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第1話 河神の土地

 馬車の窓の向こうで、畑が泥をかぶったまま乾いていた。


 刈り入れの時季はとうに来ているはずだった。

 灰色にひび割れた土から倒れた麦の茎が黒く腐って突き出ている。

 崩れたまま放られた小さな土手があり、途中で泥に呑まれて消える農道があった。

 戸を閉ざした家が、一軒、また一軒と後ろへ流れていく。


 車輪の下の街道だけは、ところどころ敷石が継ぎ足され、どうにか形を保っていた。

 隣国と接するこの郡から、国境の砦へ荷を運ぶための道だった。


 サイモン・ヒョウゼルは赴任前に目を通した予算書を思い出していた。

 砦への補給路の維持費は毎年欠かさず計上されている。

 民政の欄はそれに比べてひどく薄かった。


「お父様、牛がいない」


 向かいの席でミーナが窓に額を押しつけた。二つに結んだ栗色の髪が揺れる。


「羊もいないの。レオン兄様に牛の絵を送る約束なのに……」


「きっとどこかにいるよ。畑が乾いているから、みんな水のある方へ移っているんだろう。見つけたら、父さんにも教えてくれるかい」


 ミーナは窓から顔を離して振り返り、こくりと頷いた。


「うん。見つけたら、絵に描く」


 帝都に残した長男ユリウスと次男レオンは、イーリアの実家から学院へ通っている。


 イーリアは娘の肩を引き戻し、栗色の長い髪を耳にかけて夫の方を見た。


「公邸、雨漏りしていないといいけれど」

「していたら、まず屋根から直そう」

「まず、が多い人ね」


 サイモンは苦笑して膝の上の手帖を開き、炭筆で一行だけ書いた。


 ――まず、現地を見る。


 日暮れに着いた公邸の玄関で、年配の下級官吏が着任後の予定を記した紙を差し出した。

 並んだ行の終わり近くに、ひときわ太い字がある。


 ――二十日後 河神への返地祭


「お祭り?」


 紙を覗き込んだミーナが目を輝かせた。


「そのようだね」


 答えながら、サイモンは「返地」の二文字を炭筆で小さく囲んだ。


◇


 翌朝、郡役所の執務室で書記官のロラン・フェルミアは薄い綴りを一冊だけ差し出した。


「管内の概要を、こちらにまとめてございます。ご確認のうえ、署名をいただければ」


 細身の青年だった。

 黒髪をきちんと撫でつけ、灰青色の目は綴りの表紙から上がらない。


 サイモンは数頁めくり、綴りを閉じた。


「元の台帳を見せてもらえますか。人口と税収、被災地、土地の台帳。それから、手のついていない復旧工事の一覧も」


 ロランの返事は、ひと呼吸遅れた。


「……ただいま」


 運び込まれた台帳は机の半分を埋めた。

 サイモンは年ごとの頁を並べていく。

 人は減り、税は減り、耕地も減っている。

 その中で二つの欄だけが年を追って膨らんでいた。


「神殿が所有する土地は増えていますね。それに、耕作者の欄にヴァレンツ家の名がある畑も増えている」

「……台帳によれば、そうなります」

「土地の名義が移るときの手続きは?」

「帝国法では、郡役所の台帳に登記し、郡守様の承認印をもって所有が移ります。記録では、これまでの移転書類には、すべて歴代郡守様の印がございます」


 ロランが広げてみせた書類は、どれも隅に朱の印が押してあった。


「その承認は、妥当なものだったのでしょうか」


 ロランは台帳の端を指でそろえた。

 それから、そろえる必要のない端をもう一度そろえた。


「それは――私の立場では……」

「ふむ……」


 サイモンはそれ以上問いを重ねなかった。

 ロランは台帳に視線を落としたまま、しばらく口を閉ざしていた。


「……この地では、洪水は河神の怒りとされております。秋には水をかぶった畑を河神へお返しする祭礼があり、返地祭と申します」


 サイモンは手帖に二行を書いた。


 ――神殿名義、増。

 ――ヴァレンツ家、増。


 台帳の数字だけでは、増えた土地がどこの畑なのか分からない。

 地図と現場が要る。


 復旧工事の一覧をめくると、見積書の署名に同じ名が何度も出てきた。


 石工、ヨハン・リーデル。


◇


 その翌日、二人の客が郡役所を訪れた。


 先に入ってきたのは恰幅のよい男だった。

 帽子を脇に抱え、白髪の交じった黒髪を後ろへ撫でつけている。

 仕立てのよい上着の釦が腹の上で張っていた。


「ゲルハルト・ヴァレンツと申します。郡守殿のご着任、心よりお祝い申し上げますぞ」


 後に続いた痩せた男は、灰色の長髪を背に垂らし、鋭い目で部屋をひと巡りしてから頭を下げた。

 河神神殿の神官長、バルド・エルメンだった。


 ゲルハルトはヴァレンツ家が長年この地の麦と市を支えてきたことをよどみなく語った。


「公邸はだいぶ傷んでいると聞きましてな。修繕の人手なら、いつでもお回しします。それから、これはほんの気持ちで」


 控えていた使用人が木箱を机の端に置いた。蓋の隙間から葡萄酒の瓶の首が覗いている。


「お気持ちだけいただきます。公邸の修繕は、郡の予算で行いますので」


 ゲルハルトは一瞬だけ目を細め、それから腹を揺らして笑った。


「新任の方は、皆さま最初はそうおっしゃる」


 使用人が木箱を引き取った。

 迷いのない手つきだった。


 バルドが一歩前に出た。


「返地祭のことは、もうお聞き及びでしょう。川の水は河神の御意思。水に浸かった地を河神へお返しするのは、古くからの習いでございます。水害に怯える民を落ち着かせる、大切な祭礼です」


 サイモンは静かに頷いた。


「古い慣習については、現地の事情を学ばねばなりませんね」


 バルドは深く頷き、ゲルハルトは機嫌よく帽子をかぶり直した。


 二人が帰ると、サイモンは手帖を開き、ゲルハルトの言葉をそのまま書き留めた。


 ――皆さま、最初は。


 それから、昨日見た書類と、そこに並んでいた朱の承認印を思い出した。


◇


 前日も市場を見て回ったイーリアは、この日もミーナを連れて市場から村へ出かけた。


 市場は小さかった。

 並んでいるのは萎びた蕪と、豆がいくらか。公邸の台所に要るものを買い揃えて村の外れまで足を延ばすと、畑の土は乾いてひび割れ、流れてきた枝や藁が絡まったまま残っていた。


