プロローグ1
ふと目覚めた。
見覚えのない情景が浮かび、暫し呆然する。
数秒後に意識がはっきりしてきたので周囲を見回すと、色素の薄い空間が視界全体に広がっており、建物等の遮蔽物は存在しない。
しかしそんな不可思議な空間に人が存在するようで、やや離れた場所に長蛇の列を作る人々がいた。
どれ程の人数なのか、その先は見えない。
列の目的地を見ようとしても、霧がかかったように途切れて見えなくなるのだ。
此処は一体何処なのか―—。
まず浮かんだ疑問はそれだった。
自分の常識に照らし合わせても存在し得ない、超常的な景色だと感じた。
故に判断に足る情報が得られず、妄想の類として様々な憶測をするくらいしか出来ない。
次の疑問として、自分が何故ここにいるかである。
起きたら立った状態でこの変な空間にいたのだ。明らかに異常である。
自分からこんな場所に赴いた訳でもないだろうが、何者かに連れて来られたかとしても検討も付かない為、まず目覚める以前、最後に覚えている記憶を探る。
俺の名前は藤堂誠司。
27歳の社会人だ。
出社してから朝恒例の仕事を済ませた後に取引先に書類を提出しに向かったところまでは覚えている。
到着した覚えはない、その前…駅に向かう途中だ。
確か、いつもの如く襲ってくる体調の悪さに辟易としながら、溜息をついて空を見上げていた。駅前のタワーマンション新築工事が行われていて、クレーンが釣り上げている鉄骨。
普段なら興味も持たなかっただろう、だがその時工事現場側から不自然な動きを感じてその影の発生源を探したのだ。
するとクレーンのアームの先端が明らかに現場からはみ出しており、そのつり上げている鉄骨資材が揺れていた。
何が起これば足場を飛び越えて敷地外しかも歩道の上空に資材が顔を出すのか分からないが、俺はその状況に危機感を覚えた。
鉄骨が足場にぶつかり、跳ね返ったもののその衝撃で吊り帯からずれ落ちてしまった。
そんな簡単に取れるとは油でも塗ってあったのか― 益体もない事を考えながら、咄嗟に俺は走り出し出来るだけ避けた。
鉄骨はそのまま俺が先程までいた地点の近くに落下したが、幸い人通りが少ない時間だった為周囲に驚く人がいたものの被害は歩道周りだけで収まった筈だ。
難を逃れた俺はその事故現場に向けて振り返ろうとしたが、その時横から大きな衝撃が来た。
吹き飛ばされ、胴体が一瞬で潰されていくのを感じながら俺はその現況を探す。
ちょうどブレーキがかかり停止した大型トラックを見ながら俺は最後に思った。
あ、逃げ出した先、車道じゃないか――
そうだ、思い出した。
恐らく俺は死んだのだろう。
なんとも間抜けで納得出来ない面があるが、あの状況から助かったとはとても思えない。
痛みを感じる暇もなかったが内蔵全部飛び出していたし、ほぼ即死だったはずだ。
では何故死んだ筈の自分が現存しているのか…、まあ普通に考えれば死後の世界ってやつなのだろう。
マジか…。
そんなものが存在しているとは思わなかったし、魂なんてものは無く人は死んだら無に還ると考えていた。
未だ信じられない思いだが、他に予測も立てられないのでそう仮定しよう。
死んだショックはそれ程ない。未だ実感がないというのが正しいか。
といっても今までの人生考えると、死んでほっとした気分ではある。
なんせ物心ついてからずっと不調がついて回っていたのだ。
常に全身を謎の苦痛が襲い、その上体調が重くて、体力もない。
努力して体を鍛えると成果は出た感覚はあるのだが、さらに体が重くなるというか、まるで呪われているように動きが悪い。
成長すればするほど、苦痛が増していく。
昔は親に聞いても哀しい顔をされるだけで答えがなく、それが普通なのかと思い過ごしてきた。
だが高校生の頃にようやくその異常性に気づき、自分が周りとは違うのだと感じた。
自然と疎外感を感じながらも、成長するにつれて余計に体が重く、苦しくなる。
この奇病について医者に調べてもらっても、身体に異常は見られませんと匙を投げられるだけだった。
いっそ寝たきりの人生を送りたいという誘惑をなんとか振り払い、必死に抵抗する事で今の歳まで生きてきた。
何かを楽しむ余裕などなく、何の為に生きているか分からなかった。
死んでようやく苦痛から解放された、というのが俺の本音だ。
とりあえずこれからどうするか。
水先案内人がいる訳でもなさそうで、未だに俺は一人佇んでいた。
状況から鑑みるにあの長ったらしい列に並ぶ必要があるのだろう。
列に並んでない人もちらほらいるが、そういう人もすぐに列の最後尾へ歩いて向かっている。それ以外の人は動いている様子すらなく微動だにせずにいる。
(それにしても静かだな…)
俺はそこでおかしい事に気づく。
これだけの人数がいて誰も会話している様子がない。
そもそも、皆が俺と同じように死んでこの場所に招かれたのだとすれば、自分が死んだことを理解したにせよそうでないにせよ。混乱して喚き散らしてもおかしくないはずだ。
それがどうした事か、遠目では分かりづらいがどの人も無表情で、行儀よく列に並んでいる。見えているのに何故だか、外見を判別できない。
そこに異常性を感じ、改めて自分の状態を察した。
(声が出せない!いや、声だけでなく、体が自由に動かせない。なんだこれ!)
