第21話 異国に学べ ! この国の尊王攘夷
江戸・赤坂氷川町――。
赤坂氷川町は、坂の町である。
道はゆるやかな坂となって、武家屋敷の白壁や黒板塀のあいだを縫い、その高い塀の内側には松や椿が枝を伸ばしている。
この氷川町に、幕臣・勝麟太郎(のちの勝海舟)が移り住んでから三ヶ月のことである。
明け六つ(午前六時)――、いつもなら床の中の麟太郎は、縁側で大あくびをした。
昨晩捕り物があったらしく、寝入り端を起こされ、そのまま夜明けを迎えたのがいけなかったらしい。ここでは静かに暮らせるかと思えば、とんだ見当違いだったことを、麟太郎は今になって後悔する。
「まったく、ぎゃあぎゃあ騒ぎやがって……」
麟太郎の愚痴は、武力を以て幕閣を動かそうとしている一部の過激攘夷派に向けられていた。
幕閣のなかで麟太郎は開国派というより、攘夷派に近い。ただ彼の尊王攘夷は、世に騒がれる尊王攘夷とは違っていた。
勝家は天正三年以来の御家人だったが、麟太郎の高祖父に当たる命雅が宝暦二年に旗本の列に加わって旗本となった家柄である。
本を正せば麟太郎の父・小吉が黒谷家から旗本小普請組・勝家に婿養子に入ってから始まる。麟太郎も父の小吉も、江戸っ子気質なため、口の方は悪いが。
家は旗本といっても広くはなく、下級武士の家とさほど変わらない。麟太郎にとっては、その方が気が楽なのである。そもそも、上の目を気にしつつ畏まっているというのは、麟太郎の性格上気に食わず、出世など望んでいなかったのだが。
だが異国船が江戸湾沖に出現し、その圧倒的存在感を見せられたとき、この国があまりにも無力であることを知った。
(こりゃあ、戦なんぞしても勝てねぇ)
異国船には最新鋭の大砲が装備され、海の上からも江戸を火の海にしかねない威力があると見て取れた。いま彼らとやり合えば、間違いなくこの国は負ける。
麟太郎は、再びあくびをした。
また寝るかと庭に背を向けた麟太郎の前で、引き戸が激しく開いた。
「勝センセっ!」
――うるせぇのが、来やがったぜ……。
麟太郎はやってきた男を視界に入れると、軽く舌打ちをした。
「なんでぇ。朝っぱらから」
「勝センセ、夕べはどこに行っちょってたが!?」
土佐弁でまくし立ててくる男に、麟太郎は嘆息した。
やってきたのは、土佐脱藩郷士・坂本龍馬である。
龍馬との縁は、この男が麟太郎を斬りに来たことから始まる。
「酒が切れたんで、ちょっくら酒屋に行っていただけだが?」
「襲われたらどうするぜよっ! こん江戸は物騒やき」
お前がそれをいうか――と麟太郎は思ったが、龍馬も麟太郎を斬りに来たときは過激攘夷派と理由はさほど変わらなかったであろう。
その男が弟子にしてくれと押しかけ、麟太郎の警護を買って出るといってきたときは、麟太郎は冗談じゃねぇと思うも、龍馬は麟太郎に懐いてしまった。
いやはや、人の縁とは妙な具合にできているものである。
「こんな俺らを襲ってもなんの得にもならねぇと思うぜ、龍馬。この勝の首で、異国を払えると思ってやがる馬鹿どもは、ちっともわかってねぇ」
麟太郎はそのとき龍馬にいったことばを、ふたたび口にした。
麟太郎の幕府内での立場は、軍艦操練所教授方頭取である。
この国に足りないのは海防だった。
この国も、異国に負けぬ軍艦を作らねばならぬ。船を動かす人手を育てなくてはならぬ。そこで築地にできたのが、軍艦操練所である。
西洋式軍艦はこの国に必要なのだが、武力に訴える攘夷派は許せぬ所業と思っているらしい。この国は変わらないといけない。鎖国に戻ってしまえばこの国は、さらに取り残されることになる。幕閣の一部はようやく海防に動き出したが、この国はまだ異国と事を構えようとする者が多い。
「こん国を強くしゆうが? センセ」
「ああ。そうじゃねぇと、この国は異国にずっと頭が上がらなくなる。異国と渡り合えてこそ、攘夷だ。それには異国の技術なのさ」
「センセは、肝が据わっちゅう」
「お前ぇに褒められても嬉しくねぇよ」
