0-前
――まさかこんな事になるなんて。そうと知っていたら、絶対にやらなかったのに。
時刻は不明。外は大荒れで雷雨が酷く、叩かれた窓ガラスは常に割れそうな悲鳴を上げている。薄暗い内部には点々と灯る蝋燭の仄かな明かりはあるものの、それは決して安心出来る道標ではない。ズリズリと舐められる様な不安、焦燥。ただただそれだけを蓄積させて、菅原幹也の精神を淵の先まで追い込もうとしている。
(――なんで、誰もいないんだ)
軋む床、扉。どこまでもどこまでも響いて、幹也の孤独を知らしめる。発狂しそうだ。この見知らぬ洋館の中で。発狂しそうだ。
(……ちくしょう……ちくしょう……)
幹也は爪を噛む。噛み過ぎて鬱血した所が更に痛んだが、それでも噛むのを止められない。本当はこんな小さな事をしてないで、手当たり次第にそこら中の物を投げつけ、転がして、しまいには喉がはち切れる程に叫び尽くしてしまいたい。
――だが、出来ない。
煤と埃が充満する暖炉の中で膝を出来るだけ小さく抱える。こうして息を殺し、爪を噛み、必死に耐えていなければ、幹也の命は保証されない。――いや、現時点でも確実に保証されているわけではないのだが、それでも暴れるよりはマシであった。
(……ちくしょう……ちくしょ……)
溢れた涙が乾いた口内に流れ込んだ。甘い様な塩っぱい様な、これは顔に付いた煤だろうか、焦げ臭い様な味もした。
(なんで……なんで夢じゃねえんだよ!)
幹也がこれまで見てきた夢に色はなかった。味もなかった。そもそも夢を見ているという実感さえなかった。しかし今は、この状況を目で見て把握出来る、雷雨や軋みが聞こえる、煤の匂いが分かる、涙の味を表現出来る、痛みが脳まで伝わってくる。
――せめて、夢ではなくともせめて、どれか一つでも優しい嘘をついてくれたのならば、これは夢かもしれないという僅かな希望を抱けたのに。
だが、五感の全てが正常に働いていた。これは現実に起こっている事なのだと、自分で証明してしまった。
幹也は袖で涙を拭った。皮膚が擦り剥ける程の強さで拭っていると、コリッと何かが顔に当たった。瞬間、幹也の頭にカッと血が上る。見なくても分かる。これは――
「ぐっ!!」
幹也はそれ――白い色をしたリボンを腕毎暖炉の壁に擦り付けた。
(こんな物、こんな物、こんな物、こんな物!)
夢中だった。とにかくこの白をなんとか汚して、二度と自分の目に触れない様にしたかった。
――それは決して、幹也の趣味ではない。髪留め用のゴムに付いた小振りのリボンで――女子がこぞって可愛いと賞する様な見た目だ――恐らくは全ての元凶、悪魔のリボン。
(そうだって知ってたら、絶対に絶対にやんなかった!)
