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哀傷ゾルレン  作者: まじりモコ
第六章 残欠の災禍
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六十二話 逃走者たち


    8【誡 七月二十四日 14:08】



 震えで萎えそうになる足を叱咤し無理矢理に走る。逃げても逃げても背後にある感覚は消えない。


 久祈くおりさんの手を引いた私は商店街から離れ、人の少ない飯野地区のほうを目指していた。


 一目見て分かった。あれは危険などという次元ではない。“死”そのものだ。私個人の力でどうこうできるものではない。捕まれば死ぬ。それが分かる。とにかく逃げるしかなかった。


 かの相手はこの状況を楽しんでいるらしく、私たちの捕縛を強行する気配はない。これなら、と私は一縷いちるの希望にすがることにした。怪物には怪物を。かの『自称千年生きた吸血鬼』のテリトリーにまで行ければ、どうにかなるのではないかと。


 それまでに相手の気が変わらなければいいのだが。


 隠れ隠れしながら、他人を巻き込まないよう配慮してあのビルまで近づいて行く。


 今にも頭を割って海水で洗いたくなるような不調が全身を襲っているが、私はそれを無視した。そうでなければ一歩も動けない。それでは、この握った手を守れない。


 幾度目かの潜伏。私の告げるタイミングに合わせて久祈くおりさんが視線支配の稀癌を使う。そうやって敵の前から姿をくらませる。ほんの少ししか時間は稼げないが、こうして休息が確保できるのはありがたい。


 店と住宅の間の道とも呼べない狭い通路に身を潜ませた。危険察知の稀癌などなくとも、あの謎の敵が脅威だというのは分かるのだろう、久祈さんは顔を青ざめさせている。ずっと走っているせいか呼吸も乱れていた。そんな彼女に酷だと知りつつも、私は声をかけた。


「……なぜあのような存在に追われているのですか」


 短く端的に尋ねる。久祈さんは虚ろに地面へ落としていた視線を私に向けた。


「わかんない。急に目の前に現れて、追いかけてきて……必死に逃げて隠れてたら、あっ、あんたが見つけてくれた」


 久祈さんの瞳にじわりと涙が浮かんでくる。一人で怖かったのを我慢していたのだろう。私は彼女の肩を抱きながら、さらに訊いた。


「……あれの正体に何か心当たりは。ただの人間にはどうしても見えないのです」


 正体さえ分かれば何か対処のしようもあるだろう。そう考えたが、彼女はやはり何も知らなかった。だが、彼女は一つ思い出してくれた。


「あっ、あいつが言ってた。『われ捕尾音ほびね宍粟しそうと呼ばれている。ご存知かな?』って」


「ほびね……」


 聞き覚えがあった。確か漆賢悟の件の時に現れた連盟の人たちが、その存在から逃げるように撤退していったはずだ。災害指定だかSランクだとか言って。


 あの後レゾンはなんと説明していたか。


「…………そうか、稀癌喰い」


 私の怪我を治癒する間にそんなことを言っていた気がする。それがいま日本に来ているのだと。まさかそんな存在がこの小さな町に、しかも私の前に現れるとは。


「稀癌喰いって、なっ、なにそれ」


 考え込む私の袖を久祈さんは怯えるようにつまんだ。私はその手に自分の手を重ね、安心させるように握る。渦中にいる彼女には本当のことを話さねばならない。


「……あの男――捕尾音ほびね宍粟しそうは稀癌を集める怪物なのです。稀癌とは私や貴女の持つ特殊な力のこと。……奴はそれを喰らう。稀癌を喰われた者は死ぬのだと」


 レゾンが言っていた。稀癌は魂と結びついている。無理に剥がせば肉体にまで影響が及び、死に至ると。


「そんな……。どっ、どうにかできないの? さっき、拳銃持ってたでしょっ?」


「……銃で撃たれたくらいで死んでくれればいいのですが。それは希望的観測というもの。残念ながら銃の効かない生き物というのは存在するものです。そしてあれは恐らく、そういう類のもの。今の私たちでは逃げるしか手はありません。……どうにか貴女だけでも逃がせればよいのですが」


 最悪、彼女だけでも安全圏に逃がしてあげたい。捕尾音ほびね宍粟しそうが稀癌を蒐集しゅうしゅうするなら逃げてもまた追われる可能性はある。だが、このまま一緒に逃げてもいつか捕まるだけだ。


