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第2話 川に道を返す

 河神神殿の境内は、朝のうちから人で埋まっていた。


 前のほうには泥の染みの残る野良着の農民たちが集まっている。

 その後ろに町の信徒が並び、上席の脇にはヴァレンツ家の使用人たちが控えていた。

 祭壇の傍らの台には署名欄の空いた書付が重ねられ、インク壺とペンが添えてある。


 門の前では紐で結んだ二枚の図を脇に挟んだヨハンが待っていた。

 書類の束を抱えたロランと並んで、サイモンが門をくぐる。

 ヨハンも図を抱え直し、二人の後に続いた。

 いくつもの顔が一斉にこちらを向いた。


 上席からゲルハルトが立ち上がり、帽子を胸に当てた。


「ようこそおいでくださいました、郡守殿。皆、お待ち申し上げておりましたぞ」


 サイモンは会釈を返したが、用意された椅子には座らなかった。

 祭壇の正面、農民たちの列の脇に立つ。


 人垣の端にイーリアの姿があった。

 隣にマルタ・エーベルがいる。子供は連れていない。

 マルタの手は体の前で固く組まれていた。

 イーリアは夫と目が合うと、小さく頷いた。


 鐘がひとつ鳴り、バルドが祭壇の前に進み出た。


「本日は新任の郡守殿も、河神の習いを見届けにおいでくださった」


 よく通る声だった。

 ざわめきが引き、視線がサイモンに集まる。

 ゲルハルトは椅子に戻って腕を組み、満足げに人々の頭の上を見渡した。


 祝詞は長く続いた。

 サイモンは手帖を懐に入れたまま、黙ってそれを聞いた。


「洪水によって河神が取り戻された土地は、河神へお返しするのが道理である」


 バルドが振り返ると、名簿を手にした若い下級神官が祭壇の脇に立った。

 前日、郡役所に来た顔だった。

 最初の名を読み上げようと、彼が息を吸う。


 その前に、サイモンは一歩踏み出した。


「神官長。郡守として、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」


 バルドの眉が動いた。


「神事の途中でございます」

「まあ、よろしいではありませんか、神官長殿」


 上席からゲルハルトが鷹揚に手を振った。


「郡守殿はこの地の習いを学びにおいでになったのです。皆の前で存分にお教えなさればよい」


 バルドはしばらく黙っていた。


「……お尋ねなさい」

「河神への信仰を否定するつもりはありません。新任の郡守として、祭礼の意味を正確に理解しておきたいのです」


 サイモンは懐から手帖を取り出して開いた。

 黒ずんだ表紙の角が指に触れた。


「洪水に遭った土地は河神のものとなり、神殿は河神のためにそれを預かる。人が勝手に私物化してはならない。そういう教えで間違いありませんか?」

「いかにも」


 バルドは農民たちのほうへ顔を向け、声を張った。


「河神の土地を人が私物化すれば、神罰が下る」


 サイモンは炭筆を走らせた。


 ――私物化すれば、神罰。


「神殿の方々であっても、それは同じですね?」


 サイモンは手帖から目を上げ、バルドを見た。


「無論のこと。神殿は河神の御用を務めるのみでございます」


 バルドは胸を張り、農民たちにも聞こえる声で答えた。


「では、預かった土地から上がるものも、すべて河神のために使われている?」


 炭筆の先が頁の上で止まっていた。


「当然でございます」

「これまで河神へ返された土地を、今は誰が耕し、そこから上がるものがどこへ納められているのか。確かめさせていただきましょう」


 バルドの答えは、ひと呼吸遅れた。


「……耕作の管理を委ねているにすぎません。それもまた、河神のため」


 ゲルハルトの組んでいた腕が、いつのまにかほどけていた。


 サイモンはロランを振り返った。


 ロランが進み出た。

 台帳を開く前に、その端を指でそろえかける。

 指はそこで止まり、頁をめくった。


「台帳によれば」


 声が少しかすれた。

 ロランは一度唇を結び、続けた。


「この十数年、水をかぶった畑が毎年のように寄進によって神殿名義となっております。そのうち多くは翌年からヴァレンツ家に管理が委ねられています」


 ロランは台帳の頁を指で押さえ、次の頁をめくった。


「管理委託料は郡内の通常の借地料と比べて著しく低い額です」


 数字の並ぶ欄から、ロランは目を離さなかった。


「神殿に入った委託料の使い道は、郡役所の記録では追えません」


 農民たちが顔を見合わせた。


「河神のために預かる土地の利益が、なぜ特定の地主に集まるのですか?」


 サイモンが問うと、ゲルハルトが椅子から身を乗り出した。


「それはお考え違いですな、郡守殿。どの移転にも歴代の郡守殿の承認印がございます。正式な手続きを経た正当な管理委託ですぞ」


 バルドも言葉を継いだ。


「すべては河神のための管理。農民が自らの意思で寄進したものでございます」


 サイモンは頷いた。


「印があることは確かです。ですが、承認されたことと正当だったことは違います。契約があることと、自らの意思で寄進したことも同じではありません。強制があったかどうかは、郡役所として正式に調べます」