「お母様、牛!」


 ミーナがイーリアの手を振りほどいて駆けだした。


 垣根の向こうに子牛が一頭つながれていた。その前で、ミーナと同じくらいの背丈の女の子が桶から水をやっている。


「さわってもいい?」


 女の子は少し迷ってから頷いた。

 二人はすぐに子牛を挟んでしゃがみこみ、イーリアにはよく分からない話で笑いはじめた。


 家の戸口から淡い茶色の髪の女が出てきた。前掛けで手を拭きながら、イーリアの顔と身なりを順に見る。


「新しく来た郡守の妻で、イーリアと申します。娘がお邪魔してしまって」


 前掛けを握った女の手に力がこもった。


「……マルタ・エーベルです。奥様にお出しできるものは、うちには何も」


 それきりマルタは戸口から動かなかった。


 子牛の方から女の子の声がした。


「この子ね、畑がなくなったら売るんだって」

「――こら」


 マルタの声が鋭くなった。娘が首をすくめる。

 マルタはすぐに目を伏せ、申し訳ありません、と小さく言った。


 イーリアは垣根の向こうの畑を見た。

 乾いた泥の下に、刈られなかった麦が寝ている。


「よろしければ、お話を聞かせていただけませんか」


 返事はなかった。

 子牛が鼻を鳴らし、ミーナと女の子がまた笑った。


 やがてマルタは戸口の脇の腰掛けを手で払い、腰を下ろした。


「主人は四年前の大水で亡くなりました。川の様子を見に行ったきり、戻ってこなかったんです」


 マルタは垣根の向こうの畑に目を向けた。

 それからは八歳の娘と五歳の息子を育てながら、夫の家が代々耕してきた畑を守ってきた。

 その畑が今年の水で駄目になった。


「神殿の方が来て、今年の返地祭の名簿にうちの畑が載ったと」

「名簿に載ると、どうなるのですか?」

「祭礼の日に、寄進の書付にしるしをつけるんです。そうしたら、畑は河神様のものになります」


 しるしはまだつけていない。

 畑はまだ自分のものだと、マルタはそこだけはっきりと言った。


「でも、断ったら罰が当たります。ヴァレンツ様に睨まれたら、この村では暮らしていけません」

「昔から、そういう決まりなのですか?」


 マルタは首を横に振った。


「年寄りから聞いたことがあります。昔の返地祭は、駄目になった畑をしばらく神殿に預けて、直してもらって、また返してもらうものだったって。今は、出したら戻ってきません」


