第9話:中央図書館の危うい友情
◇◆◇◆◇
【視点:ユージン・ラクロワ】
3月の終わり、中央図書館の閉架書庫は、冬の冷気と春の湿り気が入り混じった独特の匂いに包まれている。
私は書記官として、新年度に向けた目録の整理に追われていた。そんな私の元へ、1人の男が足音も荒くやってきた。
「ユージン! これを見てくれ。例の『古王国の街道図』の写本、ついに第3部を見つけたぞ!」
現れたのは、私の学生時代からの親友、アンリ・デュプレだ。彼は冒険者ギルドで図書管理の仕事をしており、私とは「稀覯本探索会」という名の、ただの古本好きの集まりを組んでいる仲だ。
「アンリ、静かに。ここは図書館だよ」
「おっと、すまない。だが興奮せずにはいられないんだ。……実はな、これを解読するのを手伝ってくれる『相棒』が職場にいてね。彼女の地図に対する情熱は、もはや変態的……いや、天才的なんだ」
アンリが自慢げに語る「相棒」の話を聞きながら、私の背中に冷たい汗が流れた。
彼が話す「職場の受付嬢」の特徴は、私の恋人、リリアンにあまりにも合致しすぎている。
「彼女、地図の等高線を見ただけで『ここには隠し街道があるわね』なんて呟くんだぞ? 普段は鉄の仮面を被ったような冷徹な受付嬢なのに、地図を前にするとアクアマリンの瞳をキラキラさせて……。あ、そういえば、左耳にいつも綺麗なピアスをしていてね」
……アクアマリンの瞳。左耳のピアス。亜麻色の髪。
物理的な符号は、リリアン本人であることを指し示している。だが、私の知るリリアンは、休日の昼下がりに公園で地図を広げ、「この湾曲した海岸線、素敵だと思わない?」と春風のように微笑む、穏やかで知的な女性だ。
アンリが語る、事務処理の鬼として君臨し、地図の等高線を猛獣のような眼差しで追う「鉄の女」が、リリアンと同一人物であるとは、どうしても結びつかない。
(……いや、まさか。この世にアクアマリンの瞳を持つ女性が2人いたとしても不思議ではない。あるいは、アンリの妄想が彼女を化け物に変えてしまったのか)
印象があまりにも乖離しすぎている。魂の質が違う、と言ってもいい。私は、自分の愛する人がそんな風に恐れられ、熱狂している姿を想像することすら拒絶していた。
「へえ……。君の職場にも、熱心な人がいるんだね。その……『リリアンさん』という人は、どんな性格なんだい?」
「ああ、恐ろしいほど有能だよ。事務処理の鬼さ。だが、地下室で2人きりになると、僕もたじたじになるくらいの知識量で攻めてくる。あんな女性と付き合う男は、きっと生きた心地がしないだろうなあ」
アンリは楽しそうに笑っているが、私は笑えなかった。
リリアン。君が「平和な職場」だと言っていたギルドで、一体どんな「戦い」を繰り広げているんだい?
あるいは、君は私の知らない「誰か」を演じているだけなのか。
私は親友の追及を逸らすため、必死で話題を古文書の筆跡鑑定へと切り替えた。
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
ギルドの1階ホールでは、年度末の最終清算に怒号が飛び交っている。
私は冷徹な微笑みを絶やさず、並んでいる15人の冒険者を10分以内に処理するための計算を脳内で実行していた。
不意に、地下からアンリが上がってきた。彼は手にした貸出名簿の束を私のカウンターに置いた。
「リリアンさん、中央図書館から借りてきた『新刊目録』の受領印をお願いします。友人のユージンが、君のために特別に優先して回してくれたんだ」
「……ユージン?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
私はアクアマリンのピアスを無意識に撫で、差し出された名簿に目を落とした。
そこには、見覚えのある、整った流麗な筆跡があった。
中央図書館の一級書士、ユージン・ラクロワ。私の恋人。
(事象:個人情報の予期せぬ交差。深刻度:レベルA。解決策:情報の完全遮断、または「知らぬ存ぜぬ」の徹底)
なぜ、私がここまで秘密主義を貫くのか。
エリスや周囲の者は、私の「鉄の面」をプロの矜持だと思っている。だが、その実態はもっと個人的で、臆病な自衛本能だ。
かつて、私の「有能さ」や「地図への狂気」を剥き出しにしていた頃、人は私を『カタログ』のように扱い、私の中に血の通った感情があることを忘れていった。私の正論に傷ついた者は去り、私の知識を搾取しようとする者だけが残った。
あの時、私の心がどれほど摩耗し、冷え切っていたか、誰も知る由はない。
だからこそ、ユージンの前での「穏やかで、地図が少し好きなだけの平凡なリリアン」を、私は何よりも大切にしている。
この血と泥と事務処理にまみれたギルドの空気を、あのかけがえのない聖域に持ち込みたくない。もし彼が、私が冒険者の腕を折るような正論を吐き、地図の空白に異常な執着を見せる「冷徹な歯車」だと知ったら。
かつてのように、彼の瞳から「リリアン」という1人の女性への愛が消え、ただの「便利な装置」を見るような色に変わってしまうのではないか。その恐怖が、私の境界線をより強固なものにしていた。
「リリアンさん? 顔色が悪いですが、ポテトグラタンが重すぎましたか?」
「……いえ、何でもありません。この名簿、確かに受理しました」
私は震える手で受理印を押し、アンリを地下へ追い返した。
頭がくらくらする。
私の「プロの受付嬢」としての世界と、ユージンとの「穏やかな恋人」としての世界。
その2つを繋ぐ細い糸が、アンリという男の手の中に握られていたのだ。
もしアンリがユージンに、私の「地下での熱狂」を詳細に語ってしまったら?
もしユージンが、私の「鉄の仮面」の下にある正体を知って、幻滅してしまったら?
窓口を閉める間際、窓の外で春の夜風が桜の残骸を激しく巻き上げた。
冬が去り、新しい季節が来るのは喜ばしいことだが、この「暴露」という名の春の嵐だけは、何としても防がなければならない。
私は鞄の中に隠した、ユージンへの手紙を強く握りしめた。
プロの受付嬢は、情報の流出を最小限に抑えなければならない。それが、愛する人の理想を守り、自分自身の「居場所」を死守するための流儀なのだから。
【リリアンのプロな流儀】
「真実に近づくことが、必ずしも幸福を招くわけではない。大切なのは情報の『適正露出』であり、愛する人の前でだけは、最高の偽装を貫き通すのがプロの誠実さである」
(第9話:完)
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