何度もした後悔。その度にこれを外そうとした。千切って、踏みつけて、窓が開くなら外へと投げ捨ててしまいたかった。
――しかし、出来なかった。これにはルールがあるのだ。破ってはいけない、大切なルールが。幹也はそのいくつかある内の一つを既に破っている。その結果が、これだ。
(四人でやった。あの時、あの時アイツが言った様に止めておけば……)
今更悔やんでも、悔やみきれない。
少し前まで居た世界は、蝉の声が煩い晴れた夏の夜だった。忍び込んだ校舎の外を時折車が通り過ぎるだけの、少し緊張した、それでもありきたりな夜。だが、気付けばここに居た。
彷徨った屋敷は不思議な構造をしていた。廊下を間に、片側は窓、片側はそれぞれに意味を持った部屋、更にその部屋の窓からは生い茂った緑の森が見え、そこまでは構造上はよくある――実際に見た事はないが――豪華な洋館だと思った。
だが、階段の踊り場には反対側へと進むもう一つの道があり、そこを行くと同じ廊下に出た。――いや、同じだが、同じではない。似て非なるもの。まるで鏡に映った様に全てが真逆になった廊下と部屋があった。
廊下を間に、片側は窓、片側はそれぞれに意味を持った部屋、更にその部屋の窓からは生い茂った緑の森が見える。
――あり得ない。
窓から外を覗けば、どう見ても長い長方形の建物なのに、歩くとロの字の屋敷に変わる。しかもお約束と言うべきか、階段をいくら上っても下りても、窓から見える高さは常に変わらなかった。
――そこに幹也は囚われた。その原因がこのリボンであると、幹也はほぼ断定している。
「――ほら、やっぱりな」
横目で見たリボンは、白くて汚れ易い色をしている筈なのに、幹也の健康的に焼けた腕を真黒に汚しただけで、その身のどこにも煤を纏っていなかった。あるのは使用する前から付いていた土汚れのみ。
(んだよ、裸の王様みたく、馬鹿には見えない仕組みだってか)
皮肉から口角を上げると、幹也は膝を抱いてそこに顔を埋めた。
「……もういい」
もう、どうにでもなれば良い。煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わない。幹也はもう何も恐くない。寧ろこんな所で怯え続けるよりも、いっそ死んだ方が――と思った矢先、ギシリと廊下の床が軋んだ。
幹也の体は飛び跳ねる。と同時に口から心臓が飛び出そうになった。それを寸でで飲み込むと、所定の位置に戻った心臓が外の雷雨よりも暖炉の中に、いや、部屋中に響き渡った。
(やばい、やばい、やばい)
熱く、荒い呼吸が逃げ口を捜して口を無理矢理こじ開ける。すると歯がガチガチと音を起てて、更に部屋を騒がせる。これではまるで、自分がここに居るのだ、と奴に知らせている様ではないか。口を両手で押さえた。
(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない)
先程、もういい、と発言した事は嘘だ。冗談だ。だから自分は――自分だけは。
震える度に壁の煤を削ぎ落としていると、床を歩いていた足音が嫌な音を起てて止まった。
(……そこは駄目だ)
何故ならばその部屋には――幹也が居る。
鍵を掛けた筈のドアノブが回った。油が足りていない蝶番が悲鳴を上げると、同時に幹也も悲鳴を上げてしまいそうになった。
しかし今はその悲鳴すら出ない。目が限界まで見開く。恐怖が最高潮に達した。
「――ねえ」
肩が思い切り跳ねた。その肩を暖炉の内側の壁に思い切り打ち付け、しまった、もう駄目だ、終わった、と血の気が引いた。
「……ねえ、どこにいるのお……」
若い女が態と老婆の声を出しているかの様な声だ。しかし、時折ゴポゴポと泡を噴く様な音も混ざるので、ホラー映画に出て来る幽霊の声よりも恐ろしく感じる。
(――殺される)
飲み込んだ唾液が、ごくりと大きな音を起てた。
「わたしの……いとしい……ねえ、どこ……どこにいるのよお」