 それからマルタは川の方へ目をやった。


「それに、今年の水は変でした。いつもは下の葦原の方から、じわじわ上がってくるんです。今年は川上の方から、道を伝って、いっぺんに来ました」


 イーリアの目は膝の上で組まれたマルタの手にあった。

 節の太い指にひびが何本も走っている。


「主人に事情を伝えて、一緒に考えます」


 マルタは黙って頭を下げた。

 礼なのか、何も期待しないという意味なのか、イーリアには分からなかった。


 帰り道、ミーナは何度も後ろを振り返った。


「お母様。どうして神様は畑を返してくれないの?」


 イーリアは答えられず、娘の手を握り直した。


◇


 その夜、サイモンは手帖を開いたまま、イーリアが村で出会ったマルタ・エーベルという農婦の話を聞いた。


 返地祭の昔の姿に話が及ぶと、炭筆が動いた。

 預けて、直して、返す。

 今は返らない。


「水の来る向きも、今年は違ったそうよ。川上から、道を伝って一度に来たって」


 サイモンは顔を上げた。


 手帖の頁を戻す。

 引き継ぎの日に書いた二行がそこにあった。

 神殿名義、増。ヴァレンツ家、増。


 なぜ、水をかぶった畑は戻らないのか。

 なぜ、今年の水は向きを変えたのか。

 二つの問いが同じ頁の上に並んだ。


「明日、川を見に行く。古い河道を知っていそうな石工がいるんだ。復旧工事の見積書に、何度も名前が出ていた」


 言い終える前に、炭筆はもう次の頁に移っていた。


◇


 呼び出されたヨハン・リーデルは理由を聞かなかった。


 日に焼けた大柄な男で、金褐色の短髪に石の粉がこびりついている。

 川を上から下まで見たいとサイモンが告げると、ヨハンはその官服を眺めた。


「足が汚れますが……」

「構いません」


 最初に連れていかれたのは町外れの古い水車小屋だった。

 石積みの基礎に横向きの刻み目がいくつも並び、低いものは苔に埋もれかけている。


「大水のたびに、誰かが刻んできた。親父の代より前から」


 上流へしばらく歩くと、川が大きく曲がる場所に出た。

 ヨハンは曲がりの外側に立ち、足元から斜めに延びる窪みを指した。

 草に覆われてはいるが、かつての水の通り道だと分かる。

 窪みは林の間を抜けて低地へ続いていた。


「水が出ると、昔はここから向こうへ抜けた。向こうで広がって、引いた」


 その窪みの口を盛り土の堤が塞いでいた。

 川に面した側には新しい石が積まれ、盛り土に生えた草はまだ丈が低い。


「二年前です。ヴァレンツ様が、自分の畑を守るために築いた」


 堤に登ると、窪みの続く側にヴァレンツ家の畑が刈り株を並べて乾いていた。

 反対に川の下流へ目を向けると、ずっと先に泥の色をした村が見える。


「抜け道のなくなった水は、下へ行く。下の村は、あれができてから、川上の水を一度にかぶるようになった」


 サイモンは堤を降り、官服の裾を膝までまくり上げた。

 窪みの底はまだ湿っていて、踏み込むと泥が足首まで沈んだ。

 歩幅で幅を測る。

 ヨハンが黙って差し出した棒で深さを測る。数字を手帖に書きつけていくうちに、靴の中まで泥が入ってきた。


 翌日からは下流の村を歩いた。


 納屋の壁に、乾いた水の線が何本も残っていた。いちばん高い線は、サイモンの胸の高さにあった。


「今年のです」


 ヨハンはそのすぐ下の線を指でなぞった。

 四年前のものだという。