 ロランが台帳の間から一枚の紙を抜き出した。


「昨日、神殿から届いた寄進の書式見本です。『自らの意思により、この地を永く神殿に寄進する』。文面は過去十数年分の書類と一字も違いません」

「定めの書式を用いるのは当然のことでございましょう」


 バルドが即座に言った。


「その点に異論はありません。確かめたいのは、ここにある『自らの意思』です」


 サイモンはロランに先を促した。


 ロランは対象地の一覧と台帳を見比べ、指で行をたどった。


「今年の対象地の所有者は、マルタ・エーベルほか、いずれも農民のままです。郡守様の承認印は、まだございません」


 サイモンは境内の人々に告げた。


「帝国法では、祭礼で宣言しただけでは土地の所有は移りません。台帳への登記と郡守の承認印が要ります」


 人々の間に声が広がった。

 列の中ほどで、杖をついた老人が隣の男の袖を引いた。


 バルドが声を高くした。


「洪水そのものが、河神のお怒りなのです。御意思に背けば、来年もまた水が参りましょう」


 その声に、境内は静まった。

 何人かの農民が川の方角へ目を向けた。


「では、今年の水がどこから来たのか、確かめましょう」


 サイモンが振り返ると、ヨハンはもう図の紐を解いていた。

 二枚の図を祭壇前の石畳に広げ、四隅に小石を置く。

 前にいた農民たちが首を伸ばした。


 ヨハンは一枚目を指した。


「昔の川です。水が出ると、この曲がりから窪みへ抜けた。向こうで広がって、引いた」


 太い指が二枚目へ移った。


「今の川です。二年前、ここに堤ができた。抜け道がなくなって、水は下へ行く」


 指は川筋をたどって下り、下の村で止まった。


「だから、今年は上から来たのか」


 人垣のどこかで、誰かが呟いた。


「許可台帳は?」


 サイモンが問うと、ロランは綴りを開き、二年前の前後の頁を改めてから顔を上げた。


「上流の堤に当たる許可の記録は、ございません」


 サイモンは懐から、ヨハンが書き並べた水位の表を取り出した。


「下の村の家ごとに、今年の水の高さを記したものです」


 家の主の名と高さを読み上げるたびに、どこかで頷く顔があった。

 読み終えた表をロランに渡すと、サイモンは図へ目を戻した。


「記録では、二年前から寄進の書類に下の村の名が増えております」


 ロランが言い添えた。


 ゲルハルトが立ち上がった。


「あの堤は、我が家の畑とそこで働く者を守るための備えです。村を沈めるつもりなど、毛頭ございません」

「築いた理由を問うているのではありません」


 サイモンは続けた。


「二年前に築かれた堤によって、増水時の逃げ道が塞がれています。その後、下流では被害が繰り返されている。それにもかかわらず、堤は改められていません」


 バルドが割って入った。


「堤があろうとなかろうと、水をお遣わしになったのは河神でございます。これがお怒りでなくて何だと――」

「河神がお怒りだと申すか」


 サイモンは手帖を閉じ、石畳に広げられた図の堤を指した。


「ならば、まずは川の道を塞いだ者に、その道を返していただこう」


 境内が静まり返った。


 バルドの口が開いたまま止まった。

 ゲルハルトは図から目を逸らし、上席の使用人たちのほうを見た。

 使用人たちは誰も動かなかった。


 ヨハンは図の端を押さえたまま、膝をついていた。

 来年から仕事を回さないと通告してきたのは、ゲルハルトの番頭だった。

 それでもヨハンの目はゲルハルトから外れなかった。


 ざわめきが戻ってきた。今度は低く、重かった。

 拳を握る男の姿が見えた。


