。青や銀がわずかに混じって見える。

 肌には傷ひとつ、毛穴ひとつ、年齢の影ひとつ見つけられない。なにより目が、人の形をしているのに、人から少し遠かった。瞳の奥に、縦に裂けた光がある。


 彼女は驚かなかった。召喚された者が見せる混乱も、怒りも、怯えもない。

 静かに召喚の間を眺めた。床の陣。壁の名。歴代聖女の遺品。王。王妃。大神官。近衛騎士たちの鎧。最後に、王子へ視線が向く。


 その視線を受けた瞬間、王子は自分が剣も盾も持たない裸の子どもになったように感じた。

 それでも彼は前へ出た。片膝をつき、胸に手を当て、教えられた通りではなく、できる限り心からの言葉を選んだ。


「遠き御方よ。我らの願いに応じ、この地へお越しくださったこと、王家と神殿、そして民の名において深く感謝いたします。どうか、我らに御身を守る栄誉をお与えください」


 声はわずかに震えていた。無礼ではない。誠実で、人の礼としては丁寧に整っていた。


 女性は、ほんの少しだけ首を傾けた。怒った様子はない。侮った顔でもない。小さな子どもが皿を落としたのを見た時のように、あら、という顔をしただけである。

 次の瞬間、鈴を転がすような声で、囁くように、けれど召喚の間の石の継ぎ目にまで届く声で言った。


「……ずが、たかくなくて?」


 その場にいた者たちは全員ひれ伏した。召喚士、聖職者、騎士、大臣、王妃、王、王子。誰一人として例外はない。

 膝をついたのではなく、伏せさせられた。背中に重いものを乗せられたような、頭の上から存在ごと押し潰されるような圧だった。

 鎧が石床に打ちつけられ、杖が転がり、王冠が乾いた音を立てる。

 悲鳴は上がらなかった。声を出すことさえ、許しを得ていない行為に思えた。王子は額を床につけたまま、自分が何を間違えたのか必死に考えた。聖女に向かって頭が高かったのか。いや、片膝はついた。視線も下げた。では何が。考えようとして、理解した。彼女に対する礼では足りない。彼女の背後にいる何かへの礼を欠いたのだ。彼女は一人で立っているように見えて、一人で来たわけではない。

 影のさらに奥に、王国の塔より高く、山より重く、空より古いものがいる。

 それが何であるかは分からない。人の身で測ってよいものではない。その存在に対し、人間の礼で足りると思ってしまったことが誤りであった。


 女性は少し困ったように笑い、指先を軽く動かした。圧が消える。人々は床から顔を上げたが、誰もすぐには立てない。

 彼女は穏やかに言った。


「ごめんなさいね。あなたたちが悪いというほどではないの。私、もう長く、頭を下げられる側にいたものだから。つい」


 つい、で国の中枢がすべて石床に沈んだ。怒る者はいなかった。怒るという発想が出るほど、傲慢な者はここにはいない。


 この時点で召喚された女性を「聖女」と呼ぶべきかどうかについては、学会でも意見が分かれる。

 一般には龍妃様と呼ばれるが、召喚儀礼上は聖女であり、魔素を祓った実績から見ても聖女に分類される。ただし、存在階梯があまりにも違いすぎる。平たく言えば、薬師を呼んだつもりが、救癒院が歩いてきたようなものである。


 諸君、ここは笑うところであると同時に、分類上かなり重要なところである。召喚儀礼によって来た者を制度上どう扱うのか。実態と制度がずれる時、祭礼はたいてい妙な形で後世へ残る。次のテストでこの一文を使うので、覚えていると得ですよ。


 王と大神官は、今度こそ完全に額を床へつけて事情を説明した。

 魔素のこと。人間が魔素を処理できず、魔素汚染になれば数年で死に至ること。

 聖女召喚はおよそ百年に一度であり、聖女が生きているあいだと、その死後数十年ほどは守護が残ること。

 先代の聖女、二代前の辺境伯夫人が亡くなって三十年が経ち、ついに守護が薄れたこと。

 この国では聖女を王家の血筋に連なる者のもとへ嫁がせるが、それは所有ではなく守護のためであり、聖女に国の盾を与えるための制度であること。

 歴代聖女には礼を尽くしたつもりであること。


 足りぬことも、知らずに傷つけたこともあったはずだ。それでも少なくとも、国として彼女たちを軽んじたことはない。


 女性は黙って聞いていた。途中で眉をひそめることも、笑うこともない。床に伏せる王たちの声を聞きながら、壁に刻まれた名を眺めていた。


 しばらくして、彼女は歴代聖女の遺品へ近づいた。先代聖女の奇妙な白襟の衣に指を添え、雲を踏む靴を見て、少し目を細める。

 さらに古い聖女の骨入りの衣を持ち上げ、これは苦しかったでしょうね、と小さく呟いた。黒檀の肌を持つ聖女の金の腕輪を手に取ると、腕輪はかすかに震えた。

 彼女はそれらを、ひとつずつ丁寧に戻した。壊さないように。小さな者たちが宝物として守ってきたものを、指先の力ひとつで砕いてしまわないように。

 召喚の間にいる者たちを見渡し、柔らかく言った。


「礼は尽くしたのね、そう。一生懸命、がんばったの。なら、私が壊すのはかわいそうね」


 幼い子どもが浜辺に作った砂の城を、大人が踏まずに避けてやるような声だった。

 侮りにも聞こえる。慈悲にも聞こえる。彼女にとってこの王国の歴史も、神殿の権威も、王家の血も、国宝も、積み上げた砂の城に等しい。それでも、砂の城を見て笑いながら壊す者ではなかった。かわいそうだから避けてやる。かわいそうだから、助けてやる。その程度の距離に、人の国は置かれていた。


