余章2 灯籠
八月。
深い青に白いニョキニョキとした入道雲が映える空は、夏の暑さを感じさせながらもどこか秋の寂しさを少しずつ抱え始める。
終戦記念日が近づくと、テレビは古い映像を流し新聞は特集を組む。あの戦争で亡くなった人々への鎮魂への想いが少しずつかき立てられる。
八月は、私たち日本人にとって鎮魂の季節でもある。
そのような中で、日本のすぐ隣の海では大きな国が蠢いている。
台湾のすぐ横の海域で大規模な実弾演習が繰り返され、ネットでは台湾の政府機関やインフラを狙ったサイバー攻撃が行われている。SNS等を通じ、台湾総統の逃亡リハーサルがあったとか、前回の総統選挙が不正選挙だったと主張する偽情報が流布される。
戦争一歩手前のグレー領域というのが専門家の見立てだ。黒い雲が日本のすぐ隣の島を覆いつくしつつある。
ロシアはウクライナで、アメリカはイランで兵を動かしている。力で国境を書き換えることへの国際社会の抵抗が薄れつつあるのだ。
アメリカがイランに関与している今は、太平洋はどうしても手薄になる。それはかの国にとって恰好の好機に見えているのかもしれない。
しかし米国が台湾を見捨てることはない。米国は、AIにかかる半導体技術が中国、中国を通じてロシアにわたること、それを強く懸念している。だから、軍事衝突が起きれば、どちらも退けないチキンレースになる。そして日本はその両国の隙間にあるのだ。
沖縄をはじめ、日本には多くの米軍基地があり、その嵐は日本にもやってくる気配を漂わせ始めている。
そのようなきな臭い空気の中で、八月十五日には、政治家にとって一つの試金石とされるイベントがある。いわゆる靖國神社の公式参拝だ。
「『灯』は、どうするのか」マスコミの注目は我々だ。
正直に言って、私自身はそれほど重きを置いていなかったイベントだ。
良いとか悪いとかではなく、「無関心」である。しかし、あたかも私たちは踏み絵を踏まされるように、マスコミが注目度を上げてくる。
今更ながら、私は「灯」としてどうするかを決めなければならなくなった。
そもそも靖国神社とは何か。
それは、明治時代に、明治維新の志士や殉職した軍人を祀るために建立された旧軍部管轄の神社として建立された神社であり、その歴史は決して長くはない。
GHQによる旧軍解体に加えて、いわゆる太平洋戦争の「A級戦犯」(A級戦犯と言っても一方的に軍事法廷である東京裁判で裁かれた事情があり、公平性の観点から疑義もある)が祀られたりといった事情により、かなり物議を醸すものになった。
他方で、旧軍では「靖國で会おう」等と兵士同士が言い合い、死に向かう兵士の心の支えとなっていた。だからこそ、遺族会の強い支援を得ているという状況がある。
****
八月十五日まであと五日。
考えあぐねていた私に、一人の支援者から、あの戦争の時代を生きた当事者・・・既にもう数少ないが、その人から話を聞いてほしいとの話があった。
「灯」を最初期から支えてくれた教師の母親。
今年で八十八になる静江さんだ。
静江さんにお会いすると、その年にしてはかなり矍鑠とした人だった。車いすで、少し耳は遠いが、朗らかな笑顔を見せてくれた。
静江さんは、ゆっくりと自身の記憶を語り出した。
「まず、私自身の話からさせてください。私は、五歳の夏を満州で迎えました。私の父親は建築技師で、新京で大きな石造りのホテルを建てると言われて家族で海を渡っていたのです。しかし、昭和二十年の八月、何もかもが崩れました。ソ連が侵攻してきて、頼りの関東軍はあっという間に崩れ、満州はソ連軍に飲み込まれました。
父は、八路軍——抗日のゲリラに捕らえられましたが運よく命からがら脱走してきました。線路はありましたが、日本本国に通じる列車はもう一つも残っていませんでした。父は、日本人のグループと一緒に、母と九歳の兄と五歳の私を連れて日本へ向けて歩き始めたのです。
新京から釜山まで。日本に置き換えれば、約1000キロ、東京から下関ぐらいの距離になります。昼は木々の陰に潜み、夜、月あかりの下を進みました。家を出る前、母が固いクッキーを焼いていました。穴が一つのものはそのまま食べ、穴が二つのものには、紙幣が仕込んでありました。それを道々、食料や、現地人からの見逃しと引き換えにしたのです。
もちろん、それも徐々になくなり、後は物々交換しかありませんでした。
歩けない子が、次々に出ます。親は一人を背負って進み、また戻って、もう一人を迎えに行く。……戻れなかった子もいた。泣く泣く道に残していった親も。夜のうちに、親子ごと消えることもありました。釜山に着いたのはもう冬でした。船上の兄は、シャツ一枚でした。ほかは全部、道中で食べ物に換えてしまったのです。日本に帰ってからも、栄養失調で、食料がなく苦難の日々でした。それでも、生きて帰れた私たちは、幸運だったと思います」
静江さんは私と一緒にいる二歳の灯里に目をやった。
