船出
世界観は前作の続きですが、完全に独立した作品です。
私、九条絵里香は、いささか変わった立場の新人候補だ。
まず、外見からして、白人で若い女性の姿(中身はコテコテの日本人だが)である。
また政治家として、私には何も基盤がない。
大きな政党の後ろ盾も、潤沢な資金も、代々受け継いだ地盤――票の見込める、地元の後援組織も、持たない。ふつうなら、勝ち目のない無名の挑戦者だ。
ただ、一つだけふつうの新人とは決定的に違うものがあった。
知名度だ。
私の顔と名前は、すでに、全国に知れ渡っていた。三年前、私は、世界的な美の大会、ミス・ユニバースの日本代表に選ばれた。
その後、2つの事件をきっかけに、私の名は、普通の政治家が何十年かけても届かないほどの高さまで知られている。
――もっとも、私が、なぜこの姿をしているのか。それには少し込み入った事情がある。けれど、その話はここではしない。いまの私を語るのにそれは必要のないことだから。
ともかく、その桁違いの知名度こそが、地盤も看板もない私の、たった一つの、そして何よりの武器だった。
私の陣営には、一人頼もしい人物が加わってくれていた。相馬さんという。もう六十を過ぎた、白髪の男性だ。かつて、私の養父――九条匡義の参謀を務めた人だった。
義父の九条は、若い頃から長く、この国の政治の中枢にいた人だ。数々の政権を、裏で支えてきた。いまはもう高齢で一線からは退いている。ある大病を境に、体力もめっきり落ちた。それでも、私にとってはかけがえのない家族だ。
相馬さんは、その九条のもとで幾度もの選挙を戦い抜いてきた、選挙のプロだ。
相馬さんは事前準備の日々で私に選挙のルールを叩き込んだ。
公職選挙法という、やたらと細かい法律のことだ。
選挙運動ができるのは、立候補を届け出たその日から・・・ということになっている。それより前に、票をくれと訴えれば、「事前運動」として法律違反になる。
他にも、一軒一軒家を回って投票を頼む「戸別訪問」は、たとえ相手が喜んでも一切禁止。金品を配るのも、有権者に飲み食いをふるまうのももってのほかだ。
また政治資金規正法もあり、いかなる意味でも知識は必要だ。
他にも、相馬さんは色々選挙に関するノウハウを教えてくれる。
私は、その一つひとつを、是々非々で受け止めた。従うべきものには従い、おかしいと思うものは理由を突き詰める。
その様子を、相馬さんはまぶしそうに見て「若い頃の九条先生に、よく似ておられる」と、ぽつりと言った。
そんな私のもとに、いつのまにか人が集まり始めていた。
奇妙な顔ぶれだった。どこかの組織に動員された人々ではない。
皆、自分の意思で手弁当で集まってくれた人たちだった。
彼らには、一つだけ共通するものがあった。いまの政治へのうんざりだ。
派閥だの、業界団体だの、古いしがらみで物事が決まっていく政治。
相手の揚げ足を取り、誰かを口汚くこき下ろすことで、自分を少しでもましに見せようとする政治。そういうものに、心底嫌気がさした人々が、私の旗の下に集まってきた。
「あなたは、何も隠さない」と、一人の主婦が言った。
「それだけで、応援したくなったんです」
若い会社員も、大学生も、定年を過ぎた元教師もいた。立場も、年齢もばらばらだ。それでも、一つの思いだけは確かにつながっていた。
そして、公示日の朝が来た。選挙運動が正式に始められるその日だ。
狭い選挙事務所は、朝から熱気に包まれていた。壁には手作りのポスター。机の上には、差し入れのおにぎりが山と積まれ、電話がひっきりなしに鳴っている。誰の顔にも、これから始まる戦いへの高揚があった。
夫の九条(旧名藤崎)曜一朗も、病院の勤務の前に、顔を出してくれた。医者である彼は、忙しい合間を縫って私を静かに支えてくれている。「無理はしないでください」と、それだけ言って彼は私の手をそっと握った。
出発の前、相馬さんが皆を事務所に呼び集めた。
「円陣を組もう」
誰かが言い出した。選挙で円陣を組んでいるのは見たことがないが、それが私たちにはとてもふさわしいものに思えた。
十数人が肩を組み輪になる。その中心に私も入った。
「絵里香さんを、必ず、国会へ送る! いいな!」
相馬さんの、しわがれた掛け声に全員の声が、一つに重なった。
「はい!」
天井に声が突き抜ける。ばらばらだったはずの人々が、その一瞬はまぎれもなく一つのチームになっていた。
私は、胸が、熱くなった。
第一声を上げる場所は、駅前のロータリーだった。
けれどその日の光景は私の想像をはるかに超えていた。
