歩く木 2
つついても、幹に傷をつけても、枝を折っても。歩く木はまるで普通の木のような顔でぴくりとも動かずに平地を吹き抜ける風に葉を揺らしている。
距離をとった上で、一通り歩く木をいじり倒した隆太は満足したようにほっと息を漏らし、背後でいつでも動けるように控える彰浩と退屈そうに地面の草をむしる省吾へと振り返った。
「大丈夫みたい。実……いや、卵かな? そっちもとってみたいんだけど」
「自分がしましょうか?」
「いや、いいよ。省吾にやらせるから」
隆太の目は「お前も少しは働け」と言うように省吾への不満がありありと語っている。彼の静かな怒りを読み取ったのか、省吾はやれやれと言った様子で重い腰を上げた。右手には小さな石を握って。
「卵、潰せばいいのか?」
「できるものなら」
ふふん、と笑う隆太の顔には省吾への侮りがにじんでいた。確かに省吾は彼らの通う高校の野球部でエースだった。投げれば誰も打てず、打席に立てばヒットを飛ばす。強豪とは言えぬが、スポーツ推薦を取り入れていた為中々の人材が集まっていた野球部で、彼は誰からも一目置かれていたのだ。――2年前までは。
留年を重ね、野球をやめてからの省吾がボールを握っているのを、2年ほどのつきあいとはいえ隆太は一度も目にしたことはなかった。
そんな隆太の反応を尻目に、彼は気負うことなく軽い動作で石を投げると、ヒュっと風を切る音が聞こえる。そして少し遅れて軽い音がひびいた。2メートルほどしか離れていないとはいえ、彼の投げた石は見事に女性の手のひら程の長さしかない細長い卵を貫き、中からでろりとした薄桃色の液体が地面へとしたたっている。その結果に、今度は省吾がふふんと意地の悪い笑みを漏らした。
ただの木に戻ってしまったらしい歩く木からいくつかの実をもぎ、中身を確認した彼らはおそらく育っていない――割っても中身が猫ねずみの姿をしてないであろう――卵を確保して、西を目指していた。なだらかな下り坂となっているため遠くには海がはっきりと見える。しかしそれがどれくらいの距離かは、彰浩たちにははかれずにいた。
「水は大丈夫ですか?」
心許なくなってきた己のペットボトルの中身を振って彰浩が尋ねる。照りつける太陽からか、水の消費が予定よりも激しい。体力のある彰浩は省吾はまだしも、隆太に至ってはすでに空らしく額ににじむ汗をぬぐいながら首を振った。
「少し休憩しましょう」
荷物を下ろして地面へと座り込む。
食料はまだ潤沢にあるとはいえ、水がないのは死活問題だ。持ってきていた食料は乾物が多く、腹ごしらえをするだけでも水分を必要とする。
「……水に関しては選択肢がふたつある。ひとつは、休まずに海を目指すこと。食事も後回しで行けば多分、2日くらいで着く……とは思う。走って行けばもっと早いだろうし。まあそれは、体力のない僕を置いていったらって話」
「反対です」
間髪入れずに否定する。いくら今まで何も危険がなかったとはいえ、水もないのに疲れ切った隆太を一人きりにすれば殺したも同然だ。それに、今までは危険がなかったがこれからもそうであると保証された訳ではない。
「俺か彰浩が走って水を汲んで、ここに戻ってくるっつーのはどうだ?」
「現実的じゃあないね。そ水を背負って往復する体力は……君たちにはありそうだけど、今僕らの手持ちの水は朝露を集めたとしても3日も保たない。走るとしたら、今まで以上に水の消耗も早いだろう。だからこの案は、片道でしか使えない」
「引き返すのは?」
「それが一番安全だろうね。1日もあれば戻れる。収穫がない訳でもないし」
「つってもまだ2日目だぞ?」
「……僕もそれが懸念材料なんだよね。食料なんかは今のところ困窮している訳じゃないけど、人手は圧倒的に足りていない。遠征費用だって無料じゃない……まあこの場合は労働力や食料なんだけど。次がいつになるのかわからないんだよね」
「多少の無理は仕方ない、と自分は思っています」
彰浩はそう言ったが、それは己に関してのみのつもりだった。しかし隆太はその言葉にうなずき、決心したような青い顔で口を開く。
「これは最終手段っていうか……いや、理論的に考えたら最善手なんだろうけど…………だけど僕としては結構、いやかなり抵抗があるっていうか、さ」
