サファイアの誘惑 終
一旦区切りです。
結局私は頻繁に王城に呼ばれることになった。
基本的にマリア様と一緒に、だけど。マリア様は忙しいから、1人でいくこともある。女官長のリゼリア様という方と女王陛下と3人でテーブルを囲んでお茶を飲む日もある。
「私、貴女がこの国に来た日に一応顔合わせしたのよ?」
と、リゼリア様。もちろん記憶にない私は、首を傾げた。
「勿論貴女は意識がなかったから、知らないわよね」
「ええ、残念ながら」
「あれ以降全く会わないことになるなんて思いもしなかったけど…こうしてまた会えて、嬉しいわ」
リゼリア様は優しい。アリシア様はマリア様も大好きだけど、リゼリア様は特別だ。幼い頃からずっと一緒にいると言っていたから、家族同然なのだろう。
「サボりすぎたわ。私はもう戻るわね、アリシア様」
「もう?」
「貴女も仕事しなさい」
リゼリア様はそう言って、書類の山をアリシア様に押し付けて帰っていった。アリシア様は渡された書類をそのまま机の上に置いて、キラキラした目で私に言った。
「ね、外に行きましょう」
「外に?」
「といっても庭だけど」
アリシア様は私の手を引いて、立ち上がらせた。美しいドレスのスカートを整えて歩き出す。慌てて追いかけて、アリシア様の隣に並んだ。
「私、リビエラが羨ましかった」
誰もいない廊下を歩きながら、アリシア様はそう言った。
「どうしてですか?」
「好きな人に囚われたから」
「私とローエンの関係が、ということですよね…」
よく、わからない。マリア様には飼い主とペットだと言われた微妙な関係性のどこが、羨ましいのだろう。
「私は、私のために死んでくれる人じゃなくて、私のために生きてくれる人が欲しい」
「それって」
意味がわからなさすぎて私は暫し戸惑った。女王はにっこり笑って、私の手をぎゅっと握った。
「私から何もかも奪って、壊さぬよう全力で守ってくれる人が欲しい。ローエンとリビエラはまさにその関係だったから、羨ましかった」
女王はそう言って、やはり笑っていた。儚い笑顔だった。私はローエンとの関係に満足していなかったけれど、そんな関係でも誰かに羨ましいと言われると不思議な気持ちになった。
「でも今の方が、楽しそう。健康的だし」
「そうですね」
女王はくすくす笑って、つられて私も笑った。
「リビー」
廊下の端から、ローエンが私を呼んでいた。呼ばれると嬉しくて、自然と足が軽くなる。転ばないように気をつけながらローエンに駆け寄った。
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「君は良いよなあ」
「…何が?」
同僚のグレアムはそう言って嘆息した。僕は興味はないけれど、礼儀として一応聞き返してみた。グレアムはぼそぼそと僕に不満をぶちまけはじめる。
「君は女王と普通に直接話せるくらいに覚えめでたいから、通したい案件はすぐに直接話を持っていける。俺なんか、話に行っても毎回自己紹介から始めないといけないから」
僕の知ったことか。覚えられていないのは君が無能で話す価値がないと思われているからだ。…とは言えず、僕は黙って彼の話を聞いた。
「あと舞踏会とか夜会に呼ばれない…」
「…もっと存在感を出したら良いのでは」
手に持っている予算案、出来は悪くないのだから早く出せば良いのに。流石にそこまでは言えず、僕は口を閉じた。
「…ああ、覚えてもらうだけなら、女王の愛人に立候補したら良いんじゃないかな」
「嫌だよ、恐ろしい。女王の愛人の末路がどうなるか…」
「………塔から身投げ?」
「俺は絶対に嫌だ。俺は細く長く生きる」
「……ああそう」
まあ今の愛人が塔から身投げコースなのかは、わからないけど。
「なあ、なんとかしてくれよ。お気に入りのお前からの紹介とか」
「…それをして僕にメリットがあるなら、そうするけど」
「今度の出張予定、俺が代わる」
「乗った」