私が到着する、ずっと前からそこには人だかりができていた。
私の姿を一目見ようと、集まってきた人々だ。スマートフォンを構える者。手を振る者。
「絵里香さん!」と、遠くから呼ぶ声。
ふつうの新人候補が、第一声を上げても、足を止める人など数えるほどしかいない。それが、選挙の厳しい現実だ。それなのに、私の前には、黒山の人だかりができていた。
知名度は力だ。かつて、見世物のようにこの身体だけを見られたその視線を、私はいま私の言葉を聞いてもらうための力に変えようとしていた。
演台に立つその直前。
実は私はかなり緊張していた。
これまで私はもっと恐ろしい場所に何度も立ってきたはずだった。それなのに、政治家として初めての声を上げるその瞬間を前に指先がかすかに震えた。
私が背負うのはもう私一人ではない。私を信じて集まってくれた、あの人たちの思いがこの背に載っている。
その重みが、私を震わせた。
私は、集まった仲間たちの顔を見渡した。
相馬さんが深く頷いてみせる。あの主婦が両手を握りしめている。大学生がまっすぐに私を見つめている。少し離れた場所から藤崎が静かに微笑んでいた。
その一つひとつの目が私に告げていた。大丈夫だと。
私は、大きく、息を吸い込んだ。震えは、いつのまにか止まっていた。
そして、マイクを握り直した。
「おはようございます。九条絵里香です」
私が声を上げると、人だかりがしんと静まった。無数の視線が私に注がれる。
「人は、変化を恐れます」と、私は語りかけた。
「自分が、自分でなくなる恐怖は、人間の、いちばん深いところにある。だから私たちは、つい、昔のままがいいと願ってしまう」
「けれど、変化は、いつだって起きています。私たちの身体をつくる細胞は、日々、死んでは生まれ変わる。それでも私たちは、昨日の自分と、同じ自分でいられる。国も同じです。人が入れ替わり、時代が移っても、日本は、日本であり続ける。だから変わることを恐れないでください」
私は、一度、言葉を切った。
「正直に申し上げます。私は、政治家としては、未熟です。この国が抱える問題の、何もかもに、いますぐ答えを出せるほど、賢くはありません」
自分の未熟さを認める候補者を、人々は、意外そうな顔で見た。
「だから約束します。一つひとつの課題に逃げずに向き合い、とことん勉強して、私なりの答えを必ず出す。そしてその答えを出すとき、私が、最後によりどころにするのはたった一つの物差しです」
「その決断が、人を、人として扱えているか」
私は集まった人々をまっすぐに見た。
「立派な理想は、いりません。難しい理屈も、いりません。目の前の一人を数字でも道具でもなく、一人の人間として扱えているか。それだけを私は、問い続けます。……人が、人でなくなることの恐ろしさを、私は、これまでの人生で、いやというほど知りました。だから、これだけは、何があっても守り抜きます」
それは、空手形ではなかった。人の尊厳のために、私がこれまで何をしてきたか。それを知る人は、この国に少なからずいた。
演説を終えると、拍手が、波のように広がった。その中で、若い女性が一人、頬を紅潮させて叫んだ。
「絵里香さーん! 一生、推します!」
私は思わず苦笑した。政治家への声援としては、いささか勝手が違う。それでも、その声には、嘘のない熱がこもっていた。
船は漕ぎ出した。
変えていく。この国を少しずつ。人が、人として扱われる場所へ。
長く待った時間の、ようやく、その入口に、私は立った。私は、もう一度マイクを握り直し話を続けた。
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私は相馬義則。かつて九条匡義氏の選挙参謀をしていた者だ。今の時代には合わないような選挙活動もあると思うが相手を陥れる汚い手管もある。
優勢だからこそ「足元」を崩されるわけにはいかない。
絵里香さんの選挙区は結局東京の選挙区を選んだ。なお、九条の大先生の地盤は東北地方でこことは全く関係がない。
完全にゼロからの選挙だ。
ただ、だからといって何もしなくて良いというわけではない。
事前にこの選挙区で立候補することは与党には伝えていた。
調整するとかではなく伝えるだけだ。
絵里香さんが無所属を選んだことで、与党の候補者もこの選挙区には立っているが、与党側も絵里香さんの知名度を知っているのでここには敢えて強力な候補は立てていない。選挙後に絵里香さんが追加公認を受けること、又は無所属でありながら会派として協力する可能性があることは伝えていたが、それが功を奏した形だ。
