終章
香澄は出掛ける準備を万端にし、緊張した面持ちでリビングのソファーに座っていた。
今日は約束の日。デートの約束をしてくれた時の浩文の様子から彼が自分にくれる答えが悪い物ではないことは解っていたが、それでも香澄は緊張していた。久しぶりのデート。しかもバイクに乗せてくれるって事は、浩文さんに沢山くっつけるんだよね。お兄ちゃんみたいにくっついてくんなとか言って引き離したりはされたことないけど、二人きりの時にくっつこうとするといつも何気なく躱されて暫く出掛けちゃったりとかしてあんまりくっつかせてもらえなかったのに、今日はそんなくっついてて良いのかな。あ、でも浩文さんの事だからサイドカーとかつけて来るかもしれないし、あまり期待しない方が。でもでも、やっぱりさ、やっぱデートでツーリングなら後ろに乗せて欲しいな。どっちだろ。どっちで来るんだろ。そんなことを考えて悶々としているとチャイムの音が聞こえて、香澄はハッとして玄関に出た。
「お、ちゃんとバイク乗る格好してるな。じゃあ、出掛けるか。」
そう言って浩文がヘルメットを渡してきて、香澄は受け取ってそれを見つめてから浩文を見上げた。
「わざわざ新しいの用意してくれたの?」
「いや、弟が彼女乗せようと思って買ったけど、彼女に断られてタンスの肥やしになってたやつをバイクもらうついでにもらったんだ。余計なとこに金かける余裕はないしな。」
そんな浩文の言葉を聞いて、香澄は心の中でそうだよねと呟いた。浩文さん、お給料まともに入るようになったのここ五・六年の話しで、それまで減俸とか色々で苦しい生活してきたんだもんね。節約生活というか、質素な生活が身に染みついてるのは知ってるけどさ。でもさ、余計なことに金かける余裕はないなんて余計なこと言わなくてもいいのに。そう思うが口には出さず、心の中でむくれてみる。もう子供じゃないから、子供じみたことは止めたんだ。ちゃんと浩文さんの横に並んでもおかしくない大人の女の人にわたしはなったんだ。ちゃんとなれてるかは解らないけど。そんなことを考えながら、香澄は行くぞと背中を向ける浩文の後を追った。
駐車場に置いてあったバイクにサイドカーがついていないのを見て、香澄は心の中でやったと叫んだ。浩文の後ろに乗って、彼の背中にくっついて嬉しくなって思いっきり抱きしめてみると軽く怒られて、香澄は笑いながら謝った。
バイクが走り出し風を感じて、香澄は少しの間目を閉じた。くっついた背中から、浩文も緊張しているのが伝わってくる。それがなんとも嬉しい。自分だけじゃない。浩文さんもわたしと同じように緊張して、きっとドキドキしてるんだとおもうと嬉しかった。今からどこに連れて行ってくれるんだろう。どこで浩文さんが出した答えを聞かせてくれるんだろ。そんなことを考えて、香澄は目を開けた。感じる風と共に流れていく景色が酷く新鮮に感じる。
ふと目の前の浩文の背中に視線を向けて、香澄は彼との今までを振り返った。最初に出会ったのは自分が高校一年生の頃だった。涼花の冤罪を晴らすために奮闘していた浩文が香澄がアルバイトしていた喫茶店にやってきて、そこで初めて話をした。涼花の知り合いだった香澄からも話しを聞こうと声を掛けてきた浩文に、もしかしてナンパ?なんて言って、酷く機嫌悪そうに、ナンパじゃないなんて言われたことを思い出して香澄は小さく笑った。あれで浩文さんのことが気になって、浩文さんのことを調べて、経歴や高校時代の柔道の試合の動画見て格好いいと思って一気に好きになったんだよな。でも、あの頃は浩文さん本当にわたしのこと子供としか見てなくて、何言っても何してもガキが何言ってるとか、大人をからかうんじゃないとかそんなことばっか言われてたな。それでもめげずにアプローチし続けて。涼花さんの件が片付いて、大震災の騒動が落ち着いた頃にようやくOKしてくれた。OKしてくれたのに、わたしがまだ十八歳未満の未成年だったから、高校卒業するまではキスもなにもなしだって言われて、散々文句言って一回だけ特別だってキスしてもらったっけ。それ以降ちゃんと我慢できないなら別れるって言われて、わたし浩文さんとイチャイチャしたいの二年も我慢したんだよな。あの頃、腕組むのもダメって言われて、手繋ぐのすら人混みではぐれそうになった時だけで、二人きりになれるような場所には絶対連れてってくれなかったし、家にも上げてくれなきゃ、うちにもお兄ちゃんがいる時じゃないと絶対に上がらないしで、全然付き合ってるって感じしないってふて腐れてたっけな。高校卒業した後も、成人した後も、浩文さん結局ずっとわたしとの関係に一線引いてた。家に上げてくれるようになって、軽いキスはしてくれるようになってもそれ以上は絶対にダメだった。どんなに頑張っても浩文さんとの間にどうしても埋められない距離があるように感じていつも寂しかった。でも、きっとその関係も今日で終わりなんだ。そんなことを考えて香澄は胸が高鳴った。