それは大きい。僕は遠いラガソールにはやはり行きたくない。グレアムなら上手くこなせるだろうし、やる価値はある。
誰もいない長い廊下の先から、くすくすと笑い声が聞こえた。グレアムははっと笑い声の主を探す。
紛れもなく女王の笑い声だった。女王と、その隣には僕の妻のリビーがいた。2人揃って歩いていた。庭にでも行くのだろう。
「百合の美女だ」
グレアムがぽうっと惚けた顔で言った。
「百合の美女?」
僕が聞き返すと、グレアムは猛烈に首を縦に振った。
「女王陛下のお隣の方。最近よく女王と歩いてるのを見るんだけども、近寄ると百合の香りがする」
だから百合の美女、か。誰だか分からないからそんな名前が付けられているらしい。僕は笑いそうになるのを堪えながらグレアムに続きを促した。
「綺麗だよなあ。みんな話しかけたいんだけど、女王が怖いから…男どもがみんな百合の香りでぽーっとするから、女官どもが真似して百合の香水付け始めてるんだ。おかげで本物が見つけにくい」
確かに最近、城中で百合の香りがすると思った。香水がたくさん売れてマリア嬢の懐も潤ったことだろう。
「あんな綺麗な人を妻にしたいな、っていうか俺絶対あの人口説き落とすから見てろよ。そういえば君んとこの妻はどうなんだ?馴れ初めは?一度も合わせてくれたことがないけど」
流石の僕も、これには笑いを堪えられなかった。思わず低い笑い声を漏らし、にやつく顔で訊ねる。
「…会いたい?」
「勿論!どうせ大した妻じゃないんだろ?今まで見せてくれなかったってことは」
自然と口角が持ち上がって、僕は女王と百合の美女に向かって声をあげた。
「リビー」
呼ぶと、百合の美女…つまり僕の自慢の妻のリビーは嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。グレアムは驚愕の顔のまま固まった。リビーに釣られて女王もするすると近寄る。グレアムがこっそり一歩後退するのを感じながら、リビーの腰を抱いた。
「ローエン、ここで何をしているの?」
「…僕の職場に来ておいてそれは酷いな」
リビーはくすっと笑った。
顔面蒼白のグレアムにリビーを向き合わせる。リビーはグレアムの顔を見て不思議そうに首を傾げた。でも愛想笑いくらいしないと、と思ったのか、リビーは余所行きの微笑みでグレアムを見上げる。グレアムは顔面蒼白から、ぽうっと頬を紅潮させた。
「…グレアム、僕の妻のリビーだ」
「つ、妻……?…りび…」
グレアムはまた顔面蒼白になった。
「…リビー、僕の同僚のグレアム。君とお友達になりたいんだって」
「まあ、お友達に?大歓迎よ」
リビーが邪気のない笑顔でグレアムに手を差し出し、グレアムは魂を飛ばしたままの状態で握手を交わした。女王が、これまた邪悪に笑った。普通に面白い光景なのだが、こういう拗れた状態を喜ぶ邪悪な女王にはより面白く映ったらしい。良かったなグレアム、これで女王に記憶されたことだろう。
「…君のお願いを2つも叶えてあげたけど、今後の出張も代わってくれるよね?」
肩にぽんと手を置いて囁くと、グレアムの顔から血がサーーッと降りていった。
「お前、人が悪いな」
「貴女がいつまで経っても家臣の顔を覚えないからですよ」
その後、僕が書類の山を持って女王の執務室に行くと、女王は楽しそうに笑っていた。
「…リビーがこの城の中で百合の美女と呼ばれているらしいです」
「ジョシュアから聞いた。誰も名前を知らない人なのだから仕方ないだろう?私にわざわざ聞きに来る勇気のある奴はいないのだし」
そうですね、と小さく言って僕は黙り込んだ。女王は相変わらず僕をにやにやと見つめている。
「今回のマリアの行動だが」
「リビーを拉致した件ですか?」
「言い方はともかく、それだ。…ジョシュアからマリアを叱ってある。いい加減お節介が過ぎる、と」
「…反対なさらないのですか?」