龍馬の言葉に麟太郎は鼻を鳴らし、空を見上げた。
空は地上の騒ぎなど知らぬという顔で青々としていた。
※※※
この日――、沖田総司は浅草門前に来ていた。
試衛館現道場主・近藤周助は、金龍山浅草餅が大好物であった。しかも甘党である
総司が甘党になったのは、周助の影響だろう。
すでに夏の暑さは過ぎ、とんぼが飛び交い始めていた。
空には薄青い秋空がひろがり、ところどころに、刷毛で掃いたような白い雲が浮かんでいる。浅草寺の境内から伸びている木々の梢には、早くも色づいた葉が混じっていた。
風が吹くたび、黄ばんだ葉が一枚、また一枚と落ちる。それが石畳や土の道へ舞い降りる間にも、人の波は途切れなかった。
総司は茶店の縁台にこしかけ、運ばれてきた茶に手を伸ばした。
どこからか飛んできた枯れ葉が総司の足に触れ、再び風に運ばれていく。
風車を幾つもつけた飴売り、籠かきに、浅草寺に詣でる参拝者、通りには様々な人間が行き交う。
夜ともなれば、吉原遊郭へ向かう者もいるだろう。
どことなくその歩みが早く見えるのは、これから訪れる冬のせいなのか。
「聞いたかい? 昨晩、お旗本の戸田さまが何者かに襲われたそうだ」
「まったく、やっと人斬りがおとなしくなっと思ったら、またか」
「侍のすることはわからねぇ」
茶店の客が、そんな会話をしていた。
総司は視線を落としていた手元の茶器から、空へ視線を移した。
この江戸で再び始まった血生臭い人斬り――。
下手人は、攘夷派浪士だという。
総司は開国賛成派でも、攘夷派でもない。
ただ日々が、穏やかであってほしいと願うひとりである。
「隣――、座ってもええかえ?」
総司の前にその男が立ったのは、団子に手を伸ばしかけたときだった。
妙なのは、その男の身なりである。
髪は癖っ毛で、着古した着物と袴、人懐こそうな笑みを浮かべている。しかも、土佐訛りである。
「え、ええ」
「まっこと、酷い世の中じゃ」
座るなり話し始めた男に、さすがの総司も虚を突かれた。
「はい?」
「幕臣を襲っちゅう攘夷派のことじゃ。おまんも、そう思わんかえ?」
「そうですねぇ……」
「わしのセンセがいいゆう。こん国は変わらんといかんと。わしもそう思うちょる。異国とまともにやりおうても、こん国のためにならんちゃ。こん目で異国船を見たが、あげな船はこん国にはないきに」
総司は異国船をみたことはない。それゆえに異国や異人に畏怖や嫌悪が涌かないのか、それとも単に関心がなかったのか、男の話になかなか実感が湧かない総司であった。
「あ、すまん。勝手に話しかけてしもうて……。堪忍しとうせ」
男が一方的に話し終えて、頭をかき始める。
男は土佐藩脱藩郷士、坂本龍馬と名乗った。
北辰一刀流・千葉道場の門下生らしいが、悪い人ではなさそうである。
「坂本さんは、攘夷派なんですか?」
「わしのセンセの言葉を借りるなら、ちと違うのう。こん国がどういたら異国に勝てるかと聞いちょったら、センセはこういいゆう。異国のええところは受け入れ、こん国を強くしゆうと。それがこん国の、尊王攘夷じゃと。そがなことを聞いちょったら、わしの目も覚めた」
「わたしには、難しい話はわかりません」
総司は苦笑して、視線を落とす。
「べつにええき。けんど、こん国が変わらんといかんのは事実じゃ。ほいたら」
「――坂本さん」
去りかけた龍馬をなぜ呼び止めたのか、総司にはわからない。
「なんじゃ?」
「また会ったら、お手合わせお願いできますか?」
龍馬は瞠目したあと、笑った。
「また会えたら、の」
賑やかな男が去り、総司は笑う。
まるで突然振り出し、何事もなかったように晴れる通り雨のような邂逅。
この国が変わるなら、自分たちも変わるのだろうか。
だがつい、長居しすぎた。
総司は浅草に背を向けた。
試衛館だけは、あそこの人たちは変わってほしくないなと思う総司の背を風が押した。
総司はもう、自分の進む道は決めている。
たとえどんなことがあろうと、彼らと一緒に進むのだと。




