二十三日目 1
真凛が泣いている。そんな彼女を抱え上げ、彰浩は森林を走っていた。前方には先導する省吾、平行するように木々を飛び交うサルが心配そうに見つめている。
「っなんで、なんでぇ……っ!」
泣きじゃくる真凛は何度も同じ言葉を繰り返している。彰浩とて、それをこの場にはいない者に問いたかった。
□
夜明けとともに簡易タープの中で目覚めた彰浩は、昨日と同じように湿った背中に不快感を感じつつも体を起こした。残念ながら予備の衣服は手持ちになく、今日も草露にまみれての起床だ。
タープの中では省吾と真凛がまだ眠っているが、鈴子の姿はない。彼女を探しながら身を起こすと、鈴子は昨日予備のパラコードまで使用して何とか完成した竹かごを見つめていた。
「おはようございます」
「……おはよ」
鈴子の小さな、弱弱しい声が返ってくる。昨日あんなに楽しそうに笑っていた彼女の表情は暗い。
どうしたのですか、と声をかけようとすると鈴子は小さくほほ笑んだ。
「覚えてて、ね」
そのまま彼女は、すたすたと迷いのない足取りで崖先へと歩みを進める。
何か様子がおかしいと気づいた彰浩は、眠っている二人を起こすようにわざと大きな声で彼女へと声をかけた。
「どうしたんですか?」
鈴子は答えない。振り向きもしない。
「鈴子さん!」
異変に気付いたらしい真凛と省吾が目をこすりながらタープの中から飛び出してくる。彰浩は鈴子の背中を追いながらも、声をかけ続ける。それに真凛も加わる。
「鈴子さん、どちらへ行かれるんですか?」
「鈴子? どうしたの!?」
そうしてようやく鈴子は振り返った。朝日に照らされた彼女の白に近い金色の髪が光る。
「あのね……ごめん、ね?」
「……すず、こ?」
あと一歩で崖から落ちてしまう。
彼女がそんな状況でなければ、まるで物語の女神のように見惚れてしまう微笑みだった。すべてを受け止める慈愛の女神の瞳からはぽろぽろと涙が零れている。後光のような朝日が差し、今すぐにでも天へと帰ってしまいそうな――そんな幻想的な光景に、彰浩たちの足が立ち止まり、竦む。
「私、やっぱり無理、かな。ここにはママもパパもいない、光もいないの」
「鈴子、ねぇ、待って! 何言ってるかわかんない!」
「マリちゃん、ごめん。誰のせいとか、ないよ。私が悪いの」
「鈴子……お願い、やめて……」
恐怖に顔をこわばらせぼろぼろと涙を流す真凛とは対照的に、鈴子は穏やかにほほ笑えむ。
息を小さく吸った彰浩は硬直した足にぐっと力を入れて、五メートルも離れていない鈴子へと飛びかかろうとした。永遠にも思える刹那、時間が止まる。わずかな距離であるのに、長距離を全力疾走しているように彼の鼓動はどくどくと脈を打っていた。呼吸すら止まり、背中を嫌な汗が流れる。
鈴子と彰浩の視線が絡んだ。彼女の小さな口が言葉を紡ぐ。
「ごめんね、ありがと」
――さよなら。
たったそれだけの言葉を残して、鈴子は崖の下へと姿を消した。
□
声にならない悲鳴をあげながら、鈴子を追って崖へと飛び込んでしまいそうになっていた真凛を抑えたのは省吾だ。彰浩と省吾は、お互い目配せをして頷き合う。
――ここから落ちたらひとたまりもないね、気をつけなきゃ。
遠征初日に、おずおずと崖から身を乗り出しながらそう笑ったのは真凛だ。彰浩も省吾も、この崖の高さと険しさを確認していた。
鈴子の行動に思うことは山のようにあったが、彼女を捜索するにしてもここからでは無理な話である。もしかしたら、という一縷の望みに賭けるのはあまりにも危険すぎる行動だ。
「マリさん、砂浜から探しましょう! あそこには海に潜るための道具だって備わっています!」
彰浩の言葉は真凛の耳には入っていないようだった。なんで、どうして、うそ、と錯乱する真凛を彰浩が抑えながら、省吾が帰還の準備をする。
「持てるか?」
「はい、省吾は?」
「問題ない」
それから雑に荷物を撤収して、泣き叫ぶ真凛を荷物のように肩に担いで彰浩たちは走り出した。薪として準備していた竹や試行錯誤しながら削いだ竹ひご、持ち帰ろうとしていたスライムは置いていく。荷物になるし、代わりはいくらでもあるからだ。
ほとんど滑り落ちるようにして竹林の急斜面を越え、倒木や草に足を取られないように走る彰浩の頭の中では真凛の呟きと同じ言葉がぐるぐると回っていた。
――どうして、何故。
考えても考えても答えはでない。彰浩と鈴子の接点は薄い。それは自覚していた。思い出せば、彼女はいつも無表情だった。皆が笑っているときも、浮かべるのは控えめな笑み。真凛もそれを心配していた。だからこそ、無理に遠征について行きたいという鈴子を止めるでもなく、「それで気が紛れるのなら」と許可した。
しかし結果はこうだ。
鈴子は初めからこうすることを考えていたのだろうか。そうも思ったが彰浩は首を振る。竹林の先には何があるかなど、誰一人として知らなかった。確かに、砂浜から見上げる険しい崖の存在は知られていたが、そこに繋がる道があるなどフェイとて確信できないだろう。
鈴子は初めはこんなことをするつもりがなかった。しかしふと、機会が与えられてしまった。
そう考えれば納得が行く。いや、納得など欠片もしたくない。
――いつから。
いつから彼女は死を選んでしまうほどに絶望していたのだろうか。
――麟太郎が死んでから?
あの出来事は、漂流者たちの心の中に大きな影を落とした。それは事実だ。思い返してみると、麟太郎の火葬の時、鈴子はあの場にいなかった。ひとりどこかで、ひっそりと身を隠していたのだ。
探しに行こうとする隼人を真凛が止めた。鈴子は麟太郎と親しかったから、まだ受け止めきれないのだろう。皆にそういった。麟太郎を見送りに来ない鈴子を責める声はなかった。まだ時間が足りないだけだ、そういって誰もが麟太郎の死とそれに心を痛める自分たちを慰め合った。
では、今も麟太郎が元気に笑っていたらこんなことは起きなかったのだろうか。
そう考えた彰浩は、まるで死者に責任を押し付けているような気がして自身の考えに虫唾が走った。いや、違う。鈴子が落ち込んでいたのはそれだけが原因ではない。それはあくまできっかけになってしまっただけで、原因は別にあるのだ。
鈴子は最後に言っていた。ここには家族がいない、と。
だから、それはつまり――。
この島に来てしまったこと自体が、彼女の絶望だったのだ。そう気づいた彰浩は、喉の奥からこみ上げる悲鳴をぐっと飲み込んだ。堪えきれなかった涙が、頬を伝う。
「……ごめん、ごめんぇ…………鈴子ぉ」
真凛の泣き声がいつの間にか謝罪へと変わる頃、ようやく木々の切れ目を歪んだ視界が捉えた。