「...この子と同じ歳の子が、たくさん、あの道に残されました」
そうして、自分自身のことを語り終えた静江さんはもう一つの話へと話を進めた。
「私には、一人の従兄がいました。私のことをとてもかわいがってくれていた人でした。その人は当時大学生だったのですが、学徒出陣による特攻で沖縄の海に消えました。まだ二十歳でした。伯父は、南方の島で死にました。それも、アメリカ軍の弾ではなく、飢えと病で。遺骨は還りませんでした」
「あの人たちを、英霊だと。讃えてくれる人たちがいます」その目が少し揺れた。
「でも、別のところでは……本当にそうだったのだろうか、と思う自分もいます」
湯呑みを持つ手が細かく震えた。
「ほとんどがアメリカの船にまで届かなかった特攻機。一発も撃てずに餓死した一兵士。それを『英霊』と呼んでよいのか。私は、今に至るまで、その答えを持っていません。ですが、今の私たちがいるのはああいう方がいらっしゃったお陰だと言われ、『英霊』だと聞くと少しだけ誇らしい気持ちになるのも確かなのです。」
私は、言葉を返せなかった。
『立派だった』と言えば静江さんは救われるのかもしれない。
ずるい計算だが、政治の風にも乗れる。
・・・だがそれは、あの人を爆弾に変えた仕組みを丸ごと肯定してしまうことにならないだろうか。
次の誰かを、また同じ場所へ送る理屈になりはしないか。
その死は無駄だったという認識が本当は「正しい」のかもしれない。
だが、それはこの人が八十年、握りしめてきたものを、叩き割る言葉だ。
私は、どちらも言わなかった。言えなかった。
その代わりに、震える手にそっと自分の手を重ねた。
私が言わなければならない言葉があるような気がした。
「……私たちが、その死について、後から意味づけをすることはできません」
静江さんの目が、見開かれた。
「私たちにできるのは、その人たちが『いた』ということを忘れないこと、その人たちが何を思ってその場に立ったのか、そのことを知り、その人たちがそこにいたことの証を後世に伝えること、それだけなのかもしれません」
静江さんは、私の言葉に目を見開いた。そして、深く沈黙した。
私はその後に続く言葉を待った。
そして彼女は、ぽつり、とこういった。
「従兄の遺書があります。公式な遺書ではなく、基地の人に託され、戦後にこちらに来ました」
そして、こう付け加えた。
「今まで誰にも見せたことがありませんでした」
古い黒塗の木の紙入れ。それを開けると黄ばんだ紙があった。そこには幼さの残る字で、鉛筆でこう記されていた。
——お国のために死んできます。でも、本当は、母さんの作る握り飯をもう一度食べたかった。お元気で――
「ずっと、恥ずかしいと思っていました。英雄と呼ばれるなら、もっと、立派な——」静江さんの声は消え入りそうだった。
「いいえ」と、私は遮るように言った。
「これが本当の言葉です。立派でなくて良かったんです。その人がどんな人で、最後にどんなことを考えていたのか、それを本当に知ることができる言葉です」
静江さんは、しばらく黙って、それからぽつりと言った。
「私はね、先生。きっと・・・あの人を神様にしてほしいわけじゃなかったのです。ただ……国のために連れていかれて、死んだらそれで終わりで・・・あの人がいなかったことにされたくない。そういう気持ちだったんだ、と今初めてはっきりわかりました」
いなかったことに、されたくない。
その一言が、私の中でこんがらがっていたものを静かにほどいた。
「英霊」と、金の額縁で持ち上げること。
「犬死に」と、一言で切り捨てること。
正反対に見えて、実はその二つは同じだ。
等身大の二十歳の青年の死を大きな言葉で塗りつぶしているのだ。
静江さんが本当に欲しかったのは、そのどちらでもなかった。その人が「いた」と認めること。
忘れないということ。
それは今を生きている人にも、あの戦争で死んだ人にも、変わらず、一人の人としてあるべき姿だ。
****
そして八月十五日。
新誠党の党首は、議員たちを引き連れ、胸を張って靖国神社の鳥居をくぐった。
カメラの砲列が、その一団を追った。
国のために死んだ英霊に国として頭を下げる。力強い一枚の絵だった。
他方で、その朝私は一人でひっそりと靖国に参拝した。
政治ショーにはしない。あそこに身内がいると信じて手を合わせに来る人がいる。その思いを踏みにじらないためだった。
それに、あえてあの時は触れなかったが、あの方々の犠牲が本当に全て無駄だったわけではない。例えば、神風特攻隊は、とある有名な小説では戦果がほぼゼロであるかのようなことが書かれていた。
しかし、沖縄戦での特攻は、戦後の米国戦略爆撃調査団の調査報告書では米軍に物質的・精神的に大きなダメージが与えられ、それが日本本土への上陸をためらわせ、他方で日本政府の上層部には降伏を行う時間を稼ぎ出した要因であったことが書かれている。