部屋に入ってきた女はゆっくりとした足取りで家具を一つ一つ薙ぎ倒し始めた。――もしかしてまだ気付いていないのでは、とも思える行動だが、幹也が暖炉から顔を少しでも覗かせると、九十度に曲がった首がゆっくりとこちらを振り返ろうとするので、引っ込めざるを得ない。恐らく、彼女は既に幹也の居場所に気付いている。その上で態とその様な追いつめ方をしているのだ。
「……ごめんなさい」
それは蚊の鳴く様な声だった。いつもの幹也であればこんな状況、返り討ちにして奴を懲らしめただろう。相手があんな化け物であったとしても、自分に課した決まり事を破って、板きれでもなんでも彼女にぶつけただろう。
(……誰か……)
だが、今の幹也はいつもの幹也ではない。自分を囲う仲間も居なければ、そもそも自分のテリトリーではない場所。現実に現れた異空間。奴に立ち向かう等――出来ない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
只管謝罪を続ける。それしか出来ない。それしか道はない様に思えた。だから謝れるだけの事には全て謝ろうと思えた。
――幹也は決して、良い子と呼べる子供ではなかった。力があった、体格に恵まれていた、何かを言えばそれに賛同してくれる仲間達が居た。楽しかった、お山の大将は。もっと楽しかった、弱い者虐めは。その事に罪悪感を抱いた事は、今までに一度もない。
よくよく考えれば、ゲームをしただけでこんな目に遭う筈がないのだ。四人でゲームを行った。その内三人しかこの屋敷に飛ばされなかった。助かっているであろう一人は今頃何をしているのだろう。幹也が五年生の頃からずっと虐めてきた相手。両親と楽しくテレビでも見て笑っているのだろうか。
――つまり、そう言う事だ。これは罰。幹也と、残る二人への。
(……もう悪い事はしません。母さんの言う事も、父さんの言う事もちゃんと聞きます。学校の奴らももう虐めません。勉強だって、宿題だってちゃんとします)
走馬灯の様に、これまで出会った人達の顔を思い出す。
(全部俺が悪いんです。反省しています。だから……)
小学生最後の記念に、誰もやった事がない様な偉業を残したかった。それで夜の校舎に忍び込む事を思いついた。直ぐに賛同してくれた仲間二人と一緒に、虐めの標的を連れて行って面白半分でゲームをした。彼のことは鬼にした。夜の校舎で一人、既に帰宅している幹也達を必死に探せば良い。もし教師に見つかったとしても彼なら大丈夫。幹也達の事は決して口を割らない。
(……ヒロ……ケン……)
ヒロは最初に捕まった。彼女の無惨な姿を見て腰を抜かし、幹也達に助けを求めた。その自分よりもずっと小さい手を、しかし幹也は掴まなかった。
逃げた先で今度はケンが捕まった。物陰に隠れて喧嘩していた時に、彼女が後からケンの頭を掴んだのだ。暴れ、助けてと言ったケン。だが幹也はやはり背を向け逃げた。自分だけは助からなければと思った。自分だけは死にたくないと思った。
彼女がすぐ近くの棚を倒した。脅威はすぐそこに。目と鼻の先に。一環の終わりだ。絶体絶命だ。幹也はもう――助からない。
(……やだ……嫌だ)
幹也は口を震える手で塞いだ。本当の死が目前に迫ると、少しでも未来がある行動をとりたくなった。そして更に後悔した。懺悔をしている暇があれば、幹也は充分にここから逃げられた。彼女の足は折れているせいか、うんと遅い。こちらを振り向いたとしても逃げられる余地は十二分にあった。――ザリッと、煤を擦る音が聞こえた。
「みい……つっけた」
生臭い臭気。そして幹也の顔の半分に掛かる糸の様な何か。ギョロリと目玉を動かした。――真っ赤な三日月が三つ。と、表現出来る程に歪んでいるそれは目だ。口だ。そして、この湿気った黒い糸は、髪だ。
「……」
その後の幹也を知る者は――
「リボン隠れ鬼?」
キランと光った目を見て、小松小助は小さく息を吐いた。漸く釣れた。ここまでさせるのに、どれだけの話題を消費した事か。
