第2話:老兵の剣を置く日
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
窓の外では、満開を迎えた「ヒザクラ」の花びらが、春の突風に煽られて激しく舞い踊っている。
3月28日。ギルドの年度末まで残りわずか数日。ホール内は、冬を越した冒険者たちの喧騒と、旅立ちを控えた者たちのどこか切ない熱気に包まれていた。
「――はい、次の方。あ……」
私は受付の呼び出しベルを鳴らそうとして、カウンターの前に立つ人物を見て指を止めた。
そこにいたのは、灰色の髭を蓄えた小柄な老人だった。
名前はグレン。62歳。Bランクの剣士。私がこのギルドに配属された7年前から、彼は毎日欠かさず、朝一番に依頼ボードの前に立っていた。
「リリアンちゃん、いや、リリアンさん。……今日は依頼を受けに来たんじゃないんだ」
グレンさんは、使い古されて銀文字の剥げた革のライセンス証をカウンターに置いた。
指先がわずかに震えている。
私の脳内にある『冒険者カタログ』が瞬時にデータを展開する。
(グレン・オズボーン。勤続44年。生涯依頼達成数2842件。3年前の冬、雪山での「白狼」討伐の際に腰を痛め、それ以降、依頼の難易度を下げて活動中)
「引退、ですね。年度末の節目に」
私の声は、自分でも驚くほど冷淡に響いた。
年度末の忙しさで神経が昂っているせいだ、と自分に言い聞かせる。ホールにいた数人の冒険者が息を呑み、こちらを非難がましく見つめるのが分かるが、プロの受付嬢に感傷は不要だ。私はすぐさま「引退に伴う諸手続き」の書類を引き出しから取り出した。
「手続きは30分ほどで終わります。まず、ライセンスの返上。それからギルド共済金の還付手続きです。グレンさんの場合、積立期間が40年を超えていますので、一括受領か分割受領かを選べますが……」
「……ああ、そんなに難しいことはわからねえよ。適当にやってくれ」
「『適当』という項目はギルドの規定にありません」
私はあえて厳しい口調で言い、書類にペンを走らせる。
周囲からは「冷てえな」「あんなに世話になったじいさんに向かって」という囁き声が聞こえる。隣の窓口では新人のエリスが、捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。
だが、私は知っている。
グレンさんが先月、馴染みの道具屋で「もう研ぎ直す必要はない」と剣を預けたことを。そして、彼が田舎の孫娘のために、ずっと学費を送り続けていたことも。
「グレンさん、こちらにサインを。分割受領を選択し、受取人をあなた自身と、予備受取人としてお孫さんの『リーナ』さんに設定しておきました。これにより、万が一の際の相続税が15パーセント免除されます」
「えっ……? そんなことまで……」
「それから、これは事務的な勧告です。あなたが以前、ボランティアで手伝っていた街外れの養護施設の菜園ですが、来月――4月から『ギルド推奨の非常勤・施設管理人』として正式な求人が出ます。月額120ゴールド。これに年金を合わせれば、お孫さんに仕送りを続けながら、あなた自身の生活に春の味覚を添える余裕が生まれるはずです」
私は一度も目を合わせず、完璧に整えられた羊皮紙を差し出した。
3月の市場では、名残惜しい冬の根菜と、気の早い春の山菜が並び始めている。グレンさんはフキノトウの天ぷらが好きだ。それも、少し苦みの強い、酒の肴になるようなものが。
「……リリアンさん。あんた、やっぱり……」
「サインを。次の方が待っています」
グレンさんの目に、じわりと涙が浮かぶのが見えた。
彼は震える手で、しかし力強く、その「冒険者としての最後の署名」を終えた。
◇◆◇◆◇
【視点:クラウディア・マルソー】
2階の主任室から、斜めになった午後の光が差し込むホールを見下ろす。
私の手元には、リリアンがさきほど提出してきた『グレン・オズボーン引退処理報告書』がある。
ティーカップから立ち上る紅茶の湯気が、窓の外から入り込んだ沈丁花の香りと混じり合う。3月も終わりが近い。
「……ふふ。本当に、不器用な子ね」
私は思わず独り言を漏らした。
報告書の内容は、一見すれば完璧なまでに「規定通り」だ。
だが、その詳細な特約事項を読み解けば、リリアンがどれほど多くの時間を割いて、グレンさんのための「花道」を設計したかが分かる。
分割受領の利息計算、税控除の申請タイミング、そして「非常勤管理人」の求人案件――あれは本来、4月中旬に公示される予定のものを、リリアンがギルドマスターに掛け合って、グレンさんの引退日に合わせて前倒しさせたものだ。
かつて、私が「金級」の冒険者を引退し、このギルドの窓口に座ることを決めた時のことを思い出す。
あの時、私の手続きをしてくれた当時の主任も、同じように冷たい顔をして、しかし私の足の怪我が一生痛まないような「隠し年金」を組んでくれた。
「リリアンさん、あなたも気づいているのでしょうね。冒険者の人生は、魔物を倒すことだけで終わるわけではないということに」
1階では、リリアンが再び事務的な仮面を被り、年度末の書類を書き間違えた若手冒険者を叱り飛ばしている。
ホールには、食堂のボロスさんが特別に用意した「3月の別れの一杯」である、少し強い酒の香りが漂い始めていた。グレンさんは今頃、その香りに誘われて酒場のカウンターに座っているはずだ。
冒険者が剣を置く日は、彼らにとっての「第2の芽吹き」の季節でもある。
それを誰よりも信じているからこそ、あの子はあんなに厳しく、そして優しく、羊皮紙の上に彼らの未来を綴るのだ。
「さて、私も仕事に戻りましょうか。あの子が無理をして、またアクアマリンのピアスを斜めにする前に」
私は最後の一口の紅茶を飲み干し、受付主任としての微笑みを整えた。
春の嵐が窓を叩き、新しく書き込まれたばかりの書類の束を、名残惜しそうに揺らして通り過ぎていった。
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
業務終了の鐘が鳴る。
私はデスクを片付け、ペン先を丁寧に拭いた。
グレンさんのライセンス証は、今、ギルドの返納箱の中で静かに眠っている。3月が終われば、これらはすべて王都へと送られ、記録へと変わる。
明日になれば、また新しい年度に向けた準備が始まり、新しい物語が始まる。
去っていく者の背中を見送るのは、何度経験しても慣れるものではない。
けれど、彼が最後に漏らした「ありがとう」という掠れた声は、今夜の夕食に並ぶであろう、母から届いたばかりの山菜よりもずっと私の心を温めてくれた。
「リリアン様、お疲れ様です。……お孫さんへの還付金、私のほうで送金予約完了しておきました。4月1日付で」
背後でナネットが静かに告げる。彼女は、私が何も言わなくても、書類の「行間」にある私の意図を完璧に読み取ってくれる。
「助かるわ、ナネット。……さあ、帰りましょう」
私は制服の襟を正し、少しだけ誇らしげな気持ちで、春の嵐が止んだ夜の街へと踏み出した。
【リリアンのプロな流儀】
「冒険の終わりを『物語』にするのは詩人の仕事だが、それを明日へ繋がる『生活』に変えるのが、受付嬢の本当の誇りである」
(第2話:完)
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