「あ? いい案があるならさっさと言えよ」
珍しく歯切れの悪い隆太に、省吾が無遠慮に先を促す。
「……スライムは海水を真水にするだろう? あれは元が何であれ、水分を抽出して余分な成分はゴミとして排出する」
「まあ、それは何度も実践していますね」
「僕たちが一番簡単に、機会があれば何の労力もなく手に入れられて、そして一日に何度も捨てている水分って何だと思う?」
引きつったような笑顔で尋ねる彼に、察しの悪い二人はそろって首を傾げた。
□
わずかばかりではあるが確保した水は、あれから何時間も歩みを進めているのにもかかわらずあまり減った様子は見えない。
「……」
「……水、飲めば?」
空になったペットボトルをあおった省吾に、既に自分の水に口をつけていた隆太がへらりと笑う。出発前にスライムを火にかけて追加した水は、いっぺんの濁りもなく予備のペットボトルの中でたぷんと揺れている。省吾はそれを自身のものに半分ほど移し、ためらうことなく口に含む。
「水だな」
「ああ、水さ」
ふてくされたように隆太が吐き捨てる。
「まっとうな純水だよ、多分ね」
「良かったな、しょっぱくなくて」
「黄色くもないしね。だけど僕は、これに色がついてたらまっすぐキャンプに帰れたんだろうなとも思うよ」
二人とも同じものを口にしているにも関わらず続く不毛な争いに、彰浩は苦笑を漏らすが止めに入る様子はない。この2日間、年若い男子高生二人の小さな諍いなどいくら彰浩が対人関係を不得手としていたとしても、すっかり慣れきってしまうほどに繰り返されているのだ。
彼らの言葉には毒があるように聞こえるが、どうもこれが彼らなりのコミュニケーションであると彰浩は理解しつつあった。粗暴な――真凛などはデリカシーがないと眉を顰めるが――言葉が目立つ省吾も、言葉先から皮肉がにじむ隆太も、決して互いを嫌い合って言葉を交わしているわけではない。むしろ自身の懐に入ってしまっているからこそ、歯に衣着せぬやりとりができるのだろう、と。
それから丸1日、風で草葉がこすれる音と僅かばかりの罵倒をBGMに進んだ。遠くに見えていた海岸は近づいたような気もするが、未だ徒歩で移動するにはうんざりするような距離がある様に思えるのは彼らの歩みが鈍ってきているからだろうか。
「この草さ、すごく丈夫じゃない? めちゃくちゃ足に引っかかるんだけど」
疲れ切った表情でため息を吐いた隆太の足下には、2メートル程の長さの細い草が絡みついていた。彰浩もその龍のひげを伸ばしたような草には何度か躓いていたし、無理矢理引きちぎろうとしても中々骨で、最終的には避けて歩いていた代物だ。
「それが?」
そんなものに初めて気づいたと言わんばかりの表情で、省吾が尋ねる。
「いや、何かに使えないかな、と」
しゃがみ込んでぐいぐいと引っ張ってみるが、隆太の力ではちぎれるどころかびくともしない。彰浩では根ごと抜いてしまうし、省吾がナイフを使いようやく切れる程の強度がある割には肌触りは植物らしくしっとりなめらかで、柔らかい。
「編んだら何かに使えるかもしれません」
「何枚か重ねれば敷物の代わりになるかもね、畳みたいに」
「そりゃあいい、砂にまみれて目が覚めるのはいい加減飽きたからな」
「帰りに採って帰りましょう。はしごから登った先でも、見た気がしますから」
ひとまず龍のひげをその場に捨て置いて、誰のとも知れぬ無理矢理履いた靴で痛む足をかばいながらもゆっくりと足を進めると、当初の目的よりかは早く砂浜へとたどり着いた。その頃には苦心した水も尽きてしまっており、彰浩たちは一目散に海へと駆け寄りペットボトル内の小さなスライムの欠片を海水に泳がした。
「今日はここでキャンプだね」
火口から乾いた流木に火を移しながら、隆太がほっとした表情で笑みを漏らす。寄り道しなければ2日強でキャンプまで帰れるだろうし、懸念していた水も食料も天候も問題はない様だ。
早速沸かした鍋1杯分のお湯を分け合い、食料をかじる。緊張の糸が切れたのか、ぼうっとした顔の彰浩の視線の先にはぽっかりと浮かぶ島があった。そう、島だ。
「……島があるよ」
「ああ、島だな」
「幻覚かと思っていました」
島自体は、歩く木を見つけたあたりから視界に入っていた。ついでに、その中央を流れる小さな川も。
