第1章 毎回、少し遅れる
この物語は、ある町の消防団について書かれている。
消防団とは、火を消すための組織だ。
守るために動き、被害を最小限に抑え、
何もなかったことにする役目を負っている。
だが火は、
消されたことを忘れない。
間に合わなかった夜。
鳴らなかったサイレン。
記録に残らなかった火事。
そうしたものは、町のどこかに溜まり続ける。
本書に描かれる出来事は架空のものであり、
特定の地域、団体、人物とは一切関係がない。
しかし、夜のサイレンの音と、
火事のあとの静けさは、どの町にも存在する。
もし読み進めるうちに、
自分の町の夜が少しだけ違って見えたなら、
それは偶然ではない。
サイレンは、
必ずしも誰かを助けるためだけに鳴るとは限らない。
サイレンが鳴る前に、目が覚めた。
理由は分からない。
だが最近、こういう夜が増えていた。
時計を見ると、午前一時十四分。
まだ何も起きていない。
それでも胸の奥に、落ち着かないものがある。
――来る。
そう思った瞬間、枕元の携帯が震えた。
【火災発生 ○○町二丁目】
ほぼ同時に、町内放送のスピーカーが低く鳴り、
眠っていた町を叩き起こす。
「火災発生。○○町二丁目、木造住宅。消防団は至急出動せよ」
布団を抜け出し、上着を掴む。
隣で寝ている妻は目を覚まさない。
もう、慣れてしまったのだろう。
外に出ると、霧が出ていた。
街灯の光が滲み、町の輪郭が曖昧になる。
遠くでサイレンが鳴り始める。
その音を聞くたびに、私は同じことを考える。
――少し、遅れている。
詰所に集まった団員たちは、いつもの顔ぶれだった。
点呼が始まり、名前が呼ばれ、返事が返る。
人数は合っている。
少なくとも、そういうことになっている。
分団車で現場へ向かうと、
すでに家は燃えていた。
炎は激しいが、暴れてはいない。
燃えるべきものだけを、淡々と燃やしている。
「放水!」
指示と同時に体が動く。
ホースを構え、水を放つ。
そのときだった。
――視線。
熱の向こう側、炎の奥に、
人の形をした“何か”が立っている。
逃げもしない。
助けも求めない。
ただ、こちらを見ている。
次の瞬間、屋根が崩れ、
視界は火と煙に覆われた。
鎮火まで十五分。
不自然なほど、早かった。
焼け跡を確認していると、
柱の一部に奇妙な焦げ跡があるのに気づいた。
一直線。
まるで、どこかを指し示す矢印のような形。
その先は、暗闇だ。
二丁目の、さらに奥。
「次……か?」
誰かが冗談めかして言ったが、
笑う者はいなかった。
帰宅しても、眠れなかった。
目を閉じると、
あの炎の中の視線が浮かぶ。
逃げていなかった。
追われてもいなかった。
――待っていた。
消防団が来るのを。
その夜、夢を見た。
サイレンが鳴る。
誰も出動しない。
火だけが、町の中を歩いている。
火は、救われなかった数を数える。
この物語に登場する怪異は、
復讐のために火をつけているわけではない。
怒りでも、悪意でもない。
それはただ、
そろっていないものを、そろえようとしている。
消防団は町を守る存在だ。
だが同時に、
守れなかった夜を最もよく知る存在でもある。
行かなかった火事。
遅れた出動。
選ばなかった判断。
それらは正しかったのか。
あるいは、誰かを置き去りにしただけなのか。
本作を書きながら、
「怪異とは何か」を考え続けた。
その答えは、
人の外ではなく、人の行為のすぐ隣にあった。
もしこの本を読み終えたあと、
夜にサイレンの音を聞いて、
一瞬だけ立ち止まってしまったなら――
それで十分だ。
火は消える。
だが、呼ばれた数だけ、必ずやって来る。




