第16話:解体所主任ハンスの「職人の目」
◇◆◇◆◇
【視点:サーシャ・ヴォルコフ】
4月の午後の日差しは、ギルドの喧騒をどこか眠たく包み込む。
私は酒場『銀の匙』のカウンターで、銀縁眼鏡を指先でクイッと押し上げた。視線の先は、今日も完璧な姿勢でペンを動かしているリリアンさんだ。
「……ねえ、ハンスさん。昨日もリリアンさん、定時になった瞬間に地下の図書室へ消えていったわよ。アンリさんと2人きりで、一体何を『解読』しているのかしらね」
カウンターの端で、まかないの「厚切りベーコンのグリル」を黙々と食べているハンスさんは、スキンヘッドを光らせて鼻で笑った。
「サーシャ、お前の妄想も大概にしろ。あいつらは地図の等高線がどうとか、古文書のインクがどうとか、色気のない話しかしてねえよ」
「甘いわね、ハンスさん! あの無表情なリリアンさんが、地下室の重い扉を閉めた瞬間に見せる『熱』。あれは禁断の愛が生み出す火花に違いないわ。病弱なインテリ図書係と、鉄の受付嬢……。ああ、これぞ4月の嵐、春の背徳だわ!」
私がトレーを胸に抱いて悶絶していると、ハンスさんは最後の一切れを口に放り込み、無造作に席を立った。
「背徳だか何だか知らねえが、あいつの出す『解体指示書』は、どの色事よりも緻密で、どの戦術書よりも正確だ。……俺にとっては、そっちの方がよっぽど官能的だがな」
ハンスさんはそう言い残して、血と脂の匂いが漂うバックヤードの解体所へと戻っていった。
職人って、本当にロマンがないわね。でも、リリアンさんのあの「鉄の微笑み」の裏に、もっと激しい物語が隠されていることだけは、私のゴシップ・センサーが確信しているの。
◇◆◇◆◇
【視点:ハンス・ギュンター】
解体所は、ギルドで最も「現実」が剥き出しになる場所だ。
今日の獲物は、新人が命からがら持ち帰った『マウンテン・ボア』。300キロを超える巨体だ。
「ハンスさん! リリアンさんに届ける分、この一番いいバラ肉の部位を確保しておきました! 『いつもお疲れ様です』って渡せば、リリアンさんも絶対喜びますよ!」
見習いのトビーが、鼻の下をごしごし擦りながら、脂の乗った肉を切り分けようとする。俺はそいつの頭を拳骨で小突いた。
「バカ野郎。あいつはそんな『色をつけた貢ぎ物』を一番嫌う。指示書通りに、均等に分けろ。……それより、この指示書をよく見ろ」
俺はカウンターから届いたばかりの、リリアン特有の流麗な文字が躍る羊皮紙を広げた。
(指示:バラ肉は150グラムずつに小分けし、食堂へ。皮は鞣し職人の工房へ17時までに納入。牙は鑑定士ジゲンへ回し、残りの骨は肥料用として夕方の定期便に乗せること。……尚、解体作業は3名で分担し、1人あたり45分以内に完了させること。休息を10分挟むのを忘れないように)
トビーは「相変わらず細かいっすね」とぼやいているが、俺は知っている。
この指示は、単なる効率化じゃない。今日、解体所のスタッフが何人いて、誰が腰を痛めていて、誰が新人で、今の解体台の空き状況がどうなっているか……。リリアンは窓口に座ったまま、そのすべてを把握してこの紙を書いてやがる。
現場の「呼吸」を読み、リソースを秒単位で配分し、最少の労力で最大の成果を出す。
この感覚、俺には覚えがある。
(……ただの受付嬢の視点じゃねえ。これは、数万人規模の軍団を動かす軍師か、あるいは生死の境を幾度も越えた伝説級パーティの『羅針盤』の目だ)
かつて俺が前線にいた頃、1人だけいた。
どれほど絶望的な戦況でも、その背中を見れば「自分たちは絶対に死なない」と確信させてくれる、冷徹で、完璧な知性。
リリアン。あんた、本当はどこの修羅場から流れてきたんだ?
俺は砥石で包丁を研ぎながら、解体所の入り口から見えるリリアンの背中を睨んだ。
あいつは、ギルドの事務屋なんかじゃない。この「春風の窓口」という名の巨大な機構を、たった1本のペンで制御している「心臓」そのものだ。
「トビー、手を動かせ。指示書通りのペースだ。1分でも遅れたら、あいつの『カタログ』に、俺たちの無能さが永遠に記録されるぞ」
「ひっ、はい!」
俺たちは、あいつの掌の上で踊っている。
だが、それがこれほど心地よく、誇らしいのはなぜだろうな。
俺は集中すると舌先が出てしまう癖を隠しもせず、完璧な肉の繊維に刃を沈めた。
【リリアンのプロな流儀】
「現場の汗を知らない者の指示は、誰の心にも届かない。正確な書類とは、現場の疲労と明日への活力を計算に入れた『未来の設計図』である。プロの信頼は、言葉ではなく、その完璧な配分によって築かれるのだ」
(第16話:完)
ぜひご感想をお寄せください。
また評価とブックマークもしていただけると嬉しいです!!