 サイモンは片手を上げた。


「寄進が本当に自由な意思によるものだったのか。当事者の方々から話を聞かせていただきたい」


 ロランが台帳を下敷きに、新しい紙を広げた。


 誰も前へ出なかった。

 前列の男が上席のほうへ目をやり、うつむいた。

 若い下級神官も、名簿を胸に抱えたまま足元を見ている。


 イーリアはマルタの隣にいた。

 黙って、半歩も離れずに立っている。


 マルタは組んでいた手に目を落とした。

 ひびの入った指が一本ずつほどけていく。

 やがてマルタは一歩前へ出た。


「マルタ・エーベルです」


 小さな声だったが、前の列には届いた。


「主人を四年前の大水で亡くしてから、二人の子を育てながら畑を守ってきました。その畑が今年の水で駄目になりました」


 マルタは息を継いだ。


「神殿の方が来て、今年の返地祭の名簿にうちの畑が載ったと言われました。断れば罰が当たると思いました。ヴァレンツ様に睨まれたら、この村では暮らしていけません。だから今日は、しるしをつけるつもりで来ました」


 印がなければ、畑は彼女のものだよ。

 三日前の夜、サイモンは妻にそう言った。

 その畑を自分の手で差し出すつもりで、マルタはここへ来ていた。


「しるしは、まだつけていません」


 マルタはそれだけ言って、口を閉じた。


 杖をついた老人が列から出てきた。


「わしの畑も、昔、出した。しばらく預けるだけだと聞いた。水が引いて土が直ったら、返してもらえると」


 老人は祭壇を見上げた。


「毎年、聞きに行った。もう河神様のものだと言われた。それきりだ」


 肩掛けを握りしめた女が続いて口を開いた。


「寄進を断れば河神の罰が下ると、神殿の方に言われました」


 若い男が声を絞り出した。


「何が書いてあるのか分からない紙に、×をつけました。そこにつけろと言われたので」


 ロランの手は止まらなかった。

 一人が話し終えるたびに、名と言葉を書き取っていく。

 列から出てくる者は、ひとり、またひとりと続いた。


「郡守殿」


 バルドの声が境内に響いた。


「神域でこのような詮議をなさるとは。神事への冒涜でございます」


 ゲルハルトが言葉を重ねた。


「過去の書類には、どれも歴代の郡守殿の印がございます。それに私は、中央にも少しは顔が利く。着任早々、お立場を危うくなさることもありますまい」


 サイモンは二人を順に見た。


「河神を敬うことと、畑を差し出すことは、別のことです。祈りも祭礼も、禁じるつもりはありません」


 それから、集まった人々へ目を移した。


「今年の寄進は、自由な意思によるものとは認められません。今のまま書類が提出されても、私は承認印を押しません。台帳上、これらの畑は今も元の持ち主のものです」


 一度、言葉を切る。


「署名を強いることも、脅して明け渡しを迫ることも禁じます。今日ここで話した方々に報復することも、立ち退かせることも許しません。関係する記録は、郡役所が保全します」


 ロランはすでに書類を揃えていた。


 今年の対象地の一覧。

 前日に届いた寄進の書式見本。

 農民が所有者のままの土地台帳の抜粋。

 工事許可台帳の該当期間の抜粋。

 そして、書き取ったばかりの証言。


 ロランは書類を紐で束ね、一度で固く結んだ。


 サイモンはゲルハルトを見た。


「この郡は、国境の砦への補給路と、その食糧を担っています。許可の記録のない堤が、砦を支える畑の被害を大きくした疑いがある。資料を添えて、帝都へ正式に報告しましょう。中央にお知り合いがおいでなら、その方のお目にも留まるでしょう」