女王はマリア嬢の行動を咎めたりしないと思っていた。お気に入りなのは間違いないし、たとえマリア嬢が何か法を犯すようなことをしても、笑顔1つで不問にするのかと。
「今回はたまたまリビエラの治療が上手くいき、たまたまお前の方も問題の解決ができていた。だから丸く収まった」
「…そうですね」
「もし、リビエラの容体が悪化していたら?後継の問題が解決せず、腹を立てたお前がリビエラをそれまでより支配しようとすれば?その結果、ラインラルド家とカドガン家の間に埋まらない溝が出来てしまえば?…リビエラに手を出すのは、リスクが高すぎた。マリアはリビエラを家になんて呼ばず、そのまま放置していれば良かったのに。私がどうにかするのをただ待っていれば良かったのに、と」
女王からマリア嬢への苦言を聞くのは初めてだった。僕は小さく頷きつつも、女王の軽い怒りに慄いた。
「私はマリアが好きだよ。とてもね。だから、出来ることと出来ないこと。手を出して良い問題と出してはいけないことの見極めをさせたいだけ。お節介なマリアには無理な話かもしれないけれど」
「…お節介」
「可哀想だと思えば誰にでも、自分を顧みずに助けようとするマリアの心意気は勿論大好きなのだがね」
マリア嬢から見たリビーは、可哀想だったのか。僕はリビーにそう思わせないように必死で囲い込んでいたけれど、その方が痛々しく思えたのだろうか。窮屈だったのは、否定できないけれど。僕が鉄壁の守りを与えるより、こうして外に出て誰かと触れ合うほうがずっと良いらしい。
「まあ、私としては、お前たちが勝手に歪みあって丸く収まるならそれはそれで構わないんだがな」
「…そうでしょうね」
結局のところ、女王は僕たちの事情なんてどうだっていいのだ。観賞用として楽しむけれど、今は女王自身の恋愛が忙しいようだし、本当に構っていられないのだろう。内政に影響するかも、と思ったから怒ったのだ。ただそれだけ。女王にとってはカドガン家がどうなろうと、次のカドガン伯爵が誰であろうと、どうだっていい。僕が女王のために働いている限りは、些細な事情なんて取るに足らないのだ。
「夏にオーランの王太子が妻を連れてやって来る。手配はお前に任せるよ」
「…………今回の騒動の責任を取れということですか」
「妾も来るらしいが、勿論王太子妃とは不仲だから、お前の家に預けようと思う」
「……それは……………かしこまりました、陛下」
リビーがどう思うか、僕は思案した。女王が今回の騒動でそれなりに思うことがあったようだし、これはある種の罰だから、仕方ない。受け入れるしかない。さすがにこれを断る勇気はなかった。
「家族の再会だな。デズモンドも呼ぶか?」
「……これ以上は胃が耐えられない。…勘弁してください」
「ふうん、残念」
女王はくすっと笑った。僕は笑えない。デズモンドを家になんて呼ばない。大人しく領地に引っ込んでいてほしい。
「…実は騒動を起こしたがっているのではありませんか?」
「私にメリットのある騒動なら大歓迎」
「…これがメリットになると?…今回のは貴女のメリットにはなりませんか」
「メリットにはなったけど、マリアのお節介が気になった。だからマリアにはジョシュアからのお説教程度で終わらせた。次のは確実に私のメリットになる」
女王の邪悪な笑みが深まる。メリット、分からないでもない。僕を使う理由も、分からないわけではない。でも、だからこそ気に食わない。
僕の顔を見て女王はまた笑った。
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「ステラ、本当におめでとう!」
「ありがとう」
白いウェディングドレスに身を包んだステラに、白い百合を一輪差し出す。ステラははにかんで百合を受け取った。煉瓦色の髪と同じ色の瞳のステラは、私とローエンをゆっくりと見つめた。
ステラはこの国に滞在していた間に、私の話し相手をしてくれていた。だから私はステラとは仲良しで、この結婚は心から祝福している。