小助は手を伸ばすと、向かい側に座る父、小松楽太郎の倒れた茶碗を起こした。自分でやった事なのに、しかしメモの準備に夢中な楽太郎はそれに気付かない。こら、と小言をいってやりたい所だが、そうやって生気を取り戻してくれた所を見るとそんな気も失せた。寧ろこのまま上機嫌でいて欲しい。
というのも先程までの楽太郎は、ただそこに居るだけの物体だった。やつれた体に酷い隈、長く乱れた髪は天然パーマのせいでまるで干涸びたわかめの様。無精髭もそのまま、加えて伸びきったTシャツにトランクスという悲惨な出で立ち。いっそそういうキャラなのかと思わせる貫禄がある。テーブル一つ挟んだこちらにも漂って来る臭気。本当、動いてくれる気になって良かった。
「父さん」
「で、で、で。リボン隠れ鬼ってなんだ? 氷鬼みたいなもんか? それとも色鬼みたいなもんか? それとも……」
「俺との約束はどうしたの?」
「大丈夫大丈夫。破らないよ、後でちゃんと守る」
「わかった。なら俺も後で守るね」
言って食事を再開させた小助を見て、楽太郎は見るからに慌てた。実はその約束というもの、小助が何か面白い話しをする代わりに楽太郎はご飯を食べるという小松家独自のルールである。だからといって、守らない場合は話しの続きが聞けないだけなのだが――楽太郎は唸った。小助の話しは中々に興味をそそられるものである。しかしその話しを聞くには箸を持って食事をしなくてはならず、食事をするということはメモは取れない。メモ帳、茶碗、メモ帳、箸、メモ帳、皿、メモ帳――楽太郎は歯を食いしばって、メモ帳を置いた。苦渋の決断をした様な表情だ。
「俺も今まで知らなかったんだけどさ、今年のゴールデンウィークが終わったら学校中で話題になってて」
「ほうほう」
「箸」
「……うい」
さり気なくメモ帳を手に取っていた楽太郎はそれを渋々テーブルに置くと、箸と茶碗を手に持った。そして上目で小助の事を窺いながらちみちみと食べ始める。
一体どちらが大人なのか。勿論楽太郎である事に違いはないのだが、それにしても小助の顔色を伺い過ぎだろう。小助は口の中の魚をゆっくりと咀嚼した。
楽太郎は漫画家である。それも十二歳以下は閲覧禁止のホラー作家。と、同時に重度のオカルトマニアでもあった。故に情報収集には余念がなく、常に餓えた獣状態。自分の好きな事を全て仕事にしてしまったのもその欲に拍車をかけているが、そこはやはり本質的な部分もあるのだろう。御陰で小助は、たいして興味もない噂や怪談を集めては、それを餌に楽太郎を釣る様な息子に育ってしまった。
おまけに、子供の食事が中々進まなくて、と悩む主婦の気持ちが分かる十一歳でもある。
「なあ、まだー」
「はいはい」
と、返事をしつつもみそ汁を飲んだ。こうやって時間を稼ぐのも一つの手である。
「――俺も基本的な事しか知らないんだけど、そのリボン隠れ鬼っていう遊びには、先ず名前の通りの物が必要なんだ」
「リボンだな」
「そう、赤と白。御陰で男子は用意し辛いって言ってるよ」
「姉貴とか妹に借りるのも、自分で買いに行くのも恥ずかしいもんな。――して、その心は」
「紅白帽とか、ハチマキの用途と一緒。鬼は赤、逃げる方は白、ズルは無しで、ちゃんと見える所に付ける。そして十数えたらゲーム開始。そこだけきちんとしてれば、あとは独自のルールを加えても良いみたい」
「そこは他の隠れ鬼と変わんないな。統一されてない部分が多いというか」
「トイレ禁止とか、校舎禁止とかね」
「他には? 勿体ぶってるみたいだし、まだ他にもルールがあるんだろ?」
「勿論」
小助は豆腐を口に運び、飲み込む。
「ルールっていうよりは、オプションに近いかな。情報交換、っていう鬼だけに許された特別ルールがあるんだ」
「ほうほう」
楽太郎は身を乗り出す。箸の先を向けると、真顔で座り直した。
「鬼は他チームに、自分のチームの居場所が聞ける」