 頼みの綱であるレゾンも、ここ最近は見かけていない。更科君が言うには、漆賢悟の件の後から姿を消したという。寝床であるビルに立ち寄っている痕跡はあるし、ビルの人払いも消えていないから町を立ち去ったわけではないと考えられるのだが。


 今レーゾン・デートルがどこにいるかは分からない。運よくいてくれればいいのだが。……居たとしても助けてくれるとは限らないが。


 黙考する私に久祈さんは戸惑っているようだ。私には表情がないので、何を考えているのか伝わっていないのだろう。放置しているわけではないのだが。


 彼女を落ち着けようと、その瞳に眼を向ける。すると久祈さんは慌てたように視線をさ迷わせ、やがて遠慮がちに口を開いた。


「そっ、その……。言おうか迷ってたんだけど。あっ、あいつの視線、だんだん私よりあんたに向いてる時間が長くなってる。興味があんたのほうに移ってきてる……のかも」


 最後の方は消え入るような小声だったが、顔を突き合わせるようにして隠れているのでしっかり聞き取れた。その情報は事態に差し込む一筋の光明だ。


「それは好都合です。では二手に分かれましょう。貴女は自分に向きそうになった視線を私のほうへ誘導してください。捕尾音宍粟は恐らくそのまま私を追うでしょう。その隙にできるだけ遠くに逃げてください」


 ウエストポーチの中の銃を確認しながらそう指示する。良かった。これで全滅はまぬがれる。少し心が軽くなった感覚に吐息をつく。しかしそんな私とは対照的に、久祈さんの顔はさらに青ざめていた。


 まるで、信じられないものを見るかのように。


「なんでっ」


「……どうかしましたか」


「どっ、どうしてそんなっ、助けてくれるの。あんたに得なんてないよ。一つもないっ! 昨日だってあんたの物盗もうとしたでしょ? なのに、なんで」


 得と言われて私は首を傾げた。私の頭にそういった考えはなかったからだ。だが、すぐに気づく。


 私は自分の稀癌を認識した時に決めた。守れるものなら、なんでも守ろうと。それがこの稀癌を持って生まれた私の役割のはずなのだから。


“危険察知”などという、まるで自分だけが助かろうとしているかのような能力。それを他人のために使おうと、そう決めた。


 だから私が人を助ける理由は他にない。ないのだが……、それが奇妙に映る人もこの世にはいることを、すっかり失念していた。理解ある友人たちに長く甘やかされてきたツケだろうか。


 しかしこの自分の内にしかない感覚を言語化するのは難しい。人を説得するなど私の仕事ではない。だから、今言えることを彼女に伝える。


「……どうして、ですか。そうですね。私はべつに善人ではありません。どこか遠くにいる見知らぬ誰かのために命をかけられるほど情に溢れた人間ではないのです。……けれど、貴女はいま私の眼の前にいる。そして生きたいと願っている。それだけで助ける理由としては十分ではありませんか?」


「それはっ…………あまりに私に都合よすぎじゃ」


「……そうでしょうか。もしそうなら、幸運か運命か。……どちらにせよ奇跡寄りの偶然だと考えるといいでしょう。そして、貴女はそれを最大限に利用すればいいのです」


 自分が短時間で他人の信用を得られる人間でないことは分かっている。だからこそ、信用されないことを前提に、彼女には動いてもらわねばならない。逃げて生きてもらわねば。私はそのために彼女を見つけたのだから。


 行動には必ずしも信用や信頼は必要ない。利用してくれればそれでいい。そう考えての発言だったのだが、なぜか久祈さんは泣き出しそうになりながら私の手を握り返していた。


 その手は温かく、かすかに震えている。


「あっ、あんた、馬鹿じゃないの? 私なんかを助けるなんてっ」


 私はその手をゆっくりほどいて両手で包んだ。


「……情けは人の為ならずですから。人を騙したり、物をかすめ取るばかりが賢さではないということです」


 意味が分からないと顔を上げる少女に、自分のスマホの画面を見せる。先日買い換えたばかりのものだが、データはなんとか移行できていた。捕尾音宍粟の影響か町中だというのに電波は立っていない。だが通話ができなくても、この機械には他に使い道がある。


「ですので逃げた先で、もしこの人達に出会えたら、私の現状を伝えてくれませんか」


 映し出す写真。それは私が信頼する人達。その誰かにさえこの声が届けば、どうにか助かる道があるかもしれない。




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