十八日目 1
夜半から降り続いた雨は、今は勢いを増して砂を叩いている。省吾は手持無沙汰に木を削っていた手を休め空を見上げた。
――罪悪感はあった。
つい先ほどまで生きてたものだ。襲ってくる危険もないため、足下を小走りに逃げ去る愛玩動物みたいな印象だった。だからそんな動物を殺して、皮を剥いで、食べてしまうなんて。そう、思っていた。
「……うまかったな」
しかしひとたび呑み込んでしまえば、彼は既に猫ねずみの虜になっていた。現に今だって、穴罠用の木を削っている始末だ。始めは隼人や真凛も複雑そうな顔をしていたが、丸い風船のように膨らんだ腹を抱えて寝ころんでいる様にはその罪悪感はどこかに消え去っているようだった。
肉とは生きる糧だ。直接的なエネルギーに変わり、生きる活力に変化する。根拠などどこにもないが、少なくとも省吾はそう考えていた。
「散らかすな」
洗濯ものを抱えた真凛が不満そうに省吾の足先を蹴飛ばした。視線を落とせば、確かに彼の足下には木くずが散らばっている。省吾が無言で頷いてごみを背後の砂浜へと投げ捨てると、真凛は満足したように頷いた。
「じゃ、これ」
そう言って彼女から渡されたのはパラコードだ。雨が降っているので手の空いているものはせっせと洗濯をしているし、いつの間にか省吾のいる端にまで物干し竿がわりのロープが迫ってきている。彼が高い身長を活かしてロープを張り巡らせると、張った傍から真凛がせっせと洗濯物を干しだした。
「隼人たちは?」
「体洗いに行った。笹原のおっさんは荷物用のタープで燻製してる。流石に服まで燻されちゃ困るし。省吾も、これ終わったらお風呂行ってきなよ」
「風呂、ね」
天然のシャワーは勢いを弱める気配はない。最後のパラコードをきつく結んで、省吾は小さなタオルだけを握り締めてその中へと飛び込んだ。
□
洗濯も幾度か回数を重ねれば、勝手がつかめてくる。水の無駄遣いも減って現在の洗濯物は煤で黒ずんでもいないし、大きな成果だ。
灰はそのまま水に溶かすとどうしても服に色移りしてしまうので、大きなTシャツに包んで水に浸していると徐々に黄色みがかった水へと変化することが分かった。灰に含まれる成分が皮脂や汚れを分解するのに必要なだけで、馬鹿正直に灰を服へと塗りたくる必要はないのだ。これがわかってからは、食器の洗浄だったり、洗濯だったりが随分と楽になった。
溜まっていた洗濯物を片付けて、鈴子は大きくため息を吐く。
今日の予定はすべて白紙になった。サルに対する危険性がないと判断されたので、再び薪や食料を集める予定だったのだ。今日明日ではないが、遠征に行く計画だって立てていた。一つ事が進むたびに、足止めを食らっている気がする。
それに麟太郎のこともある。特効薬になる植物なんて鈴子は知らない。それでも、少しでも麟太郎の体力を回復させ、病と戦える体力を取り戻すためには体を温める効能がある食材や滋養強壮に良いものが欲しかった。
幸い麟太郎の容態は目に見えて悪化はしていない。確かに腕にあった裂傷は太ももやわき腹にまで広がってはいたものの、昨日は肉の入ったスープだって少しは口にした。食事ができたのなら、きっとあの少年は打ち勝てるはずだ。
そう、自分に言い聞かせた鈴子は濡れた手をシャツで拭い、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
――不安。
誰しもが前向きな言葉を言う中、自身にも言い聞かせるように「大丈夫」と繰り返していた鈴子の脳裏に本心がよぎった。
本当はとても不安だ。こんな野宿みたいな生活で、治療どころかまともな医療知識すらない。きっと大丈夫、治る。そう言い聞かせていても、彼女の心の中には不安や恐怖でいっぱいだった。
麟太郎は鈴子の歳の離れた弟と同じ歳だった。彼女の弟はあれほど活発的ではないし鈴子に対しては生意気な態度ばかりだけれど、おいしそうに食事する姿やタープで暇を持て余してそのまま寝込んでしまう麟太郎に彼女は弟を重ねざるを得なかった。
弟がこの場にいないことをとてもうれしく思う。もし病に倒れているのが自分の実の弟だったならば、鈴子はここまで冷静に自分の役割に徹しきれないだろう。取り乱し、泣き喚き、一日中弟の手を握ることしかできないかもしれない。
だから鈴子は、この場に流れ着いたのが自分で良かったと心から思った。家族は日本で今まで通り幸せに――行方不明の鈴子を心配しているとは思うが――過ごしているのだと、そう思うだけで彼女の心にはわずかな平穏が訪れた。
しかし十数日という短いようで長い時を過ごした麟太郎は彼女にとって実弟ほどとはいかないが、十分心の一部に入り込んでいると鈴子は気づかなかった。
□
バケツをひっくり返したような土砂降りの中、ジェシカの口から切ない吐息が漏れた。
日に焼けた健康的な肌はいつからか黒ずみ、布を裂いて作った包帯には血が滲んでいる。こんな状況に置かれながらもいつも声を張り上げながら笑っていた顔は黄ばみ、好奇心にキョロキョロと落ち着くことのなかった瞳も今ではまるで穏やかに眠るように伏せられていた。
現実味がなくて、悪い夢を見ているようだ。ジェシカは縋るように眠る麟太郎の胸へと縋るが、昨日までは壊れるんじゃないかと心配していた早い心音が感じられなかった。
ふいに、横たわる麟太郎の姿が揺らいだ。いや、視界が歪んでいるのだ。自分が泣いているのだとようやく気付いたジェシカは、言葉にならない声をあげる。
――The most insane thing I've ever heard!
雨音にかき消された声でも誰かに届いたのか、駆け付けた誰かに縋りつく。口汚く何かを罵りながら、ジェシカは泣いた。
「It's awful!! Nightmare? Is it right? Tell me you're lying, please......Please!!」
青い顔をしたフェイが麟太郎の腕を取り、首を振る。真凛と鈴子はお互い抱き着くようにして涙を流していた。
ジェシカが麟太郎へと腕を伸ばそうとすると、彰浩がそれを阻むようにして彼女のか細い腕を取った。
「駄目、です」
「Fuck off!!」
「駄目です!」
ジェシカの力では彰浩の腕を振り払うことはできない。確かに、感染症の疑いが強いため麟太郎に触れた後は手洗いを徹底していた。何から感染するかはわからないが、血をはじめとした体液には現状できる限りの警戒をしていたのだ。取り乱した自分に今まで通りの対応ができるとは思わなかったが、それでもジェシカは邪魔をする彰浩が親の仇のように憎悪した。
今まで口にしたことのないような――親に聞かれたら泣かれるような――言葉を彼にぶつけながら、彼女は悲鳴のような泣き声をあげる。伸びた爪が腕に食い込み血が滲もうともジェシカを離そうとしない彰浩は、内容は理解できなかったが彼女の罵倒を無言で受け止め続けた。




