序章
「いい天気だなぁ……」
この日、多摩での出稽古を終えて江戸に戻ってきた青年は、市谷八幡神社近くの茶店に寄ることにした。
注文した団子を待つ間、何気なく見上げた空に目を細め、そんな言葉を口にした。
旧暦七月――空はいかにも夏らしい青さを湛え、大川(隅田川)の辺りまで広がっている。日差しは遠慮なく降り注ぎ、八幡宮の杜では蝉が忙しく鳴いていた。石段を上る参拝者も、汗を拭いながら足を運んでいる。
茶店の縁台は庇のおかげで日陰になっているものの、生ぬるい風だけは避けようがなかった。
「沖田さん、今日も出稽古の帰りで?」
青年の脇に、煎茶と団子を置いた茶店の主が、そう声をかけてきた。
すでに何度か訪れているせいか、主にはすっかり顔を覚えられていたた青年――沖田総司は「ええ」と答えて、皿を手にした。
団子には香ばしい焦げ目がつき、甘辛いタレが艶やかに絡んでいた。
そんな総司の前を風鈴売りの棒手振りが涼やかな音を立てて通り過ぎ、駕籠かきが「えいっほ、えいっほ」と声を合わせ、辻を曲がっていく。
「本当に世が変わったのかな」
咀嚼しおえた団子片を飲み込み、彼は誰に言うわけではなく口にした。
ある男が青年のこの言葉を聞けば「お前は呑気でいやがる」と、言いそうである。
(この時世ですからね。決して呑気なわけじゃないんですけれど)
その男の顔が頭に浮かび、彼は苦笑した。
今の世は以前に比べれば、確かに忙しないかもしれない。聞くところによると、天下泰平といわれた德川の世は、米国から来たという異国船によって、鎖国体制があっけなく瓦解したらしい。それが、今から六年前のことだという。
だからといって幕府内で何が起きているのか、一介の町道場塾頭である彼にはよくわからないが。
「沖田先生、お団子もう一串どうです ?」
総司は首の後ろを掻きつつ、「嫌だなぁ。その《《先生》》は勘弁してください」というと、主人はさらに笑みを深くした。
「門弟の方々に稽古をつけられているというじゃありませんか。手前は剣術のことはよくわかりませんが、若先生からお噂は聞いております」
総司の中で若先生とは、一人しかいない。そもそもこの店の団子を絶賛し、最初に通っていたのはその若先生なのである。
「もしかして、ここにまだ《《若先生》》寄ってる ?」
「沖田先生ほどじゃありませんが、月に二、三度」
さすがの総司も、これには笑えなかった。その若先生は煽てやお世辞に弱く、気が大きくなるのだ。店に通うのはいいが、話を大きくするから困ったものである。
いや、それどころではない。
本来ならとうに道場に帰っている頃である。
総司は団子二串分の代金を置くと縁台から腰を上げ、刀を腰に差し込んだ。
「ごちそうさま」
総司はそう言って道場がある、市谷甲良屋敷の方角へ向かったのであった。
✤✤✤✤✤✤✤✤
市谷最大の武家屋敷、御三家・尾張徳川家の前を通り過ぎ、総司が市谷甲良屋敷裏に着いたのは、九ツ半の鐘と同時だった。
総司が剣術を習う道場は、この甲良屋敷裏に位置していた。
門には天然理心流・試衛館という看板が堂々と飾られているものの、お世辞にも立派とはいえない。
土塀は崩落の跡があり、裏木戸も何度か直された跡がある。
奥にひっそりと鎮座する稲荷の祠は苔むし、小さな鳥居で、もうすこしで切れそうなしめ縄と紙垂が風に揺れていた。
木戸を通ると道場主・近藤周助邸の庭に出る。
近藤家は内弟子も住まわせていたが――。
「よぉ、総司。裏から帰るとは何やらかしたんだ ?」
総司に声をかけてきたのは、長身の男である。
着物の前は大きくはだけ、晒に巻かれた腹まで覗いている。この男の名を原田左之助といい、内弟子でも通いの門弟でもなく、いわば居候のひとりで、長槍が得意らしい。
近藤家には、この手の居候が数人いる。
「人聞きの悪いことをいわないでください、原田さん。何もしちゃいませんよ」
井戸端で顔を拭い終えた総司は、そう言って原田を再び視界に入れた。
「だってお前、土方さんによく怒鳴られているじゃねぇか」
それは___といいかけて、総司は理由をいわなかった。
「近藤先生は ?」
総司のいう近藤先生とは、道場主である近藤周助のことではない。原田もそれをわかっていて、
「四代目なら留守のようだぜ。何処かの家に招かれたんだとよ。いいねぇ、きっとここじゃ食えねぇもんが膳に乗るだろうよ」
と、本気で羨ましがっているようだった。
それは確かに、とは思いはすれ、口にしなかった総司であった。
総司は庭から廊下に上がると、荷物を自室に置き、ある部屋へ向かった。
稽古の時は打ちあう木刀の音が稽古場から聞こえてくるが、通いの門弟が帰ってしまうと邸内はひっそりする。軒下から空を見れば、強い陽射しは深く張り出した庇に遮られ、そこだけがひんやりとした陰になっている。
簾の目を抜ける風が、畳の青い香りを運び、風鈴がちりん、と細く澄んだ音をひとつ鳴らした。
総司が目的の部屋の前に立った時、それまで物音すらしなかったのに、忙しない音が聞こえてきた。それが何なのか察しはついたが、総司は残念に思った。
あるものが見られなくなったからだ。