「あなたは、いつから知っていましたか?」


 返事は遅かった。


「……できた年に」

「なぜ、黙っていたのです?」

「ヴァレンツ様の仕事がなくなったら、うちは食っていけない。家の者もいる」


 サイモンは何も言わなかった。

 壁から離れると、納屋の向こうに畑が広がっていた。

 泥の下で、黒くなった麦が折れ重なっている。

 マルタという女の畑も、このどこかにあるはずだった。


 炭筆を持つ手が止まっていた。


「堤ができる前の川と、今の川。二つの図を描いてもらえますか。見たとおりに、正確に」


 ヨハンはサイモンの泥だらけの靴を見て、それから「やります」とだけ言った。


 三日後の朝、ヨハンは郡役所の門の前に立っていた。

 差し出された紙には、図ではなく、下の村の家ごとの水の高さが書き並べてあった。


「頼んだものとは違いますね」

「要ると思った。図は、もう少しかかる」


◇


 祭礼まで十日を切った。


 ロランは台帳と書類の束を年ごとに机へ並べた。

 寄進による名義の移転、洪水の記録、神殿からの管理委託、それに河川工事の許可台帳。


 神殿への移転は十数年前から毎年のようにあった。

 二年前からはそこに下流の村の名が増えていた。


 どの書類も同じ文面だった。

 河神への感謝をもって、自らの意思により、この地を永く神殿に寄進する――。

 整った字の文面の下に寄進者の署名がある。名前を書けた者は少ない。

 多くはゆがんだ線で×のしるしがつけてあるだけだった。


「書いた本人は、この文面を読めたのでしょうか?」

「……読み聞かせたとも、読めたとも、記録にはございません」


 文面の脇には朱の承認印が押されていた。

 印影は年によって違う。

 郡守が替わるたびに印は変わり、書式だけが一度も変わっていなかった。


「これらの書類を受理したのは?」


 ロランは口を開きかけて、閉じた。


「受理と綴じ込みは、書記官の務めでございます」


 その目は朱印の並んだ頁から外れていた。


 神殿名義になった畑の多くは、翌年からヴァレンツ家の管理になっていた。


「この委託料は、ほかの借地契約と比べてどうですか?」

「……著しく低い額です」

「神殿に入った委託料の使い道は?」

「そこまでは、郡役所の記録では追えません」


 サイモンは小さく息を吐いた。


「許可台帳は?」


 ロランは二年前の前後の頁を二度、三度と見返した。


「上流の堤に当たる許可の記録は、ございません」


 サイモンは手帖に書いた。

 許可、記録なし。


 最後にロランは神殿から届いた書類を差し出した。

 今年の祭礼実施の届と、寄進予定地の予告名簿。

 名簿の中ほどにエーベルの名がある。


 サイモンは土地台帳の該当する頁を開いた。

 所有者はマルタ・エーベルのままだった。

 過去に移転した土地には、旧名義を消した線と朱の承認印が並んでいる。

 しかし今年の返地対象に指定された畑には、まだ名義変更の記録がなかった。


 サイモンは台帳から目を上げた。


「祭礼で寄進を宣言しても、それだけでは」

「所有は移りません。帝国法では、登記と承認印がなければ」

「私が印を押さなければ、この畑は動かない」

「……はい」


 ロランは答えてから、台帳の頁の端を押さえた。


「過去の分は?」

「印がある以上、正式な審理を経なければ取り消せません。郡守様お一人のご判断では」