「妻が世話になりました」
ステラの夫となるギルベルトという男は、ローエンが言っていた以上に美形だった。神々しいほどの美しさだった。地上に堕ちた天使とも、よく出来た精巧な彫刻とでも喩えるべき容姿だが、残念ながらそのどちらでも表しきれないほどの美だった。北国出身のステラは相当肌の色が白いと思っていたが、ギルベルトはそれ以上に白く、薄い銀色の髪に、さらに儚い色をした目は、今にも壊れそうなほどに繊細だった。軍人らしいしっかりした肉体とは相反する儚さに、女性陣はみんな溜息を漏らしていた。
「騙されちゃ駄目、中身はゴミが詰まってるような男だから」
ステラはくすっと笑って、私にそう言った。
「そんな男とこれから結婚の誓いを立てるくせに」
ギルベルトが意地悪くそう言うと、ステラはは楽しそうに微笑った。そんなステラの笑顔が可愛らしくて、私は心からの笑顔を返す。
2人の祖国、ラガソールは北国で、花がほとんど育たない。育つのは短い夏の間だけ。そして花は贅沢品だ。
伝統的に、ラガソールでは夏の間に結婚式を執り行い、花嫁が持つブーケは参列者が一輪ずつ持ち寄り、花嫁に差し出して最後に1つの大きなブーケにするのが習わしだ。この国で結婚式をするにしてもその伝統は守りたいと、2人からの強いリクエストがあり、その形式が守られることとなった。私とローエンは話し合って白い百合を持っていくことに決めた。
それから、何食わぬ顔でアリシア様が参列していた。恐縮しきりのステラにカトレアを差し出す。ステラに変わってギルベルトが受け取り、優しくステラから花束を取り上げて簡単に纏めてブーケにした。
2人が誓いを立てるところで私は感動のあまり泣いてしまった。ステラの衣装を用意したマリア様も、こっそり泣いていた。アリシア様も嬉しそうに見ていた。
「本当に綺麗だわ。見違えるよう」
「…どっちが?」
ローエンが真面目にそう聞いて来たので、思わず吹き出した。実際ローエンが心配していた通り、私がギルベルトにぼけっと見惚れてしまったのは隠せなかった。
「ステラが」
「…確かに綺麗だね。マリア嬢は流石に腕が良い」
「本当よ、騎士っぽいゴツさが綺麗に消えているもの」
ステラは女騎士で、国では王女の護衛を務めていた。その王女様が嫁いでしまってお役御免になったが、今でも剣の手入れと鍛錬は欠かさない、真面目な女騎士だ。
そんなステラの筋肉質な体を、そうとは感じさせない見事なドレスは、マリア様が用意している。
誓いの言葉を言った後、まとめられた花束を、ステラが後ろ向きに投げた。天高く舞い上がった花束を、未婚の令嬢が取ろうと手を伸ばす。色とりどりの花束は、やる気のなさそうに欠伸をしていたアリシア様の手の中に落ちていった。
「良い式だったわね」
「陛下がブーケを取らなければもっと良い式だったと思う」
くす、と笑うとローエンも小さく笑った。陛下がブーケを取ったせいで、会場は一瞬静まり返った。アリシア様だけは困った顔で微笑っていた。アリシア様は愛人と落ち着くつもりがあるのか、それとも全くないのか、どっちつかずだ。
私とローエンは馬車に揺られて屋敷に帰る途中だった。
「…体調はどう?」
「悪くはないわ。今日も元気よ」
今でも薬草茶は続けている。
外出をすると翌日に体調が悪くなるのは変わらないけれど、悪夢はあれ以来全く見なくなった。自分と向き合って、やっと大切なことがわかったような気がする。まだ暗闇も、狭いところも、寒いところも怖いけれど。でも、ローエンがいてくれればそれでいい。牢獄の思い出はいつか薄れて行くのだろう。
いつか、牢獄の記憶が思い出せないほど遠い過去になったら。身体が元どおりに戻ったら。
そうなれば、その先のことはその時に考えたい。
今はただ、ゆっくりとゆるい幸せを噛み締めて、私とローエンらしく、ただ生きていたい。
また書きたくなったらもう一騒動書きます。
 