それがなければ、もっと悲惨なことになっていたのかもしれない。
かもしれない、というだけで本当のことは誰にも分からない。が、そういう人々がいたからこそ今の日本がある。そう信じられる部分は確かにある。だから、先達に向けて感謝の念を向けることは私の信条に反しない。
だが、個々の人々の死に落とし込んだときに、勝手にその人たちを国のために死んだ英霊だと祭り上げることは、亡くなられた方の心に反しないのか。そういう思いが強くなった。
そしてその足で千鳥ヶ淵へ回り、静江さんと合流した。私は静江さんの車いすを押させてもらった。
名も、故郷も分からぬまま還ってきた、数十万の遺骨が眠る場所。
骨さえ還らなかったあの伯父のような人。
満州からの道に残された名も知らぬ子ら。
「英霊」の額縁には収まらない、けれど確かにいた人たちのために。
静かに手を合わせた。
****
千鳥ヶ淵の戦没者墓地を出ると、記者たちが待ち構えていた。
マイクが私に突き出される。
質問は、両側から飛んできた。
物理的にも、イデオロギー的にも。
「公式参拝に加わらなかったのは、英霊への侮辱ではありませんか」
「この時期に靖国へ参拝したこと自体、近隣国への配慮を欠くのでは」
参拝したことを責める声と、参拝しなかったことを責める声。
正反対の問いが、同時に、私へ向けられていた。
どちらかの旗をいますぐ掲げてみせろ——マイクは、そう迫っているようだった。
私は、答えようとした。
―遺族の思いを尊重し、他方で亡くなられた方々の思いを考えこのような選択をしました。
しかし、それはかなりこみいった話でもある。
この場で一言で答えるのは乱暴でもあり、いつぞやのようにマスコミに好きなように切り取られてしまう懸念があって、少し逡巡した。
そのときだった。
「——少し、よろしいでしょうか」
静江さんだった。
車椅子の上で背筋を伸ばし、静かに、しかし有無を言わせぬ声でそう言った。
私に突き出されていたマイクが、老いた声のする方へ、ためらいがちに向きを変えた。
「私の従兄は、大学生でした。学徒出陣で、二十歳のときに、特攻で沖縄の海に消えました」
静江さんは、膝の上の古い紙入れを、そっと開いた。
「これは、その従兄の遺書です。八十年、誰にも見せたことがありませんでした」
黄ばんだ紙を、震える手で持ち上げる。そして、ゆっくりと読んだ。
「……お国のために死んできます。でも、本当は、母さんの作る握り飯を、もう一度食べたかった。お元気で――」
カメラのシャッター音が、止んだ。
「あの人が、英霊だったのか。犬死にだったのか、その答えを私はずっと探してきました」
静江さんは、まっすぐレンズの向こうを見た。
「私の問いにこたえてくれたのが、先生です。先生は、英霊とかそういう大げさな言葉で塗り固めるのではなくて、ただ、そこに等身大のその人がいたということ、その人を思うことこそが大事だったのだと」
声が震えていた。
「あの人がただ、そこにいたと。死んだ理由に目を向けて、色々なことを言われるのではなく、ただ悼むこと、それがやっとできたと思います」
誰も、何も言わなかった。
突きつけられていたマイクが、いつのまにか下ろされていた。
私が言えなかったことを、この老婦人が、たった一人で言いきった。
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いま、この国の海を守っている人たちがいる。
私がするべきことは、彼らが万が一亡くなってしまったときに「英霊」と飾ることでは断じてない。
飢えの島へ、置き去りにしないこと。
撃てない装備で死地へ送らないこと。
そして何より——一発も撃たずに済むように、戦争そのものを、起こさせないことだ。
悼むことと、備えること。
祈ることと、抑止すること。
その両方を同時に。矛盾のようで、それがあの八月を知る国の責任だ。
単純な強さは、心地よく聞こえる。特にこの不安定な状況下ではなおさらだろう。だか、私がするべきことはそういうことではない。それがはっきり分かった。
あの日、千鳥ヶ淵からの帰り、車椅子の中で、静江さんがぽつりと言った。
「私は今日、やっと心からあの人の死を悼むことができたように思います。ありがとう」
皺だらけの手が、私の手をそっと握った。
その一言だけで、私は、四方から飛んでくる石にいくらでも耐えられた。
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その夜、私は、灯里の手を引いて川へ行った。
灯籠流し。小さな灯を載せた籠が、いくつも暗い水を下っていく。
一つひとつが、還ってこなかった誰かだ。その中には、この子と同じ歳の子も含まれている。
灯里が、指をさして「きれい」といった。この子には、まだあの火が何なのか分からない。
それでいい。
この静かな夏を守り抜くこと。
それが、灯をつなぐということだ。




