第84話:唯一の不純物、あるいは復讐の騎士――「楽園を裂く、最低のノイズ」
永遠、という言葉がこれほどまでに重く、そして甘美な呪いとして響いたことはなかった。
神域エリュシオンの最深部、肉のように柔らかな壁と、愛の魔力で編まれた空気の中で、アルスは『終焉の聖妃』の腕に抱かれていた。
彼女は、かつてアルスが愛し、恐れ、そして逃げ出そうとした七人の女たちの成れ果て。
七組の腕がアルスを愛撫し、七つの瞳が同時に彼を映し、七つの思考が「アルスへの全肯定」という一点で統合されている。ここには、かつての「誰が一番愛されているか」という醜い争いはない。なぜなら、彼女は「私であり、私たち」なのだから。
「……アルス様……。……心臓の音が、少しだけ……速いですわね。……不安ですか? ……それとも、期待ですか? ……どちらでも構いません。……貴方のすべての震えは、私の胎内で、新しい命の糧となるのですから……」
彼女が唇を寄せる。その接吻は、魂の一部を直接吸い出されるような感覚を伴う。
アルスは、自分が自分であるという境界線が、彼女という巨大な海に溶けていくのを感じていた。
思考を放棄し、鑑定を停止し、ただ「愛されるだけの肉塊」になることの、恐ろしいほどの心地よさ。
――だが。
その完璧に調律された「愛の静寂」が、外側から響く、あまりにも醜く、あまりにも下等な「鉄の音」によって切り裂かれた。
ガリィィィィィィィィッ!!
「……っ、何……!?」
アルスは、朦朧とする意識の中で【鑑定】の残滓を起動させた。
神域の壁――もはや世界そのものと言っていい「彼女」の表皮に、一本の錆びた剣が突き立てられていた。
『警告:神域の外殻に、物理的な「傷」を確認』
『鑑定結果:侵入者――聖騎士アーサー(前世の残滓)』
『状態:……極限の狂乱、嫉妬、及び「忘れ去られたことへの憎悪」。……全人類の消去プロセスから、奇跡的に「無視」されたことで生き残ったバグです』
バリバリバリッ!!
黄金の光に包まれた肉壁が引き裂かれ、そこから一人の男が転がり込んできた。
かつての輝かしい白銀の鎧は赤錆に汚れ、誇り高き聖剣は刃こぼれしてボロボロになっている。だが、その瞳に宿る光だけは、かつてアルスを追放した時よりも、あるいは魔王に跪いた時よりも、遥かに強固で、ドロドロとした「自我」に満ちていた。
「……ハァ、ハァ……見つけた……。見つけたぞ……アルス……ッ!!」
アーサーは血を吐きながら、震える脚で立ち上がった。
彼は、アルスが「人類すべてを魔力電池に変えた」というリセットの中で、ただ一人、ネルガルの気まぐれか、あるいはシステム上の「無価値すぎるエラー」として処理され、置き去りにされていたのだ。
「……アーサー……。なぜ、お前が……」
「……なぜ、だと? ……ふざけるなッ! ……お前は俺を石像にし、俺を魔王の僕にし、俺を……俺という存在を、散々おもちゃにしておきながら……!! ……最後は、自分だけこんな『女たちの温もり』の中に閉じこもって、俺を、世界ごと、捨てやがったのかぁぁぁッ!!」
アーサーの絶叫は、神域の美しい静寂を、泥水で汚すようにかき回した。
彼は、アルスに「復讐」しに来たのではない。
「自分を忘れて、勝手に幸せになったこと」が、耐えられなかったのだ。
「……不快。……不快ですわ、アーサー。……私たちは今、アルス様との『永遠』を始めたばかり。……ノイズに用はありません。……消えなさい」
『終焉の聖妃』の背中から、無数の光の触手と氷の刃が、アーサーを貫こうと射出された。一撃で小国を滅ぼすほどの質量の愛。
だが、アーサーはその攻撃を、ボロボロの盾で、ただの「意地」だけで受け止めた。
「……消えない! 俺は消えないぞ! ……お前ら、気づいていないのか? ……この男はな、俺を馬車から蹴り出したあの日から、一歩も進んじゃいないんだ! ……俺を無視して、勝手に完結するなッ!!」
アーサーの持つ「下等な嫉妬」が、神域の理と激突し、火花を散らす。
驚くべきことに、七人が統合されたことで「完璧」になったはずの彼女たちの内に、微かな『揺らぎ』が生じた。
「……あ……アルス様を……。……私だけが、見ていたのに……」
セレスティアの声が、統合された意識の奥底から漏れ出す。
「……違う。……彼を『無視』したのは、セレスティア、お前のせいだ……。……私が、私こそが……」
アイリスの声が重なる。
アーサーという「アルスの過去の象徴」が現れたことで、統合されていたはずの彼女たちの記憶が、再び「アルスを巡る独占欲」として、内側から激しくぶつかり合い始めたのだ。
「……なっ……!? 融合が……解ける……っ!?」
リリスの悲鳴。
『終焉の聖妃』の美しい肉体が、内側から七つの色に引き裂かれ、異形へと蠢き始める。
「……ひ、ひゃははは! 傑作だぜ! ……神にも勝てなかった彼女たちを、ただの『性格の悪い騎士のコンプレックス』が、内側から破壊しやがった!!」
ネルガルが、崩れゆく神域の天井で踊るように笑う。
「……アルス! 立て! ……お前を、こんな温かいだけの地獄で終わらせはしない! ……俺と一緒に、泥水をすする絶望の続きをやるんだよぉッ!!」
アーサーが、アルスの手首を掴む。
それは、セレスティアの柔らかな手よりもずっと硬く、不快で、そして……「生々しい」感触だった。
『警告:神域の統合が崩壊。……個体名「終焉の聖妃」は、七つの「殺意に満ちた愛」へと再分裂を開始します』
『状況:アーサーの介入により、世界は三度、崩壊の渦へ』
「……あ……あぁ……。……また、始まるのか……」
アルスは、自分の手首を掴むアーサーの、必死で醜い横顔を見た。
幸せは、壊れた。
だが、その瞬間、アルスの瞳には、数千年ぶりに「退屈ではない未来」への鑑定ログが走り抜けた。
「……アーサー。お前、本当に最低だな。……でも、ありがとう」
「……礼など言うなッ! 死ぬまで俺を呪えッ!!」
神域が爆発し、七人の女たちが絶叫と共に再実体化する。