彰浩たちがいる海岸からその島まではおおよそ数十メートルほどの距離しかなく、泳ぎの得意な満里奈であればその身ひとつで渡ってしまえそうな程近い。彰浩も、浮き輪のようなものがあれば流されながらも対岸にたどり着くくらいはできるだろう。
魚も豊富にいるのか、水鳥の姿も見える。夕日を受けてきらきらと輝く水鳥は、遠目から見るとまるで研ぎ立ての刃物の様に白く輝いていた。
「どうする? 川、見つけちゃったけど」
「…………無理だと思います」
「だよね」
水もあり、資源も豊富そうな島である。いかだを作れば全員無事にたどり着くこともできるだろう。しかしながらあの島に是とはいえない存在が、天高く空から舞い降り、我が物顔で切り立った山の頂上へと鎮座していた。
「あれ大丈夫かな? 僕たち襲われて丸呑みにされたりとかないよね?」
隆太が青い顔で後ずさる。無理もない、距離があるとはいえ、こちら側からははっきりとその存在を認識することができる。
茶色い岩肌に囲まれれば否応なしに主張する、紛れる必要などないと言わんばかりの青い体は小さな家ほどもあろうか。爬虫類に似た顔にコウモリのような翼、太い尾。それは紛れもなく――龍と呼ばれる空想上の生き物に酷似していた。
幸い龍は隣の島の反対側より飛び出すと、彰浩たち人間のことなど目に入らないかのように見向きもせず飛んでいってしまったが、それでもなお遅れて恐怖が背後に立つ。あんなものと相対したのならば自分の命はおろか、他の二人の命さえ逃がすまもなく風前の塵と化してしまうだろう。
「ひとまず、身を隠しましょう」
龍と彰浩たちとの間には数キロほどの距離があり、あの巨体も大きな鳥にしか見えない。あちら側から見れば人間など豆粒のサイズだろう。しかしあっという間に飛び去ってしまった龍の速度では、この砂浜までの距離など鼻歌交じりで詰めてしまえそうだ。
砂浜には遮蔽物などなく、彼らは背後の草原に少しでも身を隠すように草色のテントを龍に向かって張りしゃがみ込む。ここから引き返したとしても草原が続く。あれが彰浩たちを襲おうものなら、倉庫にいるネズミを追いやるよりも容易いだろう。
「こ、ここはいったい何なんだよ……あんなの、見たことも聞いたこともない」
「俺はあるな、太刀でああいうやつ狩ってた」
「それはゲームの話だろっ!」
取り乱した様子の隆太と、現地味のない顔をする省吾の反応は対照的だ。
隆太も省吾も、ここがおそらく日本どころか地球ではないかもしれないことを理解しつつあった筈だ。スライムや猫ねずみ、タコ貝などありえない生物たちを見てきていたのだから。
隆太は心のどこかで、そういった生物もいるかもしれないとさえ考えていた。一日の長さも磁気ですべての機器が狂っていたのかもしれないし、猫ネズミは閉塞的な環境でガラパゴス化が進んだだけなのかもしれない。例えそれが卵生だとしても。スライムだって新種のアメーバーのようなものだろうと。そう楽天的に考えようとしていた。考えたかった。
しかしここに来て空想上の生物である龍の登場である。
男なら誰しもが一度は触れたことがあるだろう。ソーシャルゲームにだって気安く登場するし、龍をタイトルに掲げた有名ゲームだってある。ファンタジーの世界では定番の、そして最強の生物だ。日本でよく見る映像やイラストとは少し異なってはいるが、それでも彼らが想像していた範疇に収まっている。
「落ち着いてください。あれが自分たちの想像している通りのものだとしても、今は距離があります。それに、あれ――ドラゴンがこちらに気づいた様子もありません。気づいていたとしても興味を示していません」
テントの隙間から覗くと、龍はばたばたと羽を動かしたのち山の奥へと姿を消す。その姿を見送ってようやく彰浩は忘れていた呼吸を再開した。
「早く逃げよう!」
「いえ、それは賛成できません。水も満足に確保できていませんし、もう日が暮れます。この精神状態で夜道は危険です」
「……あいつが襲ってきたら?」
「…………どれだけ距離を稼いでも、すぐに追いつかれます」
隆太の顔色が絶望に染まる。彰浩は彼の肩をそっと押し座らせ、極力柔らかい表情を作り囁いた。
――その時に備えて、体を休めるべきです。




