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野生の牢獄  作者: 鴨野朗須斗
14人の漂流者たち
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二十四日目

 腹がぐうと間抜けな音を出した。昨日はぞんざいに血のこびりついた顔と右手を洗っただけで寝てしまったので、服にも血がこびりついて赤いシャツの一部を茶色く染めている。こんな最悪よりもっとずっと悪い気分でも腹が減るのか、隼人は自分を嘲笑うように乾いた笑い声を漏らした。


 誰も気を配る余裕がなかったのか、海辺に近い湯沸かし用の焚き火の火は消えてしまっている。眠っている皆を起こさないように静かに、唯一燻っていたタープの中のかまどの火を移し小さくため息を吐く。土鍋の底にわずかに残っていた水に今日も変わらずプルプルと震えるスライムを移すと、それは程なくして形を崩し薄い半透明の膜だけ残して真水へと姿を変えた。

 省吾の作ったヘラと匙の間のような木べらで水を汲み喉を潤す。昨日は食事をとった者が少ないのか、かまどの中には並々とスープが残っていた。無理もない。



「おはようございます」

「……おはようございます」



 隼人が心の平穏を求めるようにじっと焚き火の炎を見つめていると、目を覚ましたらしい彰浩が水を飲みに来た。いつも無表情な彼も、今日ばかりは険しい顔をしている。

 いつもの隼人ならば明るい声で挨拶を返しただろう。軽薄な口調で、会話を続けることができただろう。しかし今日は無理だ。明るくお調子者な自分を取り繕う心のゆとりなど、今の隼人には持ち合わせていない。今ここにいるのは、真面目だけが取り得で何の力もない隼人だ。あの家に住んでいた頃と同じような、心にもない最低限の会話だけを義務的に口から吐き出す、大人の言い成りの詰まらない人間。

 自然と沈黙が続く。



「大丈夫、ですか?」



 彰浩がおずおずと伺うように口を開いた。無粋な質問に、隼人の口から吐き捨ているような笑いが漏れる。

 ――大丈夫な訳あるはずがない。そんなこともわからないのか、この人は。

 隼人の中に憎悪や嫌悪にも似たどす黒い感情が生まれ出る。それを吐き出すように、彼はそのまま包み隠さずに言葉を彰浩へと投げつけた。



「僕が大丈夫に見えるのなら、その目は節穴でしょうね」



 今まで隼人ですら聞いたことがないくらい、その声は毒を孕んでいた。



「そもそも、精神的に不安定な鈴子を連れて行くこと自体間違っていたんだ」



 一度聞いたら一生耳に残ってしまうような不快な口調だった。



「三人もいたのに、どうして止められなかったんだ。あなたと省吾なら、鈴子なんて簡単に取り押さえられたはずなのに」



 この耳をふさぎたくなるような酷く醜い罵倒が八つ当たりであると、他でもない隼人自身が一番自覚していた。しかし、一度あふれ出した罵詈雑言は止め方がわからずに濁流となって流れ出す。そんな隼人の言葉を、彰浩は相変わらず難しい顔で受け止める。

 ――最悪だ。

 思いつく限りの汚い言葉を並べ立て彰浩を責めているはずなのに、いつの間にか隼人の瞳からは涙があふれ出してしまった。すると今まで当たり前の顔をして罵られていた彰浩が、突然おろおろとうろたえたように体をそわそわと動かす。



「あの……すみませんでした。自分が、自分のせいです。鈴子さんを守る義務があった。それができなかったのは、自分の責任です」



 大きな両腕を彷徨わせながら、彰浩は隼人に言う。そんな彼に、隼人は泣き顔を隠すように頭を抱えながら大きく首を振った。



「……っちが、違います! 全部僕が悪い。僕が、僕がもっとしっかりしてたら」

「違います」

「違いませんっ!」

「いいえ、違います。隼人さんは悪くありません」



 彰浩が真っ直ぐ隼人の目を射貫いて、静かに告げる。彼の視線は少しも揺らぐことなく、その言葉に一欠けらも嘘はない。まるで本当に自分には非がないのだと信じてくれている、そう感じた隼人の目からまた涙がぼろぼろと零れる。


 ――本当は、自分を責めていた。鈴子の機微に気づかなければいけなかったのも自分であるし、遠征を止める必要があったのもこの漂流者の指揮を執っていた自分だ。彼女の不調に気づかずに、見過ごし、見殺しにした。

 だけど本当は、誰かに否定して欲しかった。精一杯頑張ったと、認めて欲しかった。そんな自己憐憫の情を抱いていた隼人に、彰浩の言葉は優しく染み渡った。

 ――情けない。僕はこの優しい人に甘えている。

 自分の中にある赤子のような甘えから、父のような兄のような優しさに身を委ねてしまいたくなる。それは隼人が日本で求め続けて、終ぞ与えられることのなかった優しさだ。



「すみません、八つ当たりです。彰浩さんは悪くない、むしろどんな危険があるかわからない遠征を任せきりで、申し訳ないです」

「自分にはこれくらいしか、できることがありません。しかし、この度の落ち度は自分にあります。謝って済むことではありませんが、申し訳ありませんでした」

「……本当に、謝って済むことではないですよね」



 隼人の口からまた一つ皮肉が零れる。しかし彼の表情は彰浩を責めるというよりは、別の意図を感じた。



「誰が謝ればいいとか、誰を責めればいいとか。そういう問題じゃないと思うっす。だけど――」



 少し考え込んだ隼人は、それから先を言葉に表すことはしなかった。それから、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭うと、いつも通り軽薄な――しかし隠しきれない影が滲んでいた――笑みを浮かべて、彰浩を見上げる。



「彰浩さん、鈴子を探すの手伝って貰えるっすか?」



 軽い口調になるように努めた隼人の問いに、彰浩は無言で頷いた。





 丸一日をかけて漂流者総出で鈴子の捜索が行われたが、幸か不幸か彼女の発見には至らなかった。

 隼人は未だ赤い目をこすりながら、皆を労う。明日からは通常通りの生活に戻る予定だ。誰もが今まで通りの生活に戻れることなどないと理解していたが、無理に明るく振る舞う隼人の言葉に己を奮い立たせる。

 落ち込んで涙にまみれていても、誰も助けてはくれない。自分の心に嘘をつきながらも前を向くしかない。この島での生活は、そういうものだ。割り切れなくても、割り切ったふりをしていればいつかこの胸の痛みが過去に変わる日が来る。そう信じて、前を向こうと努力してた。


 しかし立ち直れない者もいる。いつもは皆を先導し厳しい言葉で前を向かせてくれる彼女の姿を、漂流者たちは昨日からずっと見ていなかった。

 ジェシカの話では食事もとらないため強引に水だけでも飲ませているようだ。今日の夕食だって、彼女が籠る女性用のタープに持って行ったままの形で戻ってきた。


 ――そっとしておけばいいのだろうか。しかし前回はそれが仇となった。

 心の傷が癒えるまで待つことはできる。サバサバとした彼女の声が聞こえないことは砂浜を照らす灯りが一つ減ったようにも感じるが、彼女がいなくとも、歪ではあるが生活は回すことができる。

 ――しかしその傷が彼女一人で癒せるものではなかったら。

 また、同じことを繰り返してしまいそうで怖い。腹を割り同じ痛みを共有する者たちと痛みを分かち合えばどうだろうか。己の傷を抉ることにもなるが、それで彼女の笑顔が戻ってくるのならば多少の流血とて構わない。それよりもこの中からまた一人誰かが欠けてしまうことが恐ろしい。

 隼人は煮詰まらない思考を抱えながら、真凛のいるタープをじっと見つめた。

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