「土方さん、わたしです」
部屋の主が返答するより先に障子を開ければ、男の鋭い視線とかち合った。
「開けてもいいいと言ってねぇが ?」
男は文机の横に座り、両腕を組んで総司を睥睨している。
髪は総司と同じで剃りなしの総髪、後頭部の高い所で一つに束ねた髪を背に流している。
顔はいいのだがこの男、眉間にしわを刻んでいることが多い。
年は試衛館次期四代目・近藤勇の一つ下。今年の春に試衛館の内弟子となった土方歳三である。明らかに歓迎されていない表情の歳三に、怯む総司ではなかった。
「真昼間から部屋に籠っていると茸が生えますよ」
ほんとうに茸が生えるかはともかく、よく飽きもせずと総司は思う。この男が部屋に籠る理由は彼の密かな趣味のせいだ。それは総司が兄とも慕う勇でさえ知らない。歳三の趣味を知っているのは、総司だけなのである。
といっても偶然知ったのだが、歳三は勇に知られるより総司に知られてしまったのが気に入らないようだ。
「うるせぇ。俺の勝手だ」
一段と物騒になる歳三の視線もなんのその、総司は構わず彼の怒りに火をつけた。
「相変わらずの仏頂面で何よりです。豊玉先生___」
その名を出した途端に湯呑みが飛んできて、総司が受け止めた。
「危ないじゃないですか。死んだらどうするんです ?」
「湯呑みが頭に当たったくらいで死ぬタマじゃねぇだろ」
歳三はふんっと鼻を鳴らして、まだ睨んでいる。
「でも湯呑みが割れるじゃありませか。最近は物の値が上がったと聞きました。次は、茶碗がツギハギになんてことになります」
試衛館もそうだが、寝泊まりしている近藤家の懐事情もよくはない。
裏木戸が壊れていても職人に払う金がない。払えたとしても、食膳に乗るものが一段と貧素になる。
総司は子供の頃からこの近藤家に内弟子としており、内情をそれなりに知っていた。
「その冗談、現実的過ぎて笑えねぇな。近藤さんの性格は時に困るこった」
そう笑えない。
道場の門弟は多い方ではない。
しかもその多くが、近藤家と似たりよったりの家柄の子弟たちか、自衛のためと称して通ってくる農村や商家の出だ。
出稽古にいけば多少なりの謝礼は出るが、やはりもう少し門弟を増やさねば、傾きかけた試衛館がいっそう傾く。なのに四代目となる勇は豪快に笑っているだけで、算盤勘定は苦手ときた。
「近藤先生なりに考えていると思いますよ。わたしは別に困りませんけどね」
総司は部屋の中を見渡すが、やはり見たかったものは見当たらない。
「まさか、こんな所だったとは思ってなかったぜ」
歳三はそういった。
彼は試衛館の内弟子となって半年になるが、ここに住まないかと歳三を誘ったのは、勇らしい。勇は来るもの拒まずという男なのだが、門弟以外の人間まで歓迎する。
人が増えれば食費も嵩むのに、だ。
「大先生に聞こえますよ。正式入門して半年もせずに破門だなぁんてことになっても ?」
総司のいう大先生とは試衛館道場主であり、天然理心流三代目・近藤周助のことである。最近は稽古場に姿を見せることはなく隠居のような存在だが、足腰も頭もまだ達者だ。
「お前の道草もどうかと思うぜ」
歳三は腕を組んだまま、再び視線が鋭くなった。
「はい ?」
「惚けたって無駄だ。義兄さん所から帰ってくるのに今時分になるか?おおかた、八幡前の茶店で団子を食ってたろうが」
今日の総司の出稽古先は、甲州街道十番目の宿・日野にある佐藤道場で、道場主は歳三の義理の兄にあたる。
日野から江戸まで多摩川を渡るに時間を要したとしても、確かにそんなに遅くはならない。
「よくご存知で」
「お前をあの店の常連にした張本人が身近にいるからな」
市谷八幡前の茶店は、どこにでもある至って普通の店である。ただここの団子がとても美味く病みつきになったと言った男がいた。その場に二人もいたので、総司は歳三のいうのが誰かすぐにわかった。
「近藤先生ですか」
歳三は否定しなかった。
確かに総司があの店の団子好きになったのは、勇の影響である。
「ところで例の辻斬り、今夜も出ると思います?」
話題を変えた途端、歳三から怒気が引いた。
ここ最近、江戸市中には辻斬りがでるのだ。
「出ねぇことを祈りたいが、血を見てぇという馬鹿な奴なら出るんじゃねぇか ?ま、とっ捕まえるのは役人の仕事だ。俺たちにはなにもできねぇよ。だろ ?総司」
「でもその馬鹿な奴の顔は見たいと思いません ? 土方さん」
「それこそ破門だぜ ?」
喧嘩は法度だが、意味のない抜刀も法度である。
「そいつと同じことをしたらそうなるでしょうけど、切り口からかなりの腕らしいですよ。気になるじゃありませんか」
総司の興味は尽きない。
実戦の機会は今の世になく、といって辻斬りのように人を斬りたいとは思わない。だがいつか真剣で立ち合ってみたいと思うのは、剣を真剣に学ぶ者のさがではないか。
歳三の口角がにっとあがる。
「面見るだけじゃ済まなくなるぜ ?」
「怖いなぁ。わたしより興味津々に見えるんですけどねぇ」
物騒な話題をしつつも、総司の口調は変わることはなく、話はいつ見に行くかとの話になっていたのであった。




