序章
家に帰ると兄がいて、兄にただいまと言う声が震えているのに気が付いて、香澄はどうしようと思った。怪訝そうに振り向く兄の顔を見て、涙が溢れてきて、香澄は兄にすがりついて泣いていた。頭の上から戸惑ったような声でどうしたと声がするが、何をどう話せば良いのか解らず、香澄はただ泣き続けていた。解らなかった。どうしてこうなったのか解らなかった。どうすればこうならなかったのか解らなかった。でもまだ終わったわけじゃない。だからきっとこの先を続けたいと思うなら続ける手立てがあるんだと思う。でも、どうすれば良いか解らなかった。やっぱわたしが子供っぽいから?年がだいぶ離れてるから?わがままだから?それでも、わたし頑張ってきたのに。わがままだって言い過ぎないようにした。年の差は埋められないから、服装とかお化粧とかお店の人や知り合いにアドバイスもらって、雑誌とか見て勉強してできるだけ大人っぽく見えるようにしたし、おかしいって言われる言動もしないようにして、一緒にいて恥ずかしくない彼女でいるように頑張ったのに。
涙が落ち着いた頃、兄がホットココアをいれてくれて、香澄はお礼を言って受け取りそれをちびちび飲んだ。
「浩文さんと距離置くことになったんだ。」
そう言うと兄が興味なさそうにふーんと言いつつ隣に座って何かあったのか?と訊いてきて、香澄は別になにもないけどさと呟いた。
「浩文さんにアパートの合い鍵返すの忘れちゃったから、お兄ちゃん後でポストにでも入れてきてよ。」
そう言って鍵を差し出すと黙って受け取ってくれて、香澄は小さく笑った。お兄ちゃんは素っ気ないけど優しい。そう思って本当に久しぶりに、子供の時みたいにお兄ちゃん大好きと言ってくっついてみた。そうすると、彼氏と上手くいってないからってくっついてくんなと言って引き離してきて、あぁやっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだなと思って安心した。
「彼氏と別れたからって、昔みたいにお兄ちゃん大好き公言してくっついてくんなよ。」
「まだ別れてないし。もし別れたとしても、もう流石に二十一にもなってそんなことしないし。」
そう抗議してみると胡乱げな視線を向けられて香澄はムスッとした。そう、自分ももう二十一歳。子供じゃない。保護者の許可がなくても結婚できる年になった。もう結婚ができる年とはいえ保護者の許可が無いと結婚できなかった高校生の少女じゃない。自分が配偶者か婚約者じゃないとなにかしたらした相手が犯罪者になっちゃうような未成年の女の子じゃもうないんだ。なのにさ、なのに、きっと浩文さんの中じゃわたしはまだ子供のままなんだろうな。付き合いだって、きっと子供のごっこ遊びに付き合ってただけなんだ。ただ恋人ごっこしてただけなんだ。だからわたしがいくら言ったって、ちょっと誘惑してみたりしたって、軽くキスする以上のことはしてくれなかったんだ。そんなことを考えて、香澄は苦しくなって、心の中で嘘つきと呟いた。ペアリングくれた時、お前じゃないとダメかもしれないって言ってたくせに。ずっと断ってたのに散々言い寄ってきて人のこと本気にさせたんだからちゃんと責任とれよって言ってたくせに。わたしは浩文さんと一緒になるつもり満々だったのに。なのにさ。なのに・・・。そんなことを思ってまた涙が溢れてきそうになって、香澄はちょっと寝てくると言って自室に引き籠った。
ベットに俯せになって枕に顔を埋めると、付き合っていた間の色々な思い出が蘇ってきて苦しくなった。今のどうにもならない気持ちを誰かに吐き出したくて、でも兄には言いたくなくて、香澄は自分の端末を手にして意識をその中にダイブさせた。
『香澄。意識はちゃんと身体に残しておかないと戻れなくなると教えたでしょ。』
呆れたようにそう言う楓の思念を感じて、香澄はそれに自分の意識をぶつけて飛びついた。
『おや、どうかしたんですか?』
『楓さん。わたし、わたしさ。どうしたら良いのかな?』
そう言うと楓にとりあえず落ち着きなさいと言われ、香澄は促されるままに自分の身体に意識を戻して深呼吸した。今度はいつも通りちゃんと自分の身体に意識をおいて思念を電子の海にダイブさせる。ちゃんとそこで待っていてくれた楓に、とりとめもなく浩文と距離を置くことになったことやこのまま別れることになってしまうかもしれないこと、今まであったことや、今感じている自分の思いを吐き出した。
『まぁ、恋愛とは複雑なモノですからね。想いを寄せる相手と必ずしも一緒になれるわけでもないし、お互いが好きどうしでも上手くいかないこともありますし。逆に想いはなくても打算で付き合いが成立することだってある。あなたも次の恋でも探せば良いんじゃないですか。』
そうばっさり切られ、香澄はぶー腐れた。
『そもそもどうして距離を置こうなどと言われることになったのか。そこが解らないのにどうしようもないでしょ。どうしてそこをちゃんと聞かずに相手の言うことをきいてるんですか。バカじゃないですか。距離を置きたいと言ってくるということは、あなたへの気持ちが冷めてきたんでしょ。下手に縋り付くと都合の良い女にされて終わりですよ。』
そう追い打ちをかけられて香澄は浩文さんはそんな人じゃないもんと心の中で反論してみるが、口に出せばさらに追い打ちをかけられそうで黙り込んだ。
『あなたが何を望もうとこればっかりはあなたのわがまま一つでなんとかなる問題ではないですし。結局はあなたがどう自分を納得させるかでしょ。別れないにしても、いきなり理由も解らず距離を置かれて、ある日いきなり付き合いを続けようと戻ってこられてあなたは納得できるんですか?別れるにせよ、付き合い続けるにせよ、主導権は自分が握らないとダメですよ。』
そう言われて香澄は頭を悩ませた。主導権は自分がってどうやってそれをすれば良いの?そんなことを考えてよく解らなくなる。今までただ思うままに真っ直ぐぶつかってきた。駆け引きとかなんとか、そういうことは自分には向いてないと思う。
『とりあえず、どうすれば自分を納得させる事ができるのか考えなさい。ただうじうじしていたって仕方がありません。終わったなら次にさっさと切り替えないと、あっという間に年をとりますよ。』
そう言われて香澄はどうすれば自分が納得できるのか考えてみた。でも、考えても考えてもどうすれば納得できるのか何も浮かんでこなくて、ただ浩文の姿ばかりが頭をよぎって辛くなった。離れることになるなら我慢しないでもっとくっついておけば良かったな。あんまり好き好き言って抱きついたりしてると子供っぽく見られるかなって我慢してたけど、我慢なんてしなきゃ良かった。あーあ、職場で会わなきゃいけないのにこんな気持ちでいるなんてヤダななんて思って、香澄は思念を自分の身体に完全に戻して枕に顔を埋めて目を閉じた。