「でもそれって鬼ごっこじゃよくある事じゃないか? 仲が良い同士でやってるんだし、そんなルール、態々作らなくても……」
「他チーム、っていうのがミソなんだよ。実は自分のチームの子に、他の子の居場所は聞いてはいけないっていう意味もあって、それを破ると、特にペナルティーはないけど、仲間を売ったって冷やかされたり、嫌われる」
「だからってそんなに意味のあるオプションに思えないなー。暗黙の了解にするならまだしも、そんな堂々とルールの一つに組み込んじゃって。白い子は同じ場所に留まらないだろ」
「それがそうでもないんだ。情報が知れているって分かれば、態とそこに留まり続けたり、態と違う場所で目撃されたり」
「あー、確かにそういう使い方もあるな」
「鬼ももう分かってるから、それを充分に踏まえて、教わった情報を辿るか、無視するか。そんな読み合いが面白いらしい」
「確かにスリルは倍増だな。――で?」
「『で』?」
「もうリボン隠れ鬼のルーツは分かってるのか?」
「そこまでは、流石に……」
「えぇー! そこが重要なんじゃないかー!」
「だって興味ないし」
「いつも言ってるだろー。鬼ごっことか隠れんぼには何かしらの隠された意味があるってー」
出た、面倒臭い楽太郎。椅子の背もたれに寄り掛かって箸を口に銜えた楽太郎が天井を仰いだ。そのまま箸も椅子も揺らし始めたので、小助はガツリと脛を蹴る。
「まだ話しは終わってないよ」
「どうせ尚も無い事だろー」
小助は飽きれて息を吐く。普通、興味がなくとも子供の話しを聞いてやるのが大人というものではないのだろうか。この親、とことん精神年齢が低い。――その御陰で年の割にはしっかりとした子供になれたのだけれど。
小助はスッと表情を暗くた。
「絶対に破ってはいけない、四つのルール」
指を一本立てる。
「一つ。決してリボンを外してはいけない」
ちらり、と楽太郎が視線を寄越す。ものありげな物言いに興味を示したのだろう。
「二つ。決して鬼に嘘をついてはいけない」
「……へぇ」
「三つ。始めたゲームは必ず終わらせなければならない」
「まぁ、ここまでは普通の鬼ごっこにありそうな……」
「四つ」
小助の声が更に低くなる。
「決して、四人でやってはいけない」
立てられた四本の指。だが小助はそれを裏手に返して見せている。それは楽太郎が一番嫌いな数字だからだ。不吉な数字。死の数字。差別用語にも使われる数字。――しかしそのどれもが楽太郎の気を引いたのではない。
四の数字を表す時には親指を折る。しかし大概の親指は相手に向かって差し出される。親指は和語で父、医学用語で母の字が入る。つまり親を示す指。そして親指がなければ、人は上手く物を掴めない。掴めないという事は生活に支障をきたす。五本ある指の中で一番重要な指。それを相手に差し出し、自分からは見えなくする。人は親がいなければ成長するには難しくなる。だから子は親を大切にし、法律でも親殺しは重罪とされる。楽太郎は小助には決して親を差し出すなと教えてある。自分の為に差し出すなという意味で。逆に楽太郎は親である自分を決して差し出さない。子である小助を、まだまだ守らなくてはいけないから。――勿論、海外では表向きでな、と口酸っぱく言われているが。
その嫌いな四の数字で止まったルールに、楽太郎は釘付けになる。なりすぎてどんどんと近付く額に、容赦なくデコピンをした。
「あでっ」
「ほら、話したんだから早く食べて。俺早く風呂入って勉強したい」
「もうちょっ……」
「……」
「……ういー」
無言で見つめただけなのに、楽太郎はぽりぽりと額を掻いてからご飯を食べ始めた。
(これで良し)
先にネタ帳という名の胃袋を満たしてやれば、後は黙っていても本来食べるべき物を食べてくれる。まったく世話が焼けるなぁ、と思いながらシャケの皮を食べると、楽太郎が、そういえば、と眠そうな目をぱちくりとさせた。
「随分詳しいみたいだけど、お前はもうやったのか?」