見晴らしが良い少し広いスペースのある場所に着いて、二人はバイクを降りた。
「うわー。凄い良い景色。気持ちいい。」
ヘルメットをとってそう言いながら深呼吸する香澄に、浩文もヘルメットをとって笑いかけた。
「あまり人に知られてない絶景スポットなんだと。」
そう言って香澄の横に並ぶと、浩文は彼女の名前を呼んだ。
「ずっと、色々悪かったな。俺、自分勝手でさ。」
ばつが悪そうにそう言って浩文は視線を泳がせ、何か思い悩むように眉間にしわを寄せて、それで何か諦めたように一呼吸つくとポケットを弄って小さな箱を取り出し香澄を真っ直ぐ見つめた。
「俺と結婚してくれないか?今回の件でよく解った。俺はお前がいないとダメだ。これからもずっと俺の傍にいて欲しい。」
そう言って浩文は手に持った箱の蓋を開けて香澄に差し出す。
「えっと、浩文さん。これってさ。」
「婚約指輪だ。さすがに給料三ヶ月分とはいかなかったけど、俺の手が届く範囲でお前が好きそうなデザイン選んで、今日プロポーズができるように用意したんだが。気に入らなかったか?」
その言葉を聞いて香澄は一気に顔が熱くなった。
「浩文さん、いつの間にそんなの準備してたの?いつからそんな結婚とか考えてくれてたの?え?どうして?なんで?ちょっと前まで浩文さん、わたしとの付き合い考えたいって距離おいてたんじゃなかったっけ?」
「付き合いを考えたいって言うか、お前との関係をちゃんとしたかったというか。俺に覚悟がなかったんだよ。その覚悟を決める時間が欲しかったというかなんというか。覚悟が決めらんないなら、お前をこんな中途半端な関係のまま俺に縛っとくのも悪いんじゃないかとか。」
ぶつぶつそんなことを言って浩文は頭を抑えた。
「その、お前は俺と結婚するのは嫌か?」
「嫌なわけないよ。むしろ結婚するなら浩文さんじゃなきゃヤダ。」
そんな香澄の答えを聞いて浩文は箱から指輪を出して彼女の左手の薬指に嵌めた。
「なら、ごちゃごちゃ言ってないで素直に俺のとこに嫁に来い。」
そう言って浩文は香澄の腕を引いて引き寄せると深く口づけをし、唇を離すと強く抱きしめた。
「香澄。本当、今まで悪かった。今まで我慢させた分、これからはお前のわがままそれなりに聞いてやるから。」
浩文に抱きしめられ、彼の早鐘を打つ心臓の音を感じながらそんな言葉を耳にして、香澄は状況についていけず軽くパニックになりながら彼を見上げた。目があって、そこから彼の想いを読み取って、これが現実だという認識がすっと入って来る。
「浩文さん。いきなりでよく解らなかったから。もう一回。もう一回、さっきみたいなキスして。」
そう言って浩文を見上げたままそっと目を閉じて香澄は彼の行動を待った。彼の唇がそっと自分のそれに触れ、それから舌が入ってきて、香澄の身体に力が入った。いつもの唇に軽く触れるだけのキスじゃない。いつものキスと全然違う。そんなことを思いながら力が抜けて香澄は自分の全部を浩文に預けた。唇が離れて浩文の胸に身体を預けながら香澄は急に酷く恥ずかしくなって、顔が見られないように彼にくっついた。
「浩文さん。その。ありがとう。凄く嬉しい。わたし、良いお嫁さんになれるように頑張るから。」
「頑張んなくてもお前は今のままでいい。本当、最初はなんだこのくそガキって思ってたのにな。今じゃ怖いぐらい俺はお前にぞっこんだ。本当、俺はお前がいないとダメだ。お前のその素直さや明るさにいつも助けられる。いつだってお前の真っ直ぐさが俺に間違いを気付かせて、迷いを吹き飛ばしてくれる。お前は俺の太陽だ。俺の方こそお前にとって良い旦那になれるように努力する。もう二度とお前の意思を蔑ろにしてバカな事考えてお前を泣かせたりしないから。」
そう言うと浩文は抱きしめていた腕をほどいて香澄に笑いかけた。
「香澄。今までずっとありがとう。これからもよろしくな。」
「こちらこそ。これからもずっとよろしくね。」
そう言って香澄も満面の笑みを返す。
「ついでにこのまま俺の実家行ってみるか?」
「え?流石にそれは急すぎ。ムリだよ。心の準備もそうだけど、何の準備もしてないし。」
そう言って焦る香澄に浩文は冗談だよと言って笑った。
「でも、今度あらためて俺の婚約者として一緒に来てくれるよな?」
「もちろん。」
「とりあえずその前に俊樹に報告か。俺、あいつに妹さんを嫁に下さいって頭下げなきゃいけないのか?」
「お兄ちゃんなら、とっとともらってってくれた方が助かるとか言いそう。婚約したならもう結婚待たずに同棲しろよとか言って家追い出されたりして。」
「あぁ、凄く想像つくなそれ。」
そんなことを言い合って笑い合い、二人はこれからどうするかと話し合った。お前にプロポーズした後どうするのか全然考えて無くてさと言う浩文に、わたしもう少し浩文さんとここでこうしてたいななんて香澄が言って、二人は久しぶりのデートをゆっくりと満喫して過ごした。