 ゲルハルトは口を開きかけ、閉じた。

 それから、バルドのほうを見ずに言った。


「土地の管理を委ねてきたのは、神殿のほうですからな」


 バルドの目が、初めてゲルハルトに向いた。

 だが何も言わず、祭壇へ向き直った。


 結びの祈りが短く唱えられた。

 名簿が読み上げられることはなかった。

 署名欄の空いた書付は、台の上に重ねられたままだった。


◇


 返地祭からひと月が過ぎた。


 祭礼の翌日から、下級官吏たちはサイモンの命で、対象となった家々を回っていた。

 明け渡しを迫られていないか、確かめるためだった。


 執務室の机にロランが書類の束を置いた。

 取り寄せた神殿の会計帳簿と、ヴァレンツ家との契約の写しだった。


「会計と契約を突き合わせました。委託料の一部が神官長の私費に流用されていたことを、帳簿で確認しました」


 ロランはもう一冊、角のすり切れた帳面を机に置いた。


「神殿の古い預かりの帳面です。昔は、水をかぶった畑を預かり、直ったあとで持ち主へ返した記録が、年ごとに並んでおります」


 その指がある頁で止まった。


「十数年前から、返した記録が途絶えております」


 サイモンは手帖を開いた。


 ――今年の分、止められる。


 台帳を洗い終えた日に書いた四行のうち、この一行には返地祭の夜に線を引いてあった。

 サイモンは炭筆を取り、さらに二行に線を引いた。


 ――強制、証なし。

 ――神殿の金、不明。


 残ったのは、一行だけだった。


 ――過去の分、審理。


 机の端には移転書類の古い綴りが積まれていた。

 開くと、朱の承認印が並んでいる。郡守が替わるたびに印影は変わり、書式だけが変わらなかった。

 印を押した者を裁いても、次に印を押す者が同じことをすれば、この頁はまた増えていく。


 サイモンは手帖の新しい頁に書いた。


 ――印を押す者を、縛る。


 事は帝国の手続きへと移っていった。


 冬のうちに、バルドは神殿の上位組織によって神官長の職を解かれた。

 不正の責任は、それとは別に帝国の司法が問う。


 ゲルハルトについては、許可のない河川改変の経緯、下流の被害への認識、神殿の土地から得た利益の扱いが審理の対象となった。

 賠償もそこで決まる。

 すぐに片のつく話ではなかった。


 歴代の郡守の承認印についても、サイモンは証拠を添えて帝都へ監査を求めた。


 審理で強制が認められた畑は、一筆ずつ元の持ち主へ戻されていった。

 最初に戻ったのは、あの杖の老人の畑だった。


 ロランは返還の決定に従い、台帳の所有者の欄にある神殿の名に線を引き、老人の名を書き戻した。

 耕作者の欄のヴァレンツの名も消された。


 サイモンは記載を確かめ、その頁に承認印を押した。


 マルタの畑は、戻されたのではない。

 一度も手放さなかった畑として、泥をかき出す作業が始まっていた。


 神殿の門は、変わらず朝ごとに開いた。

 下級神官たちは祈りを続け、信徒は川の安らかなことを祈りに来た。


◇


 冬が終わるころ、サイモンとロランは郡政十七条の草案を練っていた。

 骨子はサイモンが示したが、条文に盛り込む言葉の多くは郡役所の外から集まった。


 イーリアは村の女たちから聞いた話を書き留めて持ってきた。


「訴えに来ても、字が書けない人が多いの。聞いて書き取る人がいなければ、訴えはないのと同じよ」


 イーリアに伴われて執務室へ来たマルタは、播きつけと刈り入れの時季を指折り数えた。


「その時に人を取られたら、畑はやっていけません」


 ヨハンは水路の図に印をつけながら言った。


「水路は作って終わりじゃない。毎年見ないと、また詰まる」


 春先の朝、郡役所の門の脇に新しい板が掲げられた。

 十七の条が黒々と書き並べてある。


 集まった人々の多くは字が読めなかった。

 ロランが板の前に立ち、一条ずつ声に出して読んだ。


「第五条。民の訴えは、貴賤や貧富によって退けてはならない」


 人垣の後ろで、あの若い男が顔を上げた。


「第十二条。官吏は定めのほかに民の財を徴してはならない」


 ロランの声は門の外までよく通った。


「第十七条。重大な政務は独断を戒め、広く意見を求めなければならない」


 読み終えると、人々の中から声が上がった。


「郡守様も、これを守るんですか?」

「はい。郡守様も、私ども官吏も、同じです」


 ロランは迷わずに答えた。

 サイモンは少し離れたところで、それを聞いていた。


 板の脇には決まりごとも書き添えられた。

 台帳は決まった日に誰でも見られる。

 税を納めた者や労役を務めた者には証文を渡し、控えは役所に残す。