 サイモンは手帖に書き足した。


 ――今年の分、止められる。

 ――過去の分、審理。

 ――強制、証なし。

 ――神殿の金、不明。


 仕組みはほぼ見えた。

 だが農民が脅されてしるしをつけたという証も、神殿とヴァレンツ家の間でどれほどの金が動いたかという証も、まだこの机の上にはない。


 翌朝、台帳にはロランの挟んだ紙片が前の日よりずっと増えていた。


◇


 祭礼を五日後に控えた昼、ゲルハルトとバルドが連れ立って郡役所に来た。


「郡守殿が泥まみれで川を歩いておられると、町はその噂で持ちきりですぞ」


 ゲルハルトは椅子に腰を下ろすなりそう切り出した。

 笑ってはいたが、前に来たときのように腹は揺れていなかった。


「上の堤のことでしたら、あれは我が家の畑と、そこで働く者を守るための当然の備えです。とやかく言われる筋合いはございませんな」


 バルドが言葉を継いだ。


「祭礼の日取りが近づいております。このような折に役所が神事に口を挟めば、信徒は不安に思いましょう。神域を乱すおつもりか」

「河神への信仰を否定するつもりはありません」


 サイモンは二人を順に見た。


「ですが、公共の水路と民の権利は、郡守として調べます」


 ゲルハルトは肩をすくめた。


「どうぞ、お調べになればよろしい。どの書類にも、歴代の郡守殿の印がございます。それに私は、中央にも少しは顔が利きますのでな」


 二人が帰った後、サイモンは裏口から訪ねてきたヨハンを執務室へ通した。


「ヴァレンツ様の番頭が来た。来年から、うちに仕事は回せないそうだ」


 それだけ言うと、ヨハンは床に目を落とした。


 サイモンの指の間で、炭筆が乾いた音を立てて折れた。


 彼は折れた先を机の端に寄せ、新しい炭筆を取り出した。


「図は、続けてもらえますか」


 ヨハンは顔を上げた。


「……仕上げます」


 夕方、ロランが執務室の扉を閉めた。


「神殿の使いから、古い台帳の閲覧はほどほどにしておくよう言われました」


 声が少し上ずっていた。


「続けられますか?」


 ロランは答えるまでに間を置いた。


「台帳は、役所のものです」


◇


 祭礼まで三日となった夜、サイモンは公邸の書斎で書類を揃えていた。


 イーリアが茶を運んできた。

 机の端では、先に運んだ茶が手もつけられないまま冷めている。

 彼女はそれを下げ、新しい杯を置いた。


「今日もマルタさんのところへ行ってきたわ。村の女の人たちとも、少し話した」

「どうだった?」

「みんな、怖がってる。罰が当たるのも、ヴァレンツ様に睨まれるのも」


 サイモンは頷き、台帳の写しを指で叩いた。


「今年の寄進書類が役所に回ってきても、私が承認印を押さなければ、移転は成立しない。まず手続きを止める。審理は祭礼に間に合わないが、今年の畑は守れる」


 イーリアはすぐには答えず、湯気の立つ杯を夫の方へ少し押した。


「サイモン。それでも、マルタさんたちは怖くて、自分から畑を明け渡してしまうかもしれない」

「印がなければ、畑は彼女のものだよ」


 イーリアは杯から手を離し、夫の顔をまっすぐに見た。


「役所の手続きではそうでしょう。でも、村では話が違うわ。神殿もヴァレンツ様も、あの人たちには逆らえない相手なのよ。マルタさんが怖くて畑に戻れなければ、台帳に名前が残っていても意味がないわ。種を播かなければ、来年は何も採れないもの」