 彼女は名乗らなかった。王が名を尋ねようとした時、大神官が震える手で王の袖を掴んだ。名とは魂の輪郭であり、力あるものにとっては寝所の扉にも等しい。まして彼女は、ただの聖女ではない。

 説明の途中で、彼女は自分が異世界の王、龍王のつがいであることを、夫の帰りが少し遅れていると言うような口調で告げた。

 龍王。龍の王。こちらの世界の龍と同じ存在なのかは分からない。とはいえ、この世界にも龍はいる。山脈の奥で眠る古龍、火山を寝床にする赤龍、海溝の底で潮を数える蒼龍。

 人は龍を災害として恐れ、神に近いものとして敬い、時に国をあげて供物を捧げる。古い言い伝えには、龍は愛妻家であり恐妻家である、と残る。どれほど凶悪な邪龍も、つがいが一吠えすれば尾を丸める。どれほど荒ぶる古龍も、つがいが機嫌を損ねれば三つの山を越えて花を探しに行く。


 龍の怒りは国を焼くが、龍のつがいの不機嫌は龍の怒りを冷やす。

 目の前の女性は、その龍の中の王、龍王のつがいであった。

 かつては純粋に人だったのかもしれない。どこかの世界で普通に生まれ、普通に笑い、普通に名を呼ばれていた娘だったのかもしれない。

 それから数千年、龍王の隣で生きた。龍の時間を分けられ、龍の愛を注がれ、龍の眠りと怒りと喜びのそばにあり続けた。

 人の形をしていても、精神はすでに龍に近い。

 人の命を儚いとは思う。人の努力を愛おしいとも思う。けれど、人と同じ高さでは見ていない。誰も彼女に名を聞かなかった。聞いてはならないと分かった。王宮の者たちは彼女を、今代の聖女ではなく、龍妃様と呼んだ。龍妃様はそれを訂正しない。


「うちの人が迎えに来るまでに終わらせましょう」


 そう言った。


 魔素祓いは、満月の夜に行われた。龍妃様がそう望んだからである。

 王都でもっとも高い白鐘塔へ上る時、彼女は供も護衛も要らないと言ったが、王子は盾役としてついていくことを願い出た。

 龍妃様は彼を見て、今度は面白そうに笑った。


「うちの人は大きいから、踏まれたら死ぬわよ」

「踏まれないようにいたします」


 王子が答えると、龍妃様はそれ以上止めなかった。塔の上から見た国は、ひどく疲れていた。

 遠くの森は灰色に沈み、川は月を映しているのにどこか鈍い。

 病人たちは今日のために家の戸口や広場に運び出され、毛布にくるまって空を見ていた。子どもは母親の腕に抱かれ、老人は聖印を握り、騎士は兜を脱いで胸に当てた。

 祈りの言葉は誰の口にもあったが、声に出せる者は少なかった。

 龍妃様はそれを眺め、ほんの少し目を伏せた。


「ずいぶん吸ってしまったのね。かわいそうに」


 その声は国そのものへ向けられていた。彼女は両腕を広げた。背中には何も見えなかったが、次の瞬間に世界の風向きが変わった。

 地上の風が、上へ流れた。木々の梢がざわめき、川面が細かく震え、家々の煙突から煙が真っ直ぐ天へ伸びる。


 龍妃様の背には不可視の翼があった。目には見えない。確かに、そこに巨大な翼がある。

 城壁より大きく、王都より広く、地上の息をすくい上げる翼が。彼女が一度羽ばたくたび、土の下、井戸の底、病人の肺、古い森の根、鉱山の裂け目、赤子の寝台の下、老人の骨の内側から、魔素が引き剥がされていった。


 見えないはずの魔素が、その時だけ姿を持った。

 薄紫の煙。濡れた布のような帯。水に流した一筋の血。


 それが町中から、野から、山から、川から立ちのぼり、満月へ向かって昇っていく。


 人々は息を呑んだ。魔素が出ていく。肺から、血から、家から、国から、死の匂いが抜けていく。


 病人の咳が止まった。子どもの頬に赤みが戻った。井戸水の紫の澱が消えた。


 塔の上で、龍妃様は満月へ向けて軽く息をはく。たったそれだけで、夜が明けた。太陽が昇ったわけではない。深夜であることは誰もが知っていた。月は空にあり、星もある。けれど空は明るかった。

 影は薄くなり、遠くの山脈まで白く浮かび、王都の瓦が光った。龍妃様は塔の縁に腰かけ、軽い調子で言った。


「風を少し残しておいてあげましょう。三百年くらいは、この日の夜は魔素を空にあげる日になるわ」


 この発言が、後の白夜祭の祭式根拠となる。非常に重要である。そろそろ後ろの席の者は眠いと思うので、あえて言う。この記述は次のテストで必ず出します。三百年、満月、白鐘塔、魔素を空へ返す。最低限この四つは覚えて帰るように。



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