 訴えは字が書けなくても官吏が聞き取って記し、水路は季節ごとに見回る。

 それらの帳面はロランが預かった。


 その日の午後、サイモンは川の曲がりへ出た。


 古い河道の窪みではヨハンの指図で人夫たちが泥を掘り返していた。

 堤は元のまま残っている。


「いっぺんには崩さない。古い道を先に通して、それから堤を少しずつ開ける」


 ヨハンは窪みの先の低地を顎で示した。


「一度に開けると、今度は向こうが沈む」


 低地の一部は水を受け止める遊水地に充てることになっていた。

 そこに畑を持つ者には、代わりの土地か償いの金を用意する。

 人夫には日ごとに賃金が支払われ、誰にいくら払ったかも帳面に残された。


 ヨハンは掘り手たちを見たまま言った。


「播きつけが始まったら、人は畑へ返す。続きは刈り入れのあとだ」


 工事の費えは乏しい郡の予算から出し、賠償の審理とは切り離していた。


 帰りに、サイモンは下の村へ回った。


 マルタの畑では泥のかき出しが半分ほど済んでいた。

 畑の脇の水路も泥がさらわれ、細く水を通している。

 垣根のそばに子牛が一頭つながれ、娘が桶で水をやっていた。

 冬のあいだはイーリアたちの食糧支援でしのぎ、畑の復旧にも見通しが立ったため、子牛を売らずに済んだと聞いていた。


 乾きかけた土の上にマルタが鍬を手にして立っていた。

 サイモンに気づき、頭を下げる。


「郡守様」

「畑は、どうですか?」

「まだ半分です。向こうの端には泥が残っています」


 マルタは畑の奥を振り返ってから、鍬を持ち直した。


「でも、播きつけには間に合わせます」


 鍬の刃先を土に当て、マルタは体の重みをかけた。

 土は、刃を受け入れた。


 工事計画書には、砦への補給と税収が回復する見込みを記してあった。

 追加の予算は、その夏、まず一年分が帝都から下りた。

 予算書の民政の欄に新しい行が加わった。


◇


 数年が過ぎた秋、刈り入れはもう済んでいた。


 川沿いの道の下で刈り株の並んだ畑が日を受けて光っていた。

 畝ごとに麦の束が立てかけられ、牧草地では牛が草を食んでいる。

 新しく開いた土地には農家の屋根が一軒、また一軒と並んでいた。

 遠くの街道を、砦へ麦を運ぶ荷車が進んでいく。


 この夏も、川は一度あふれた。

 水は昔の道を抜け、向こうで広がって、引いた。


 川の曲がりのほうでは、若い職人たちが石を運んでいた。

 手本を見せている大柄な背中は、ヨハンだった。


 ロランは今も郡役所で台帳を預かり、十七条の板は門のそばですっかり日に焼けている。


 マルタの畑の刈り入れは、昨日のうちに子供たちと済ませたという。


 朝のうちに帝都から手紙が二通届いていた。

 ユリウスの手紙には、几帳面な字で父への問いがいくつも並んでいた。

 レオンの手紙は短く、牛の絵がまた一枚増えた礼と、部屋の壁がもう足りないという文句が書いてあった。


 ミーナはマルタの娘と並んで、少し先を歩いていた。

 二つに結んでいた髪は、いつのまにか一つにまとめられている。

 脇に抱えた画板には、父の炭筆が一本挟んであった。


 牧草地の柵の前でミーナが足を止めた。


「あの子、描かなくちゃ」

「この前も描いたじゃない」とマルタの娘が笑った。

「レオン兄様の壁に、あと一枚だけ」


 ミーナは柵に画板を乗せかけて、ふと振り返った。


「最初に来たとき、ここ、泥だらけだったよね」

「そうだったね」とサイモンは答えた。


 ミーナは刈り株の並ぶ畑を見渡し、父の顔を見上げた。


「お父様が、この畑を作ったの?」


 サイモンは川の流れを見た。


「作ったのはここに暮らす人たちだ。父さんは少し手伝っただけだよ」


 隣でイーリアが笑った。


「その『少し』が、いつも多いのよ」


 サイモンも笑った。


 ミーナは首をかしげ、画板に向き直った。

 炭筆の線が牛の背をなぞりはじめた。


 日が傾くころ、マルタの娘は手を振って、畑のほうへ帰っていった。

 三人は川沿いの道を公邸へ向かって歩きだした。


 ミーナが父の手を取った。

 その指先は、炭筆で黒くなっていた。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


サイモンたちの物語を、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。


また別の物語でも、お会いできれば嬉しく思います。

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