 サイモンは炭筆を置いた。


「神官長は、民を落ち着かせるための祭礼だと言っていた」

「落ち着いてなんかいない。怯えているのよ。河神様を敬うことと、畑を差し出すことは、別のことのはずでしょう。でも、あの人たちには同じに聞こえているの」


 サイモンは机の上を見下ろした。

 台帳の写し。

 ヨハンの水位の表。

 名義変更の記録がない頁。


 どれも、マルタの家の戸口には届かない。


 サイモンは手帖を机に置いた。


「河神の名で言われたことは、河神の前で問い直すしかない、か」

「祭礼に出るの?」

「皆が集まる場所で、神官長が自分の口で言うことを確かめる」


 イーリアは夫の顔を見つめ、それから頷いた。


「マルタさんに、話してほしいとは言わないわ。でも、あの人がもし話す気になったら、そのとき一人にはさせない」

「頼む」


 サイモンは新しい茶に手を伸ばした。

 まだ熱かった。


◇


 祭礼の前日、神殿から書類が届いた。

 正式な対象地の一覧と、式次第と、寄進の書式見本。

 一覧にはエーベル家の畑がはっきりと記されていた。


 書式見本の文面は十数年分の書類と一字も違わなかった。

 署名の欄だけが空いている。


 昼過ぎ、ゲルハルトとバルドが若い下級神官を一人伴って現れた。


「明日の段取りを、念のためお伝えにまいりました」


 口上を述べながら、バルドの目は机の上の書類の束を一度なぞった。


 聞き終えると、サイモンは穏やかに言った。


「土地と川に関わる大切な儀式です。明日は郡守として見届けましょう」


 バルドの目が書類からサイモンの顔へ移った。

 ゲルハルトが椅子の背にもたれた。


「それはありがたい。では郡守殿、寄進の承認についても、いずれお取り計らいいただけますかな」

「明日は儀式を見届けに参ります。承認については、書類を確認してからです」


 ゲルハルトは口元に笑みを浮かべた。


 バルドは振り返り、控えていた下級神官に命じた。


「明日は郡守殿もご列席になると、信徒らに伝えておけ」


 三人が去ると、サイモンはロランを呼んだ。


「明日は土地台帳と管理委託契約の抜粋、神殿の正式な対象地一覧、今日届いた書式見本、それに工事許可台帳の該当箇所を持ってきてください」


 ロランは一つずつ復唱し、書き留めた紙を懐にしまった。


 夕刻、ヨハンが仕上がった二枚の図を届けに来た。

 明日これを神殿まで持ってきてほしいと頼むと、ヨハンは図を巻き直し、紐を固く結んだ。


 夜、公邸に戻ったイーリアは外套を脱ぎながら言った。


「マルタさんに伝えてきたわ。明日、無理に話さなくてもいいって」

「彼女は、何と」

「話すとも、話さないとも言わなかった」


 マルタの子供たちは明日、近所の信頼できる農家に預けるという。

 ミーナは公邸で留守番になった。お祭りなのに、と頬をふくらませたらしい。


 サイモンは書斎の机に手元の写しを並べ直し、いちばん上に手帖を置いた。


 最後の頁を開いた。

 台帳を洗い終えた日に書いた四行が並んでいる。


 ――強制、証なし。


 その一行を、サイモンは長いこと見ていた。


 夜が明ければ、返地祭だった。


 サイモンは手帖を閉じた。

 表紙の角は川の泥でまだ黒ずんでいた。





いよいよ迎える、河神への返地祭。

新任郡守の列席を歓迎する神殿と大地主。

集まった人々の前で、サイモンは静かに問いを投げかけます。


次回、第2話「川に道を返す」

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