普通の体に見えていたが、もしかしたらこれが所謂魂の状態ってやつなのだろうか。
思考こそ出来るものの、自分も他の人間と同じような無表情を浮かべて固まっている、不気味な状態に見えているだろうか。
体をなんとか動かそうと意識を向けていると、どうやらあの行列の方に進もうとすると、その場合だけは苦もなく体を動かせる事がわかった。
それで他の人達もやむ無く並んでいたのだろうか… 半強制的に。
体が行列の方向に少し動いてしまっていたようだが、一旦立ち止まる。
このまま流れに乗って列に並んでしまえばいいのだろうが、なんとなく抵抗を感じる。
そもそもあの列、長すぎるのだ。絶対並びたくない。
俺はこういう、ちょっとずつ動きながら無為に待たされる、行列というものが非常に嫌いだ。動きを制限されたままどこにも行けない。
止まるでもなく自由に動くでもなく、決められた状態で待ち続けるという状態に、なんともストレスを感じるのだ。まるで社会の歯車と化した俺の人生を見ているようで、自己嫌悪してしまう。
屁理屈じみた八つ当たりなのは重々承知だが、そう感じてしまうのだ。
最も、ここまで嫌っているのは過去に体調最悪の状態で座ることも出来ずに長時間並ばされた経験があった所為なのだが。
トラウマレベルである。
しかし俺の事は置いといたとしても、行列に並ぶのが嫌いな人は多数いるだろう。案外、今この場で動かずに待機している人達も似たような考えなのかも知れなかった。
おっ、新しく光って明滅したかと思ったら、また人間が現れた。
新しく死んでここに来たのだろう。
たまに小さく光っていたのが見えて気になっていたがそれで納得した。
しかし世界中の死者数を考えると少ない気がするが…、まあ何か理由があるのだろう。
あの行列の方向へは行きたくない。
かといって、ずっとこの場に留まっているわけにもいかない。
初めはこのまま動かずにいて、行列が短くなるタイミングでも見極めてみようかと考えていたのだが、そう都合良くもいかないらしい。
少し前から違和感を感じていたが、時間が経つにつれて思考が鈍くなっている気がするのだ。
初めは寝起きのような鈍さだけだった為気にしていなかったが、今では頭の中に僅かにモヤがかかるというか、明らかに不自然な感覚がある。
望むほうに思考が働きかけ難いというか、何らかの指向性を持たせた洗脳の類。意識が薄れていき、思考にバイアスがかかっている。
――何も考えずに列に並べ。
――流れに身を任せろ。
誰に命令された訳でもなく、そう行動しなければいけないような強迫概念が自分の中にあった。
(恐ろしい)
俺は今さらながら現状に危機感を覚えた。
死後の世界というこの特殊な状況でパニックになり、ありもしない錯覚を覚えている可能性も否めない。だがそうでなかったとしたら?
今はまだ無視出来る程度の思考誘導に過ぎないが、時間が経てば思考を支配され、疑問にすら思わなくなるのではないか。
気に入らない。
既に亡者である事を考えれば、むしろ自我がなくなる事が正しく、望ましいのだろうが…。
死んでも意思が残っていると知ってしまった今となっては、これから自意識が奪われるのですなんて言われたところで生理的に嫌悪感しかない。
流れに逆らってでもこの場から脱出しよう。無謀ともいえるが、そう決めた。
なんとかあの行列以外の場所に移動したい。
拘束された如く縛られた自分の体を検分してみよう。体の手足、首や胴体、眼球に至るまで僅かでも動かせるところがないか探っていく。
結果は虚しく、痙攣させる事すら出来ず、視線も行列のほうを向いたまま固定されている。徹底されているものだ。
生前の肉体と同じように考えても無駄なのだろう。筋肉や神経のような物質的な器官が変わらず機能している保証はない。
頼れるのは何故か残留している脳という思考機能だけだ。ならばもっとこう単純に、自分が剥き出しの魂の状態だと捉えて、意思の力でもって行動する必要があるんじゃないか?
(この場から脱出したい。どこでもいいから、とにかくあのうんざりする行列以外の場所に逃げ出したい!)
トラウマを強く思い浮かべることで、生命の危機を錯覚するまで欲求を促す。
それでも足りないので、もはや使命、いや己の仇というかのように情動をもち、必死に離脱を図る。
悪戦苦闘しながらしばらく経ち、意思が爆発的に高まったと感じた時、ふと枷が外れたような感覚があった。なんだか以前にもこんな感覚があったような…。
だが相変わらず動けない。
もう少しだと思うんだが、何かきっかけがあれば…
どこか。どの方向でもいいから進めないのか。
周囲に気を配ってみると、視界に入らない方向に、一瞬惹かれる気がした。
(ここだ!向かうしかない!)
迷わずその方角に向かって走り出したいと念じる。するとストッパーが外れたかのように身体が解放され、自然と走り出していた。
もはや自分の意思とは関係なく勝手に動いていたが、俺は喜びながらその動きに身を任せた。