二十五日目、二十六日目
――夜が明けない。
太陽に照らされているはずの木々は埃をかぶったように灰色だし、森から聞こえる鳥のさえずりすらどこか一枚薄い膜を隔てたように遠かった。いや、濁っているのは自分の目だと、真凛は自覚している。
麟太郎が死んだ。鈴子がいなくなった。言葉にしてみればたった二言で済んでしまう事象は彼女の心に暗く影を落とす。何だかすべてどうでもいいような、体の水分がすべて抜け落ちてミイラになってしまってもいい気がしていた。
生きるための活力というものが湧いてこない。数日前まではあんなに前を見据えて、精力的に声を張り上げていたというのに真凛の喉はその機能を失ってしまったようだった。
誰かが話しかけてくる。視界の端に揺れる金髪に鈴子を思い出したが、彼女は大きく頭を振る。
――鈴子の髪はこんなに長くないし、ふわふわもしていない。
目に映るすべてが失ってしまった者を思い出すこの場所は、真凛にとっては地獄と言っても過言ではなかった。
気を使われていることはわかっていた。真凛とて、自分一人が傷ついている訳ではないと理解している。各々心に重いしこりを残しながらも、悲惨な顔をしている彼女を気遣ってくれている。しかしその献身さが、今の真凛にとってはどうしようもないほど鬱陶しく思えた。
――放っておいて欲しい。
自分はこの島のどこかで一人野垂れ死んでしまえばいいとさえ思っている。積極的に死のうとも思わなかったが、積極的に生きたいとも思えなくなってしまった。すべてが面倒で、億劫だ。
誰かが運んでくる食事が冷めていくのを眺めながら、真凛は空腹を感じない自分を不思議に思っていた。彼女に寄り添うようにして髪を梳くのはサルだ。サルは真凛に無視されても、邪魔なものを捨て置くように邪見にされても彼女のそばを離れようとしない。その隣に寄り添うぬくもりすら、暑くて邪魔だとしか思えないほどの彼女の精神は摩耗していた。
□
真凛の中では僅かな時間に思えたが、鈴子がいなくなってから既に三日が経過していた。今日も海での捜索は行われているが、それは初日よりも人数が減っている。生きるためには、生きているか死んでいるかもわからない者だけに時間を割く訳にはいかないのだ。
いつも明るく前向きであった真凛の声が聞こえない砂浜はまるで灯りが消えてしまったかのように活気がなく、皆が鈴子の失踪を引きずっているようだ。心なしか、会話すらもひそひそと声を潜めなくてはならないようで、くだらない雑談や笑い声も減った。
そんな中、午前中の薪割りを済ませた隼人は小さくため息を吐いた。最近では心地よいとさえ思えた運動後の疲労感も、今は気だるいだけのものですべてを放り出してまどろんでしまいそうになる。しかし彼の重い指は止まることなく小さなメモ帳をめくっていた。
砂ぼこりで汚れたメモ帳には、後ろのページに鈴子の文字で簡単な日記が書かれている。いつも彼女が持ち歩いていたそれには島の簡単な地図や収穫した植物の種類がイラスト付きで描かれていたのは知っていたし隼人も何度も目にしていたが、後方にこんなものが隠されているとは知らなかった。
日記の中の鈴子は素直だった。不安があれば吐露しているし、年上を小馬鹿にする内容すら見られる。そんな皮肉屋なところは、この島に流れ着いてから姿を隠していた彼女らしさの一つだ。鈴子とて慣れない集団生活に気を使っていたらしく、溜まった鬱憤を吐き出すかのように日記の内容は赤裸々すぎるものもあった。
小さな文字で書かれた自分への不満を見つけた隼人は苦笑する。なんとも鈴子らしい心配の仕方だ。
誰にも見せないはずだった日記の中ですら優しいはずの彼女の言葉は歪曲され、余計な一言を付け加えている。ただの罵倒にしか見えないその言葉も、それが彼女の悪癖だとよく知っていた隼人には優しい忠告に思え、まだ片手で数えられるはずなのに酷く遠く思える過去を思い起こさせた。
日記の中での鈴子は、現状に不満を抱えつつも生き残るために精一杯仕事をこなしていた。斧が重いだとか、日焼けで肌がひりひりするだとか、ぬるい湯船に浸かってそのまま寝てしまいたいだとか。不満の方が多くはあったが、少なくともあんな結末を選ぶようには見えない。
しかしある日を境に、風向きが変わる。
――光。鈴子の弟の名だ。彼女は家族と仲が良く、特に歳の離れた弟を可愛がっていた。隼人は光るとは会ったことはなかったが、鈴子からよく話を聞いていた。
昨日光が寝坊して大変だった、帰ってきたら宿題もせずにゲームをしていた。鈴子から語られる弟の生活は大抵が愚痴やぼやきのようなものだったが、それを語る彼女の顔には弟への愛情がにじみ出ていた。
鈴子は、麟太郎と弟を重ねていたのだろうか。それとも比べていたのだろうか。遺されたわずかなメモからそれを推し量ることは隼人にはできない。葛藤のような、懺悔のような記述が続く中、あるページで彼の手が止まる。
彼女の誰に尋ねたかもわからない問いに、隼人は答える術がなかった。いや、例え鈴子が生きて目の前にいたとしても彼は口をつぐんだだろう。
この場所で生き続ける意味。それはもう救助が来ないと知った何日も前に見失っていた。
死んだら終わり。そう言葉にするのは容易い。しかし、自分たちがこうして生存している場所が地球ではないと悟ってしまった今、何を目的にして生きて行けば良いのだろうか。
惰性で生き続けることはできる。幸か不幸か、生活環境は整いつつある。多少の不便を我慢すれば水の心配はないし、実りの多い森や海で食料も安定して得ることができた。しかしそれは今だけだ。たったひとつき、ずっと長い時間この島で過ごした気がしていたがそれだけの時間しか経過していない。
もしこの島が雪に覆われるとしたならば、今までの生活は続けられなくなる。海に入ることもできなくなるし、木々とて葉を落とし実を種に代えて土の中で眠りに落ちるだろう。そもそも、防寒具どころかまともな家屋すらない現状では、凍えて永遠の眠りに就くしかないだろう。
四季といった単純な環境の変化ですら、この生活は成り立たなくなる。
――自分が皆さんを安住の地へと連れて行きます。
ふと、隼人は彰浩の言葉を思い出した。何の根拠もない、あるともわからない安住の地を探し求める言葉。その宣言をした彼の瞳には、嘘が見えなかった。達成できないと欠片も思っていないかのように、彰浩は前を見据えていた。
暗い沼の底に引きずり込まれそうになっていた思考に、僅かな光が灯る。
その光は普段は弱弱しく主張しないくせに、隼人の足下が揺らいだときは岬に灯る灯台のように煌々と輝いていた。目を焼くような光量なのに、どこか温かくそのまま体を預けて眠りに落ちてしまいそうになるほど優しい光だ。
「……安住の地」
隼人は目を伏せて、小さく呟く。既に彼の手によって隼人の中に新たな目標という光は灯された。
そして彼の手元にも、鈴子が遺した光が僅かに輝いている。この小さな光を活かすか殺すかは、真凛次第だ。隼人は優しく鈴子の残した文字列をなぞり、零れだしそうな涙をぐっと飲み込んだ。