絵里香さんの人柄は一言で言って素晴らしい。
九条大先生(※匡義)は正論を述べつつも清濁を併せのむタイプの政治家で、私は心酔していた。
今回、大先生から「今回だけ、絵里香に力を貸してやってくれんか」とお声がかかった。私はもう選挙に関わるには老いすぎて、あの体力勝負は私には厳しいと思いながらも、大恩ある大先生のお言葉なので一回だけならということで渋々と引き受けた。
まずは絵里香さんと会ってみた。もちろん、テレビや報道などで絵里香さんの情報は入っていたが、イメージ通り、いやそれ以上の人だった。
中身が本当の25歳の女性というわけではないことは知っていた。
だが、その識見にはひたすら驚かされる。正確には、その本質を見抜く目だ。
例えば公職選挙法の個別訪問禁止等についてレクチャーしていた。
それを、私は当然のものとして理解していた。
が、彼女は「禁止される本当の理由は何でしょうか。米国では許されているようですし、金品の受領などがあれば当然刑法や買収になるので別の法律で禁止されていますし」と問うてきた。
そして「結局、これは現職候補に有利な仕組み、というわけではないでしょうか」
確かにその通りだ。
現職候補は、既に在職していた時の実績や、陳情などで評価される。
翻って、新人候補は絵里香さんのような圧倒的な知名度がない限り、どぶ板的な選挙を余儀なくされる。それが色々手足を縛られるような仕組みは既存候補に相対的に有利に働く。
私は、30年近く選挙というものに携わりながら、その本質を考えたことがなかった。
自分自身で立候補しようと考えたこともなくはな
かったが、その違いこそが私自身が表舞台に立つことをためらわせてしまったのだろう。
私がそのことを述べると、
「では、これも変えないとですね」
絵里香さんは、躊躇いも衒いもなくそういった。
間違っているものを、そのまま間違っているままでは終わらせない。
そういった気概を感じる。
既に戦後70年以上使われてきた制度だ。その重みが彼女に理解できていないわけではない。
ただ、淡々と改めるべき部分は改めるべき、と表現して見せたことに私はまた驚かされた。
だんだんと政局が怪しくなり、そろそろ解散総選挙が見え始めたころだ。
彼女の下には色々なボランティアが集まってきた。
大学の同級生や友人の立花さん等は分かる。でもそれだけではない。
近所の主婦や、名のある会社のサラリーマン、元少年院のとび職の青年など様々な人が集まってくる。
そして何より驚いたのが、これらの雑多な人々が一丸となって行動していることだ。
絵里香さんが頭ごなしに何かを言うわけではない。たまに間に入って話を聞くことはあるが、それだけだ。
私は、こんな組織を見たことがない。
主婦の人に話を聞けば、「彼女の優しさが、色々な人に届くように」と言った。彼女には片足をなくした息子さんがいて今もその介添えをしている。かつて、絵里香さんを面前で罵倒したことがあったという。
それをその優しさで包み込んだ、そのことがなによりも彼女を変えさせた。
九条先生と似ているところもある。九条先生の事務所には、近所の八百屋さんから建設会社の社長まで色々な人が訪ねてきた。あの熱気は、もう二度と私は味わえないと思っていた。
だが、違うところもある。九条先生はあくまで自分がこうしたい、ということをいう人で、みんなが九条先生の言う事だからと従っていた。
しかし、絵里香さんは基本的に聞くだけだ。なのに人々が動く。
彼女の美しさもあるだろう。ミスユニバース日本代表だったということも納得の美しさで、しかもその姿はまだ少女のままだ。
結婚していることは公表しているが、独身だったら違う層のファンだけで全国から支持が集まってきそうだ。選挙的には残念だが。
当日、円陣を組もう、と誰かが言い出した。私もその中に加わった。
選挙事務所で、円陣を組んでいるところなど見たことがない。
当然だ。誰かを支持しているとしても、それぞれその理由は違うのだから。
テレビカメラも来ていたが、不思議そうにその姿を眺めていた。
かくいう私も、この数か月を見ていなければ全く理解できなかったに違いない。
年甲斐もなく体に熱がこもっている。冬なのに、暑いぐらいだ。
こんな熱気が心地よいのはいつぶりだろうか。
本作は完全に現実に根ざした政治ドラマです。
前作はかなり哲学的、内面的な観察を入れていましたが、今回は描きたいテーマが社会の変革なので、大分内容も変わります。
本作から読まれる方は、前作を前日譚的に読んでいただけると嬉しいです。