「ないよ」
即答。というのも、その質問には少々、というか大分突かれたくない過去を持っているのだ。
それを思い出して眉間に皺を寄せていると、何を勘違いしたのか、楽太郎が不安そうに小助の顔を覗き込んだ。
「受験勉強もいいが、子供の内は友達作って遊ばないと。夏休みもあとちょっとで終わっちまうし、折角だから誰か誘って海にでも山にでも川にでも飛び込んで来いよ」
「面倒」
「小助はこれだからなぁ……そんなんじゃモテないぞー」
「ならモテたいから受験勉強頑張るね」
「そうきたかー。その返しの上手さは一体誰に似たんだ?」
「少なくとも父さんじゃないね」
「だよなー」
かと言って母にも似ていない。――これは子供よりも子供らしい二人の両親の元で育ったから出来た性格だ。故に血の繋がった親戚の中でも、小助と同じ様な性格を持つ人はいないだろう。
「ごちそうさまでした」
自分のだけ食器を持つと、流しにあるタライに水を張って沈める。
「じゃあ俺風呂入るから、食器は水につけといてね。お風呂から上がったらやるから」
「おー、いつもすまんなぁ」
「家事ぐらいいつでもやるよ。だから今日はもう寝てね」
「………」
冷蔵庫から出したプリンをちらつかせる。
「寝てね」
「畏まりぃ!!」
途端、カカカカカっとご飯を勢い良くかき込み始めた楽太郎だが、かといって早食いは出来ないタイプで。ハムスターの様に頬を膨らませて咀嚼する様子に頷いてから、プリンを冷蔵庫にしまった。この様子だと風呂にも入るだろう。少しでも気が乗らなければ好物のプリンを見ても、あっはい、としか言わないのが楽太郎である。折角だし疲労をとる入浴剤でも入れようか、等と思ってリビングへのドアに手を掛けると、ふいに名前を呼ばれた。
「な……」
何、と言おうとした言葉が詰まった。振り返った先では、いつの間にか冷蔵庫からプリンを出して、器用に箸で掬っている楽太郎がいる。どうやら我慢出来なくて、プリンを食後のデザートに出来なかった様だ。
(まぁ、良いか)
小助の目的は、ご飯を食べさせる、寝させる事だから。
「なに」
「あのさ、四つのルール、どれか一つでも破った場合はどうなるんだ?」
「ルールを破ったら?」
「そう。なんかわっるーい事でも起きるのか?」
そわそわとして身を乗り出す楽太郎に合わせて、箸の上のプリンが揺れる。よくもまぁ落とさないでいられるな、と思いながら小助は肩を竦めてみせた。
「そんなの知るわけないよ」
「えぇー! 小助はいっつも重要な所は考えないし、諦めるし、見つけないなぁ!」
小助のそっけない返答に楽太郎が声を荒げる。だが、何も怖くない。はいはい、と適当に流してダイニングキッチンから出ると、閉じたばかりの扉に背中を付けた。
(いっつも重要な所は考えないし、諦めるし、見つけない……か)
確かにそういう所はあるし、見えそうになると目を逸らす癖もある。
「だって、怖いし」
楽太郎は一から十までを知りたがるが、小助は基本さえ捉えていればあとはそれ以上踏み込まない。だから趣味も何もない。
(に、しても……)
小助は二の腕を摩る。
ルールだけは知り尽くしたリボン隠れ鬼という遊び。何故かこれだけは小助の中に未だ燻っている。気になる。発祥は、鬼の意味は、そもそも一体誰が広めたのか。禁止事項を再度思い出しながら廊下への扉を開ける。真っ直ぐ脱衣所に入ると、夏の暑さで少し張り付いたTシャツを脱いで、直ぐ目に入ったソレを指でつついた。
――随分詳しいみたいだけど、お前はもうやったのか?
――ないよ。
そう答えたのは嘘ではない。一応機会は二度あったが、どちらも自分のミスで逃した。そんな小助を誘ってくれる人はもういない。なのにどうしてだろう。
「――コレ」
始めたゲームは必ず終わらせなければならない。
だが、小助はゲームを始めた記憶がない。――のに、細い二の腕には小さな赤いリボンがあしらわれた髪ゴムがついていた。




